Diary: 2019/05/03

4月はそこそこ慌ただしく、そこそこ穏やかにへらへらのほほんと過ごした。

説明可能なものに対する関心がどんどん薄れていってほとんど皆無という淵で、しかしまぁそんな人でなしが相談相手になって打ち返してみた言葉がそれなりに役に立つようなこともあるようで、それでおまんまを食っているのか、何にお金がついているのか曖昧ではあるが、おかげさまでそれなりにご機嫌愉快に社会人類をやれている。

ちょっとでも最適化しそうになるとすぐ引きこもりたくなるけどね。

ここ最近立て続けに、幾人かの友たちの世界制作のプロセスにことばで伴走するような形で声をかけてもらい、彼らの精神の美しさに触れさせてもらうような気持ちの良い時間であった。彼らの精神を体現していて、それでいてゆらぎと拡張性があり、手垢がついておらず、彼らの営みと身体感覚にそぐうボキャブラリーを探っていくような作業である。時間を共にして風景画を描いている、とも言える。

これは労働時間をいくらかけるという問題ではなく、歴史のアーカイブからモチーフを引っ張りだしてきたり、道草をしながら音や空気を拾ってくるようなものだから、僕はもっともっと「ヒマであること」に真剣になるべきなんだと思った。

そんなことをしていたら自分の著書の作業があんまり進まないまま4月が過ぎてしまったのでもう少しお尻に火をつけながらがんばろうとは思う。

クリムト展へ行った。

絵画なり写真なり、ちゃんと美術館に行って原画を観るというのはとても豊かな時間で、やはりウェブでタイムラインにさらさらと流れてくる画像群に慣らされていると、厚みとディテールに対する眼が育たないどころか衰えていきそうなので気をつけたい。

早くわかりやすく売れてくことが正義かのような風潮からはどうしても影響を受けないではいられないので、20代〜30代ぐらいの私たちはどうしても焦るのだろうけど、画家の生涯を辿ると長いものさしに立ち戻れて少し安心する。先人たちは40や50になってがらりと違うモチーフや作風にいったりして、その中で試行錯誤を続けていたりする。とにかく思考と筆を止めないということと、ゆっくりだとしても回数を重ねていくということ、新しいことに挑戦するのにこれからまだ遅くはないということを胸に刻んだ。

美しい精神に触れていたい。

愛情とさみしさは紙一重だねって話をした。

気づいたら豆苗が引くぐらい伸びてたので、ざっくざっくと刻んで、その他野菜室に残ってた野菜たちと冷凍庫に残ってたひき肉と、それからおまけに納豆とを一緒に雑多なチャーハンをつくった。同じく冷蔵庫に残っていた冷や飯一杯分より具材の方が多いぐらいだったが、美味しかったのでとても満足である。

在庫一掃雑多チャーハン。
ザイコイッソウザッタチャーハン。
ヤサイマシマシニンニクアブラ、みたいな。
カタカナにするとなんでも呪文。