朝食をつくって3人で食べ、自助グループにでかけ、帰ってきてから公園で遊ぶツマとムスメと合流し、ひとしきり遊んでから帰宅し、大学院の出願書類の準備の続きをやったり、ゴロゴロしたり、読書をしたりして過ごす。
公園には上に乗って揺らして遊ぶタイプの犬がいるのだが、背中には乗るためのくぼみが3つあって、ムスメの指示にしたがって一家3人で乗り込むなどした。平和。セルフィーを撮ったがフレーミングが絶望的に下手。
ペットボトルのミルクティーを飲もうとしてこぼしてしまい、自分でティッシュを取ってがんばって拭こうとするムスメをみて「おてつだいしようか?」と声をかけたら「じぶんでするの!くやしいから!」との返答。こぼしてしまったことに対しての「くやしい」なのか、親が介入することに対しての「くやしい」なのか、またこの言葉が一般的に想定される「悔しい」の感情とどの程度対応しているのかは確かめようがないが、ムスメの口から「くやしい」という、感情を示す新しいボキャブラリーが表出されたことを、なんだか嬉しく思った。
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北條民雄『いのちの初夜』を引き続き読んでいる。
”患者たちは決して言葉を聴かない。人間のひびきだけを聴く。これは意識的にそうするのではない、虐げられ、辱ずかしめられた過去において体得した本能的な嗅覚がそうさせるのだ。”
どこかの古本屋の軒先に100円で打ってあった、ボロボロの新潮文庫、トルストイ『光あるうち光の中を歩め』を読む。
”もしユリウスに、お前はここ数年間幸福だったか、不幸だったかと訪ねたとしたら、彼は返答に窮したに違いない。要するに彼は、非常に多忙だったのだ!彼は一つの仕事一つの快楽から、他の仕事、他の快楽に移って行った。しかしそれ等の仕事のうち一つとして、彼が十分に満足して、それを続けたいと望んだものはなかった。あらゆる仕事が、一刻早く解放されればされるだけ、彼にとっていいのだった。また一つとして、飽満の倦怠が混入し、何かに中毒させないような快楽もなかった。”