恥ずかしかったクマさん

今日はクリスマスイブだ。色々な人がそれぞれの大切な人に贈り物を選び、ある人は今日それを渡すだろうし、ある人は子どもの枕元にそれをそっと置く日なのだろうと想像しながらこれを書いている。

クリスマスの贈り物というのは残酷だ。欲しいものをサンタさんやパートナーに予め伝えられていれば、それをもらえるかもしれないが、そういったやりとりなしに贈られるものは自分にとって全然欲しくないものだったりする。ギフトというものはいつだってある種の暴力で、相手が欲しいものを常に差し出すことができるとは限らない。明日メルカリに大量に並ぶであろう4℃のネックレスがどうか一つでも少ないことを祈るばかりだ。

今回のリレーエッセイのお題は「恥」だけれども、クリスマスイブという贈り物が渡され合う今晩に、「私が贈り物をされて恥ずかしい思いをした、けれど……」というエピソードを今回は書こうと思う。

私の祖母は昔洋装店を営んでいた。その影響もあって、私は幼い頃から「祖母の手作りの洋服」をよく着せてもらっていた。

あれは小学校4~5年くらいだったろうか。かわいいクマさんが所せましとプリントされた布地のコートに、お揃いのヘアバンド。集団登校の集合場所に行くたびに、祖母はママ友(というか保護者達)に「えっこれ手作りなんですか?いいですねえ~かわいいですね!」と言われていた。「さとみちゃん、いいねえ、うらやましいわあ」と保護者達は私に言った。

一方私は、この格好が恥ずかしくて仕方なかった。こんな「誰が見ても手作り」の服なんか、私は着たくなかった。それより、既製服でちょっとおしゃれな恰好をしている友人や、小学生向けのブランドものの洋服を着ている友人たちが、羨ましくて仕方なかった。「うちにはお金がないから、貧乏だから手作りの洋服しか着せてもらえないんだ」と思い込んでいた(決してそういうわけではなかったのだろうが)。祖母が作る服を着なければならない自分が、ひたすらに恥ずかしかった。

年月が経ち、私は大学生になった。祖母はそのときも、私のためにスーツを何着も仕立ててくれた。私は大人になって初めて、祖母が私の身丈の寸法を測り、それをパターンに起こし、布地を裁断し、それぞれのパーツを組み立てていく、そしてそれを「昔の勘」を頼りにやっていることにしみじみと感心するようになった。祖母は何も言わずスーツを「できたよ」と突然私にくれたけれど、どのくらいの時間がそれにかけられているか、私には知る由もなかった。いつのまにかかけられた魔法のようにスーツやジャケットは完成していて、「できたよ」という声を聴くと肩幅から袖口までぴったりと私のサイズに合ったスーツが私に贈られるのであった。それを私は、心から喜び、誇りに思うようにもなった。「大切な人がつくってくれた、私のための、私だけのスーツ」というものを着られることの有難みを、心から感じられるようになったのだった。

幸いなことに、祖母は今も健在である。しかし、祖母は服を作ることをやめてしまった。様々な理由から、昔から使っていた大きな工業用足踏みミシンを手放したこと、視力が落ちて手元の作業をするのが難しくなったことなどがその原因だろう。

今、祖母は東京に住んでおり、私は京都に住んでいる。最後に東京の祖母に会ったとき、私は祖母のワードローブを見せてもらった。そこには祖母が自分のために作ったワンピースやはおりものが僅かに残っていた。私はそれを「これもらっていい?」と訊いた。そうすると祖母は「私はもう着らんから、好きなものを持っていき」と言ってくれた。そうしてもらった一着のワンピースは、今の私の感覚から見てもすごくお洒落で、袖を通すと自分が一回りも二回りも素敵な女性になったような気分になるものだった。祖母が意図して贈ったものではないが、私にとってそれは完璧な「贈り物」だった。

「あぁたのウエディングドレスを、いつか作ってやるけんね」

私は今年結婚をし、式は挙げなかったけれど、祖母に結婚について報告すると心から喜んでくれた。しかし、ウエディングドレスを作ってもらうには少しタイミングが遅れてしまった。祖母が作ってくれるウエディングドレスを着たかった。人生のタイミングというのは何もかもがうまくはいかないけれど、多分大切なのは、手作りの贈り物を私にし続けてくれた祖母の想いを心のうちに留めて置き続けることなのだろうと思う。それは、小学生時分の「恥ずかしい」という私の甘酸っぱい感情も、ぴったりのスーツを作ってもらったときの「嬉しい」という感情も含めて、全てが私への贈り物だったのだということを、人生の中で宝物として受け止めることでもある。

今日何かプレゼントをもらった人へ。明日プレゼントを開ける子どもたちへ。それはもしかすると、「自分が欲しかった」プレゼントではないかもしれない。つけるのも恥ずかしい指輪や、持つのも恥ずかしい鞄かもしれない。全然いらないと思えるものかもしれない。でもね、それを選んだ人はきっと、あなたのことを心から愛しているのではないのだろうか。あなたに振り向いてほしい、喜んでほしいという気持ちがこもっているのではないのだろうか。貰い手ががっかりするような贈り物にさえも、きっと愛がこもっていることはあるんだということを、今日このクリスマスイブの夜にそっと想いながら、筆を置こうと思う。よいクリスマスを。