2月が半分終わって15日。月曜はじまりの7×4=28日で、今年の2月はとてもわかりやすくていいですね。第3月曜日、僕は忘れずに「小物金属」のゴミを出すことが出来ました。
「アパートメント」今期の当番ノートより。「いろいろな時空間」
感じるものはきっと、確かにそこにいらっしゃる方なのだと結論を付けて、もう好奇心で探らないようにしよう。と思いました。
試したり、確かめたりしない。きっといるんだろうな、生きてるんだろうな、と思う。それだけで良いのかもしれない。そしてこれは、死者や霊魂に対してだけでなく、「他者」との程よい距離感(いい意味での無視)、にも通じるなぁと思う。
ほどよいディスタンス。
僕が以前インタビュー記事を書いた「カプカプ」という喫茶
https://soar-world.com/2019/12/12/kapukapu/
店長のスズキレイジさんの言葉↓
仕事を分けるとか、事業所で過ごす空間を分けるっていうことを、単に「AさんとBさんは相性が悪いから分けよう」という考えでやると、人と人が繋がる可能性がゼロになってしまいます。そういう方法は取りたくないなと。
お互いがまだ警戒していて喧嘩が起こるような状況で、ずっと同じ空間を使い続けていたら関係修復できなくなっちゃうので、一時的に少し離す、ということはあります。
そういう意味では、メンバー同士のことを考えて住み分けをしている面もありますが、現実はそれほど単純には決まらない。いろんな出来事の積み重ねで、そこにいる人同士の関係性って変わっていくんですよ。
人と人がつながる可能性は消さないで、いろんな仕掛けを重ねていく。するといつの間にか、メンバーさん同士の関係もほぐれていったりします。
地の文で僕が書いたもの↓
カプカプという場における「選択肢」は、目の前に扉が3つだけあってその中から選びなさい、という類のものではないように思う。そうではなくて、カプカプという小さな球体の惑星があるとしたら、どの面に着地しても良いよ、というようなイメージだ。
メンバーさんは、着地した場所で見つけた素材を使ってそれぞれに表現をする。気に入ったならそのまま定住しても良いし、ちょっとしっくり来ないなと思ったら、別の場所に移動しても良い。移動した先で気の合う仲間に出会えるかもしれない。人が増えて混んできたら、またちょっとずつ移動しながら住むエリアを微調整する。スタッフが新しい素材を持ってきてくれることもある。
そうした日常の営みの中で、僕たち訪問者は彼らの表現と出合い、歓待を受ける。喫茶も、コピー機やトイレの貸し出しも、リサイクルバザーも、ものづくりと物販も、ワークショップも、どれが一番、ではなくて、そのどれもがメンバーさんによる表現のひとつのかたちであり、彼らの人となりに触れる接点のひとつでもあるのだろう。
それから、鹿児島の「しょうぶ学園」
https://soar-world.com/2019/02/28/syoubugakuen/
地の文で僕が書いたもの↓
まず第一に、本人がやりたいことをできるように環境を整える。その上で、出来上がったものを外に発信・販売する際は、必要に応じて手を加える。それらの判断はしょうぶ学園のスタッフの仕事になるわけだが、これは決して「コラボレーション」ではないのだと福森さんは語る。
作り終わった旬の素材は、彼らにとってはもう興味の対象からは外れている。それを拾い上げて外にどう届けるかのアイデアと方法を「マッチング」させているだけ。そこには世間一般で言われる対話や共創、コラボレーションといった要素はほとんど生まれない。
「完成の悲しみ」と「完成の喜び」、2つの世界が絶妙な距離感を保ったまま、併存している。
施設長の福森伸さんの言葉↓
禅の世界でも、無になろうと修行する人も多いんですけど、なかなかそっちの世界に行くことはできません。それでもやはり、彼らに近づきたいと僕は思っている。
でも、なれないの、僕らはね。
なれないからこそ、共存したいと思っているんです。
対話とか共感が大事だよねって良く言われる昨今ですが、それはそれで大事なんだけど、一方で、相手の存在を感じ、尊重した上で「放っておく」「干渉しない」というのも、必要なことがあるんじゃないかなって思う。
分かり合えないけれど、共存する、ということは可能なはずだ。
同じく「アパートメント」の当番ノートより、「現代人にはきっと退屈が不足している。(シベ鉄横断記憶その1)」
近頃、あまり退屈していないなあと思う。毎日が充実しすぎて溢れちゃうというわけではなくて、「退屈な時間を許容」できなくなっている。 社会人になってから、少しでも能率をあげるべきだと、すきま時間も何かに「生かせる」のではないかと考える癖がついた。
油断するととにかく隙間を浸食されやすい現代社会です。「隙間」なのに油断できないってどういうことだってばよ。
スキマ妖怪の力を借りたい。
隙間とスキーマ。
市村弘正『「名づけ」の精神史』を引き続き読んでいるが、めちゃ面白いな。
私たちの思考と感情は、何よりも、物事をすべて自己の統制のもとに置こうとする志向によって支配されているようにみえる。この社会における努力の方角は挙げて、「予定外」の出来事の回避、つまり驚きや疑いをもたらす「混乱」を消滅させることへと向けられているように思われる。このような志向と、そのための社会的および心的作業とを貫いているのは、ほかならぬ未知なるものとしての「他者性への恐れ」(R・セネット)ではないか。
p.77-78「精神の現在形」
他者性への恐れから、コントロール範囲をどんどん広げていく。行き着く先は「失敗」や「想定外」の否認と無限の自己責任だ。
「落ちこぼれじゃなかですもんね。失敗したから失敗の会ちゅうわけです。人間だから失敗もあるじゃろう」というそれ自体は変哲のない言葉が、観る者に突きささってくるのは、私たちの生きる世界に「失敗」がいかに成り立ちにくくなっているかを、それが鮮明に浮き彫りにするからである。
安楽と効率を指向し、そのための計画とプログラムによって覆いつくされた社会生活においては、そのプランの実現を阻み害とすると考えられる事態は極力、遠ざけられ回避されなければならない。そういう事態を招いてしまった者やその渦中で苦しむ者は、プログラムに対する見通しの甘さと計算能力の不足を示すにすぎないのであって、まさに社会の「落ちこぼれ」として片付けられざるをえない。
p.100-101「『失敗』の意味」
怒られては謝り、を繰り返し、30数年生きてきて、僕は自分のことを疎外してきたのかもしれない、と、色んなシーンがフラッシュバックして、ふと気づいた。
「今宵の一節」は遠藤周作『人生の踏絵』を読みました。
意識して選びとるまでもなく、気づいたら着せられている「洋服」を、脱ぎ捨てるわけにはいかないから、自分のからだに合うようにどうにかこうにか仕立て直していく。