禍福は糾える縄の如し―2022年6月29日の日記

 眠くて眠くて、起きれども気がついたら眠ってしまっている日が時々あるのだけれど、今日はそういう日だった。朝7時前に一度起きはしたのだ。息子に朝ご飯を食べさせたことは覚えているけれど、その他の記憶がない。眠気に勝てずに何かをしては寝転ぶ私に、息子は「ママ、ねちょっていいよ」「いってきます。かぎ、しめちょってね」と言ってくれた。なんと優しい子だろう。成長も感じてうれしい。

 昨日はいくつか疲れることがあって、それらをここで詳らかにするつもりはないが、何かを失うことは、何かを得ることとはイコールではないけれど、そのための空きが生まれることと同義だと私は思う。そんなことをつぶやいていたら、友人が日食なつこの「数える」という歌を教えてくれた。初めて聴くアーティストだったけれど、すぐに「好きだな」と思った。日常的に聴けるアーティストが増えてうれしい。私は音楽が好きだけれど、貪欲さがなくて、自分から新しい音楽を開拓することはあまりない。だから、こんなふうに友人から紹介してもらうことはうれしい。

 ところで、何かを失う話に戻るのだけれど、失う方はある意味気が楽で、誰かの何かを奪うことになってしまう立場の人が、誰よりも責任を感じストレスにさらされるものなのかもしれない。自分に余裕がないと、そんなことはすぐに視界から消えてしまう。でもできる限りそれを思い出したいと私は思うのだ。自分が痛いからと言って、他人の痛みを忘れたりないことにしたりしていいとは私は思わない。何もできないとしても、思いを馳せること、できるなら慮る言葉をかけること、それをできる人間でいたいものだ。なかなかむずかしいときもあるけれど。

 最近、再び本が読めるようになった。うれしい。それまでは気分が昂っていて、読めなかったのだ。音読することから始めて、気づけば黙読でもするすると読めるようになっていた。うれしい。やっぱり読書しているときは「ひとり」だから「私」でいられるんだろう。今は本ばかり読んでいたい。なのに、そういうときに限って忙しい。

 でも、それがなんにせよ嫌ならやめたっていいのだ。誰も文句は言わないし、無理してやることはない。私はいつだってやめる自由を手にしているし、続ける自由も、判断保留にする自由だって持っている。この日記だってそうだ。毎日続ける義務はない。書きたいときに書きたいだけ、書いたらいいのだ。

 夜、畑で採れた野菜をたっぷり使って料理をした。どれも簡単なものだけれど、ちゃんと自分でつくって食べたのはいつぶりだろうか。朝は眠くてたまらず、実際にいつもより寝まくったのだけれど、それがあったから夜に料理ができたのだろう。何事もきっとそういうものだ。何が悪くて、何がいいなんて、一面的には言えない。すべては何かとつながっていて、なんだ、禍福は糾える縄の如しってわけだ。ちょっと飛躍したような気もするけれど、今日の日記はこれでおしまい。