私が眠ったことのある場所

「眠ったことのある場所」を思い出すことは、私にとって他の場所を思い出すことよりも特別である。幼少期のいつ頃からか、人工呼吸器を付けなければ安全に眠れなくなった。身体が大きくなると、寝返りも一苦労。私にとって、「眠る」とは一歩間違えると永遠の眠りになりかねない作業であるが、それでも「眠る」という作業は生命維持に必須だから、「眠る」ことは生死の境を彷徨うことに等しい。それ故に、その境の経験としての「眠る」が成立する場所を思い出すことは、聖域に手を出すような危うさがあるし、「眠る」行為自体の面倒さとしんどさの故に場所にまで記憶の糸が辿り着きにくいという困難がつきまとう。しかし、そのような現在の困難故に、かえって遠い過去の呼吸器や寝返りの面倒とは無縁で純粋な「眠る」体験の記憶は、ふつう霞がかってしまう遠い過去の記憶より一層、現在に強く息づいている。これを書いている2021年11月21日の曇り空の彼方、眼に浮かぶのは外気との寒暖差で煙った1DKの団地。

 その日保育園には私の母ではなく、親友の母が迎えに来た。はじめて友達の家にお泊りをすることになった5歳のクリスマスは、曇天とは裏腹にとても心躍る日だった。革の匂いがする乗りなれない車に乗せられ、親友とその母が2人で暮らす団地に招待された。

その部屋にはダイニングキッチンの右側に少し高くなって仕切られた和室があった。今考えれば、私の母が前もってお部屋用のバギーを置いていってくれたのだろうが、気づくとバギーの装着机にクラッシュギアや仮面ライダー龍騎のミニチュアをいっぱい広げて、彼と夢中で遊んでいる。あっという間に外は夜だが、私の育った家と違って狭いためだろう、クリスマスツリーや蛍光灯の灯りが部屋に溢れていて、とても寝る時間とは思えない。パジャマに着替えさせてもらい、また彼と布団の上で遊びを続ける。障子の暗闇には怪人のフィギュアが目を光らせている。薄い色の寝具が何とも温かく、そのままおもちゃとイマジネーションのバトルをしているうちに、眠ってしまう。親友の母が時折寝返りさせてくれるのを感じる。いつもの感触とは違うが、呼吸器も必要とせず、身体も小さい5歳の私が目覚めてしまうことはない。目が覚めると、朝ごはんはチョコレートのクリスマスケーキ。変わらない曇天と冷えきった外には霜がおりている。ろうそくに火をつけて2人で消した。

ろうそくの消えた暗闇の中、眼に浮かぶのは、保育園の給食の後お昼寝の時間。ホールに年少から年長クラスまでの子たちがずらっと布団を敷いて眠る。眠る前に隣の布団の子と静かに話すのが楽しい。毎日違う子が隣に来るけれど、好きな女の子は一向に来ない。でも何百人もいるわけではないのだから、大人の感覚で言えばすぐにその子はやってくる。ませているのか、自他の区別がなくて好奇心だけが突き動かすのか、その子と身体を強く触れあっていく。そのぬくもりの中で私は微睡に沈んでいく。

 いつか私に安らぎや休息としての本来の「眠り」が訪れるその日、それは生に帰還する日であることを願う。その日に続く今日の夢を私は眠りゆく。

(2021Aセメスター講義課題を転載)