たいした話ではない - 2022/08/30

人と会って一緒に時間を過ごし、その人の話をきき、ものを考え、ときに自分が考えたことを話したり書いたりして伝えようとし、そしたらまたなにかが返ってきたりこなかったりして、ときになにか通じ合えたかのような錯覚を覚え、ときになにかが足りない埋まっていないような痛みを覚え、それをまたどうにかこうにかしようともがいたり、まあこれはひとまずいいかとおいておいたり、時間をあけてやっぱりもう一回こねくり回したり…ということは、その方法はちがっても、人が生きていればみんなそれぞれに日々やっていることであり、その当たり前の日常行為の一部なのか全部なのか、とはいえ適当では済ませられないこだわりなのか美意識なのか自意識なのか欲望なのかをおそらく他の多くの人より強く面倒くさく抱えてしまっている人というのが世の中にいて、そのこだわり方とこだわりの発露、表現、具現化、伝達…の方法によって、手に職系というかクリエイティブ系というかなんというか、カタカナであったり○○家という漢字数文字だったりの肩書きで名乗ったり呼ばれたりする人たちがいるわけで、私も日々やっていることや日銭を稼ぐ手段を事実として見るとそれらの職業群?のいずれかに当たると見えるのは確かだろうし、手っ取り早く話を進めるために自分でもそのいくつかをその場に応じて方便として拝借して名乗ることも無いでもないのだが、とはいえいつもこうモゴモゴと奥歯にものの詰まったような話し方になってしまい、それは別に不満だとか納得してないとかそういうことでもないのだが、しかしそれは自分が認識し生きている「現実」の、自らのありようとは、やはり事実として重ならない、はみ出る部分が大きく、かといって無理に完璧に説明したいとも思っていないとは思うのだが、いつもまどろっこしい話し方になってしまって難儀だなぁと、うん、面倒とか嫌とか不満とかじゃなくて、難儀だなぁというのが一番近い。