朝、ムスメを園に送るとき、そのまま出かける予定がなければ、スマホを家に置いて出ることにしてみた。なかなか良い気がする。
帰り道、お仕事中のゴミ収集車を通り過ぎた数秒後、背後から「うわー、やってもた!」という叫び声が聞こえたので振り返ると、ゴミ袋の中身が散乱してしまっていた(これ書くときに最初”産卵”って変換された。ゴミ袋の産卵)。ゴミ集積所から袋を拾って、おそらくその流れを利用して、身体をひねって収集車に投げ込もうとしたのだろう、で、ちょっと勢いなのか目測なのかを誤って、収集者のお尻にいい感じにシュートするはずが、ちょっと上とか下とかに当たっちゃって袋が弾けたのだろうな、たぶん。見てなかったけど。清掃員さんの「うわー、やってもた!」の声がほんとに「やってもた」感じがして、妙に印象的というか、好感を覚えたというか、はい、ただそれだけです。そんなこともあるよね。お疲れ様です。
家に帰らずに近所の松屋に入ってパソコンを開き、これまたオフラインのまま前日の日記を書いた。僕はよくこの「カフェ松屋」で読み物や書き物をするのだけど、それを友人に話すと「なんで松屋???」とクエスチョンマークを浮かべられるわけだが、正確にはここは「松屋」と「マイカリー食堂」併設店舗で、マイカリー食堂の方のサイドメニューにコーヒー100円・おかわり無料というのがあり、それだけ買って作業や読書をしながら2,3杯飲んで、店を出るときにもう1杯おかわりを入れて帰宅、という、なんとも貧乏くさいことが出来るからである。
月曜の日記で藤原帰一先生の最終講義について書いたが、Facebook公開投稿で、先生ご自身が講義のことや教員生活のことなど振り返られておられたので、よかったらどうぞ。URL:https://www.facebook.com/kiichi.fujiwara/posts/10221655682004738
日記を書いてから家に帰り、今日こそがんばるぞと論文に着手し、珍しくだいぶはかどりまして、終わらなかったのだけど本文の清書が半分ぐらい進み、3度目だか4度目だかの正直で、これはあと1,2日で完成射程圏内ではないかという状況にようやく行きまして、立岩先生に何回目かのもう少しです出来たら原稿送りますの時間稼ぎメールを送りましたとさ。午前で一旦執筆を止めて、いくつか今日中にやらなきゃならない別の仕事の資料をつくった。
近所の風呂屋で有給満喫中のツマからチャットが飛んできて、なんかTwitterで流れてきて見つけたこの古本屋が素敵、と。へええ。
閒のSlackでみんなにも共有したら、古本屋とか貸本屋とか図書館とかやりたいねぇという話が盛り上がった。そのまま、各地のユニークな書店情報が色々集まってきた。
http://www.merry-go-round.co.jp
https://mu-navi.com/book-road/
https://sotokoto-online.jp/social/3196
https://shoin-wakamatsu.sakura.ne.jp/100booksellers/
https://nekohon.tokyo/bookshelf
https://twitter.com/passagebyar?lang=cs
物理スペースを持つのは、いつかはやりたいもののなかなかハードルが高いので、たとえば、僕や閒のメンバーの自宅にある書籍情報をオンライン目録にして、なんらか貸し借りできるようにするとか、そのプロセスを連載企画にするとか、なんかこう大人の部活、自由研究的に小さく始めるのが良いかもしれない。
夜、田町へ移動してWITH ALSの定例会議へ。出合いはもう6,7年前で、そこから色々取材やらイベントやらでご一緒してきて、ここ一年は運営メンバーの一員として色々組織づくりとかMOVE FES.の運営とか色々ガッツリ関わってきたのだけど、ここしばらく体調がだいぶよろしくないので、色々荷降ろしをした方が良いと考え、前の週にマサさん(代表の武藤将胤さん)とメッセで相談して、定例会議に参加したり定常的にタスクを持ったりチーム運営に関わったりといった業務はしばらくお休みにさせてもらうことにして、そのことを他のメンバーにもミーティングでお話した。ゆっくり休んでください、関わり方はかわっても引き続きよろしくお願いします、などとみんなにも暖かい声をかけてもらってありがたかった。マサさんが帰り際に一言「かわらずね」と言ってくれたのが沁みる。そう、変わらず、なんだよな。業務がどうとかじゃなくて、友である、仲間である、ということ。
先日読んだ「ドライブ・マイ・カー」に続いて「イエスタデイ」を読む。村上春樹の短編集『女のいない男たち』収録、2つめの短編。生まれも育ちも大田区田園調布で、熱狂的な阪神ファンであり、外国語を学ぶかのように熱心にトレーニングを重ね、大阪の天王寺区での「ホームステイ」まで行い、ほぼ完璧な関西弁をしゃべることができる男、木樽(2浪中)と、芦屋出身であるが上京して次第に標準語をしゃべるようになった「僕」=谷村(早稲田)の物語。芦屋出身と答えるとすんごいお金持ちと思われてしまうのが嫌で「神戸の方」とぼかすようにしている谷村の気持ちめっちゃわかるってなった。僕も実家のある場所だけ「住吉山手」と答えると、関西の人には、芦屋ほどではないにせよそういう反応をされてしまうのだが、谷村も僕も、「そういう地域」の中でも別に金持ちエリアではない中流家庭の家に住んでいるわけで、地味にめんどいのだ。似たような経験をした人はそれなりにいるだろう。
それはさておき、木樽という男が語る「分裂」感覚、周囲から「普通じゃない」と思われるようなことを確かにしているのだが本人としては一定の筋道というか、しごく自然な流れでそうなってしまったとしか言いようがない感覚、思考、生き方というものをどう扱えば良いか、など、浪人〜大学生という年代においてそれは顕著な痛み、悩みとして経験されるわけだが、いま現在の僕や、これを読みながら思い浮かんだ幾人かの友人たちのように、30代半ばに至ってもなお、それをごまかして社会と折り合いをつけるスキルを一定身につけつつも、引き続きそういう悩みを抱え続けてもがいて分裂している、という人たちが、世の中にはいるのだ。
村上春樹という作家の作品/文体/モチーフについては、短編をまだ2本読んだだけなので僕がどうこう述べるつもりはないけれど、作品に実際に触れる前からネットでネタにされてきたものをたくさん目にしてしまったので(つまり、パスタとかサラダつくって食べてたらいつの間にかセックスしてる、みたいなやつ)、そのイメージがやや邪魔になるけど、作品で描かれていること、描こうとしているであろうこと、は案外まっすぐというか、うん、そう、そういうことあるんだよな、と、割とスーッと入ってきた。文体や描写含めてこれからハマるかどうかはわからない、五分五分だなという感じがするけど、この短編集を一日ひとつずつ読むのは、今のところ、自分にとってなかなか良い読書体験。