「笑うこと」について

 自分が笑っているときに、「あ、いま私は笑っている」と意識することは結構難しいと思う。以前のリレーエッセイのテーマにもなった「眠ること」も、まさに眠っている瞬間を記述しようとしたら同様に難しいが、「よし、布団に入ろう」とか「ふぁぁ~、よく寝た」とか、「眠る」ために多少前後の時間があるから、その僅かな時間については意識できる。むしろ、微睡の中で自分の呼吸音や脈拍を通じて自己を意識することは、生きている実感を獲得しやすい諸々の瞬間の中でも、特に起こりやすいのではないか。ちなみに私は、午前中にうんこをしたあと、天井の一点を見つめているときなんかに自己を意識しやすい。ところが、「笑うこと」は意図してなすことでもなければ、記憶すべきことでもないから、「眠ること」を書くために重要な前後の時間さえもない。それでも、自分が「笑うこと」を意識することができない代わりに、誰かが「笑うこと」については意識することができる。実際、誰かの笑顔を見ることはできる。

 さらに考えてみると、「笑うこと」は「眠ること」と違ってひとりではできない。思い出し笑いならひとりで出来るが、その思い出の中にきちんと笑いの対象があって、しかもリアルに感じられるから、笑うことができるのだ。とするとやはり、思い出し笑いも厳密に「ひとり」とはいえない。

 このように、形式的な次元において私が「笑うこと」について語ることは困難である代わりに、他人の「笑うこと」なら語ることが容易であるということ、次に自分以外の対象によってはじめて私は「笑うこと」ができるということ、この二つの条件から成る「ひとりでできないこと」が「笑うこと」の特徴だと思う。

 そのような意味で、私にとって「笑うこと」が最も相応しいと思われる他者とは、誰を差し置いても、「麦わらのルフィ」である。シルバーズ・レイリーも言っているが、「その麦わら帽子は…精悍な男によく似合う」らしい。精悍とは勇敢さと活力の意だが、ルフィにおいては笑顔が象徴すると思われる。手配書でもルフィは満面の笑みである。最近では『ワンピース』の最終目的地ラフテルが「laugh tale笑い話」の意であることも明らかになった。今回は、ルフィの笑顔をいくつかに分類して考えてみたい。


①無邪気な笑顔

 まず思いつくルフィの笑顔といえば、先述の通り、手配書の満面の笑みだろう。これを「無邪気な笑顔」と呼ぼう。彼はとにかく、よく笑う。しばしば目がひし形に輝いている時もある。たとえば、航路上の都市や島を初めて訪れたとき、特徴的な個性のある他者と遭遇したとき、果ては「食べられる」と自らが判断した獲物を目の当たりにしたとき、彼は決まって「すんげェなぁ」と言って目を輝かせる。あまりにもその描写が多いから、それはルフィの幼稚さあるいは好奇心の強さの特徴づけとして、ルフィ個人の問題に還元されてしまう。その特徴づけは別に間違ってはいないのだが、もう少し機能の問題として考えてみたいと思うと、この笑顔以外にもルフィは様々に笑うことに気づく。とすると、まずもってこの「無邪気な笑顔」の機能とは何だろうか。

 その一例として、私が最もわかりやすいと思うのは、序盤イーストブルーからいよいよグランドラインに突入しようという時の入口、ローグタウンでの「無邪気な笑顔」である。ローグタウン到着時に既に懸賞金をかけられたルフィは、街の治安を担う海軍少佐(到着時点)「白猟のスモーカー」と一度ルフィに撃退されてリベンジに燃える「道化のバギー」に狙われ、かつて海賊王ゴール・D・ロジャーが「ワンピース」の実在を伝えると同時に処刑された運命的な場所でギロチンにかけられる。仲間のゾロ、サンジ、ウソップ、ナミがルフィ救出のために激闘を繰り広げる中、ルフィは満面の笑みでこう言う。

ゾロ!!サンジ!!ウソップ!!ナミ!! わりぃ おれ死んだ

刃が振り下ろされる刹那、稲妻が降り処刑台を破壊。ゴム人間のルフィは雷撃をものともせずに一人立ち上がると、とぼけた「無邪気な笑顔」で周囲を見回すとこう言う。

なははは やっぱ生きてた もうけっ


そののんきな様子に全員が愕然とする。ここにルフィにおける「無邪気な笑み」の機能の基礎を読み解くことができる。結論から言えば、ルフィの「無邪気な笑み」において、いかなる危険も「他人事」となる。

 我々はふつう「笑うこと」において、既に述べた通り、自分以外の対象を必要とする。そのとき、その対象は対象である限り、自分から一定程度切り離されていなければならない。その意味で「笑うこと」に必須の外部の対象とは「他人事」であるが、死や身に迫った危険が対象である場合、その対象は距離を縮めて笑う側の心を支配しようとしてくる。その支配力の背景には、その対象と向き合う笑う側における、予想される未来に対する諦めと本来予想不可能な生を矮小化する自信の無さ、覚悟の弱さがある。そこでは未来を予想するある種の理性が、より根源的であるはずの生を殺そうとする転倒がある。ところが、ルフィにはそのような理性が働かない。

 その証拠に、ルフィは自分より明らかに大きな生物を前にして、危険であるかどうかや自分が勝てるかどうかより、食べたいかどうかを優先する描写が多々見られる。ルフィにおいては、生きることとは食べることに象徴されるのであって、その食欲あるいは生きる意志が理性を支配するという「自然」に従ったあり方がとられる。

 それゆえに「死」さえも、ルフィにおいて最も力を発揮している生きる意志を支配することができない。これはルフィが「死」を支配している、という意味ではない。ルフィもいつか自分が死ぬことを知っているから、処刑台において仲間たちに一応謝っている。しかし「死」が対象として存在しているからこそ、そしてその対象が自分の支配すべきものではないということを「自然」に知っているからこそ、「死」はルフィ自身から距離をおかれた対象に過ぎないのであって、ルフィは決して外部の対象に支配されない。

 もう一つ興味深いのは、「やっぱ生きてた」の意味である。直後に「もうけっ」と述べていることから、この「やっぱ」は「思った通り」というよりは「ラッキーなことに」という意味で理解すべきだろう。ルフィはラッキーな男である。実際、頂上戦争において四皇白ひげの部下たちさえもその場で味方につけてしまうルフィの「無邪気な笑顔」を、王下七武海「鷹の眼のミホーク」は「この海で最も恐るべき力」と呼ぶ。

 したがって、ルフィにおける「無邪気な笑顔」の機能とは、死やあらゆる危険さえも自分の心から切り離し、というより本来切り離されているという「自然」のあり方に還元し、人為的な支配関係を完全に無化するものに他ならない。そして、その「自然」のあり方をルフィは「ラッキー」の一言で完全に理解している。だからこそ、「すんげェなぁ」という「他人事」な言い方が常に可能である。

 しかし、ルフィは以上のことを理性的にわかっているのではない。「自然」にわかっているのである。もう少しルフィが「自然」に笑っている様子を観察してみる。


②悪しき笑顔

 ルフィは「無邪気な笑顔」を浮かべつつも、「海賊」であるという自負を決して失わない。「海賊」が社会秩序と根源的に相容れないということを彼は「自然」に理解している。いかなる危険からも支配されないし、支配しようともしない代わりに、自分がいかなる結末を迎えようとそれを社会のせいにしない、という類まれなる生き方が可能となっている。したがって、「海賊」であるルフィは社会秩序にとって「絶対悪」でなければならない。ルフィはここぞとばかりに悪人面で笑うことがある。

 象徴的なのは、ウォーターセブン~エニエスロビー編の終盤、司法の塔で遂にニコ・ロビンと麦わらの一味が再会するシーン。『ワンピース』の世界における最大のタブーにして既存の世界秩序の起源である「空白の100年」を探究してしまった咎により、歴史から存在を抹消された学者たちの町オハラ唯一の生き残りであるロビンは、幼少より「悪魔の子」と呼ばれ、懸賞金を掛けられての逃亡生活を余儀なくされた。そのとき彼女を支えたのは、かつて心を通わせた巨人族ハグワール・D・サウロの残した言葉である。


よく聞け ロビン… 今は一人だけどもよ…………!! いつか必ず“仲間”に会えるでよ!!! 海は広いんだで…………いつか必ず!!! お前を守ってくれる“仲間”が現れる!!! この世に生まれて一人ぼっちなんて事は 絶対にないんだで!!!! どこかの海で…必ず待っとる 仲間に会いに行け!!!ロビン!!!! そいつらと…… 共に… 生きろ!!! 

麦わらの一味と出会い、ようやく共に生きられる仲間と出会えたかに思えた彼女を、世界政府の秘密機関サイファーポールが逮捕。ロビンは、自分が生きること自体世界と戦うことにほかならないという現実を突きつけられ、大好きな仲間たちに迷惑が掛からぬよう、望んで密かに連行されてしまう。かつて一度も外敵の侵入を受けたことがない世界政府の裁判所エニエスロビーまで追いかけてきたルフィたちに対し、サイファーポール長官スパンダムは世界政府加盟国170ヵ国以上の団結が象徴された「世界」の旗をかざして、その前にはロビンや一味がいかに小さな存在かを誇る。それに対し、ルフィは問題の「悪しき笑顔」を浮かべながら「世界」の旗に火をつけて宣戦布告、一味を包囲する海軍全体が呆然とするなか、スパンダムがかろうじて発した「正気か? 貴様ら! 全世界を敵に回して生きられると思うなよ!」を遮るように、ルフィはこう叫ぶ。

望むところだああああああ! ロビン! まだお前の口から聞いてねェ! 生きたいと言ええええええええ!

この「望むところ」の意味するところはもはや明らかである。ルフィは「海賊」である限り、世界政府の社会秩序としての「世界」を敵に回すことは最初から前提となっていることであって、そもそも「世界」はルフィにとって「他人事」、はっきり言えば自分からほとんど切り離された笑いの対象に過ぎない。したがって、ロビンの絶望感や仲間に見捨てられる前に自分から諦めようとする自己防衛の心が、ルフィには根源的にわからない。それどころか、このわからなさを「自然」の盾として、ロビンもルフィと同様にそのような「世界」との対立を引き受けることが自明とならなければならないとさえ、思っている節がある。「思っている」と言っても当然、このような論理によって「思っている」のではなく、厳密には「自然」によってそう「思われている」のだが。とにかくルフィには、自分以外の他者の背景にある様々な意味の秩序に対する根源的な無理解と、その無理解自体を理解しない徹底的な「独善性」がある。これがルフィの「悪しき笑顔」の本質である。

 実際、直前にロビンが「死にたい」と絶叫するシーンでは、ロビンに対する同情からルフィを除いた一味の全員が険しい表情を浮かべている中、ルフィひとりが例の「無邪気な笑顔」を浮かべている。他のシーンではルフィも一応真剣に険しい表情をすることもあるのだから、その違和感は一層際立っている。そして、直後のロビンに対する一喝というより「命令ならざる命令」において、ルフィは大きく口を開いて「悪しき笑顔」を浮かべて叫んでいるのだ。

 ここで「命令ならざる命令」というのは、「言え」という命令形の違和感、さらにはその「生きたいと」という指示対象の違和感を指す。すなわち、「食べろ」「やれ」というのは実効性を確認しやすい命令だが、「言え」というのは「秘密を」という指示対象が伴わないとほとんど実効性を確認できない。さらに「生きたいと」という指示対象は、「生きる」という事実でさえなく、「生きたい」という願望にすぎない。「生きたい」と言ったら、なにか変わるのだろうか。それを「命令」するとはいかなる事態なのか。

 ルフィにおいて、「命令ならざる命令」は容易に実効性を持つ。現に、ロビンはその命令を受けて号泣、一味を危険にさらしてでも「私を海に連れて行って」という「自己中心的」な願いを一転して叫んでいる。何がこの実効性を支えているのかといえば、ルフィの「悪しき笑顔」に他ならない。つまり、ルフィにおいて「世界」は笑いの対象であるから、当然「視線」を通じて切り離されている。そして、その切断によって「世界」はルフィの「自然」な思考を妨げられない。その代わり、ルフィにおいては視覚よりも聴覚が優位となって、「生きたい」という全ての生物に根源的に内在している「声」を通じたつながりが生まれやすい。そして、その背景には当然「無邪気な笑顔」が控えている。つまり、「無邪気な笑顔」は「世界」という秩序にとって「悪しき笑顔」に見える場合があるのだが、「自然」という絶対的な共通領域の中では、たとえば「生きたい」という「声」が、その決して目に見えない共通性によって他者とのつながりをつくる。より厳密には、その「声」によって「他者」という区別がなくなるからこそ、ルフィの独善的なその笑顔は「命令ならざる命令」をも可能としてしまう。

 しかし、ルフィは「無邪気な笑顔」とも「悪しき笑顔」とも違う、独善的ではない笑顔も十二分に発揮する。以下に考えてみる。


③やさしき笑顔

 ルフィは最終的に独善的な男であるから、自分の好みでない他者の笑顔に対して特異な態度をとる。容易く諦めたり怯えたりする、「笑顔なき者」に対しては「お前嫌いだ」と言ってみたり、名前を全く覚えなかったりする。出会ったばかりの頃のコビーやしらほしなどがこれにあたる。対象としての夢それ自体や夢を持つ者を嘲笑う、「偽物の笑顔を浮かべる者」については、たとえその者に殴られたとしても、全く応戦しない。空島直前のベラミーや「ワンピース」を否定する海軍や賞金稼ぎなどがこれにあたる。そして何より、食事や故郷や自由や生命そのものを支配する、「害悪なる笑顔を浮かべる者」については、例の「悪しき笑顔」でもってぶっ飛ばす。王下七武海クロコダイルやドフラミンゴなどがこれにあたる。この「害悪なる笑顔」を前にしたら、場合によっては、「悪しき笑顔」さえも消えて殺意をむき出しにすることで、「ぶっ飛ばす」に留まらずに致命的なダメージを与えたうえで倒すこともある。新魚人海賊団ホーディや真打ホールデムなどがこれにあたる。これらすべてを明解に説明する紙幅はないものの、「悪しき笑顔」でぶっ飛ばされたクロコダイルとの決着直前の一場面を検討することで、「悪しき笑顔」と好対照な「やさしき笑顔」について考えたい。

 クロコダイルが登場するアラバスタ編は、グランドライン進入直後の双子岬~ウイスキーピークにおけるビビとの出会いからはじまる。ビビは水不足によって内戦勃発寸前の危機に瀕しているアラバスタ王国の王女であり、内戦を裏で操ることによって王国乗っ取りを画策するクロコダイルを内偵すべく、その秘密犯罪組織バロックワークスに潜入していた。その過程で麦わらの一味を襲い、功を立てることで組織内の地位を上がろうとするが、返り討ちにあってしまう。さらには、素性がクロコダイルに発覚したことで命を狙われるが、麦わらの一味が彼女の護衛を引き受けることとなる。その後アラバスタ王国到着までの冒険を経て、麦わらの一味に加入したビビを待ち受けていたのは、クロコダイルの圧倒的戦力と、もはや引けなくなってしまった内戦によって刻一刻増えていく自国民の死傷者の山であった。その中で遂にクロコダイルと相対したビビだったが、ビビのあらゆる和平努力をクロコダイルは「理想論」として切り捨てると、「お前に国は救えない」と述べながら、彼女を宮殿の城壁から突き落とす。最後まで希望を棄てなかったものの、地面に向かって落下していく中で最期を覚悟した彼女は非情な「現実」に対して涙を流す。そこに鳥人ペルに乗ったルフィが「ビビ! まだあきらめるなぁぁぁッ!」の叫びと共に飛来、彼女を抱きとめる(映画版オリジナルの演出か)。ビビは再び希望をとりもどすも、「私の”声”はもう…誰にも届かない!!!このままじゃ国が…!!!」と「現実」に打ちのめされつつある。ルフィは「やさしい笑顔」で語り掛ける。

お前の声なら おれ達に聞こえてる!!!

 ここで再び重要なのは「声」であり、「あきらめるな」という「命令ならざる命令」である。「あきらめろ」なら従ったかどうかが一「目」瞭然だが、「あきらめるな」はどうしたらあきらめなかったことになるのかが指示されないから、「目」ではなく「耳」で応えなければならない。そこでルフィは、先述のロビンと同様ビビに対しても、「命令ならざる命令」という形式で「声」を掛けることによって、ビビの心に秘められていた内なる「声」を引き出す。それは「現実」を超越した「自然」における「声」の共鳴であり、そのつながりによって「笑顔なき者」は笑顔を取り戻すことができる。

 この「笑顔なき者」が笑顔を取り戻すとき、ルフィは「やさしい笑顔」を浮かべる。なぜか。それはこの笑顔が現れる「自然」において、ルフィとその他者との区別が完全になくなり、ルフィの「独善性」は「独」という字に込められた社会秩序におけるネガティブなニュアンスを失い、完全無欠な形で「自己充足」するからである。だからこそ、もしもそれ以前に自然の笑顔を見たことがない他者が相手ならば、ルフィは瞬時に名前を覚えるし、すぐに仲間になる。そして仲間になった瞬間、たとえ相手の武力が劣るという意味の弱者であったとしても、決してルフィが上に立つことはない。モモの助と同盟を組むにあたってみられたように、万一相手が土下座してでもルフィに助けを求めようものならば、相手の額を手で下から支え、頑として視線の位置を上下にしない。ビビの場合で言えば、彼女がアラバスタのためなら自己を顧みないように、ルフィ自身とルフィが「自然」の内に同一視する一味全員の命をも顧みないことこそ、ルフィにとって笑顔に相応しい事態である。そのとき、ルフィは他者を欠いている自らの「独善性」から、他者と完全に同一化した「自己充足」へと脱出することができる。

 このように「やさしき笑顔」の機能を理解することで、いかなる原理でルフィが「敵」を判断しているかがわかる。もはや繰り返しになるが、こうした他者の笑顔に対する価値判断を人為的な論理ではなく、自然の「声」によって判断するルフィにとっては、「害悪なる笑顔」と自らの「悪しき笑顔」に人為的な論理による質的区別がない。どんなに卑劣な海賊も自分自身と同じ「海賊」であり、「海賊」である限り人為的な論理をそこに組み込むことはない。区別があるのは、同一化出来るかどうか、「自然」の内に「笑顔」を通してつながれるかどうかだけである。そして「害悪なる笑顔」を浮かべる海賊はつながることのない他者である点で自分自身と異なり、万一ルフィ自身が同一化した仲間を傷つけた場合には、自分自身への攻撃とみなしてぶっ飛ばす。

 こうしたルフィにとっての「自然」な原理において、「悪しき笑顔」と「やさしき笑顔」は同時に湧き出してくる。すなわち、「声」によってつながった他者はルフィにとってもはや他者ではないし、逆に「声」を持たないことによって根源的に生命を脅かす同一化不能な他者はそもそも生命でない以上、ルフィは何の罪も負わずにこれをぶっ飛ばす。そういうわけだから、ルフィの敵からすれば、ルフィの「無邪気な笑顔」は「悪しき笑顔」として映るし、逆にルフィに認められた仲間からすれば、ルフィの「無邪気な笑顔」は「やさしき笑顔」として映る。だから、実は「悪しき笑顔」と「やさしき笑顔」は同じ「無邪気な笑顔」の見え方の違いに他ならないし、見え方である以上、「笑顔」の定義からしてルフィ本人はこれを区別できない。そしてこの見え方、つまりは「視線」に対する鈍感さ、称賛に対する関心の根源的欠如こそ、ルフィを特異な形で「ヒーローならざるヒーロー」たらしめている。ルフィは「ヒーロー」について、こんなことを言っている。

おれ達は海賊だぞ ヒーローは大好きだけどなるのは嫌だ!! お前ヒーローって何だかわかってんのか!? 例えば肉があるだろ!! 海賊は肉で宴をやるけどヒーローは肉を人に分け与える奴のことだ!! おれは肉を食いてェ!!!

この意味不明なヒーローの定義と「自己充足」的な笑顔の構造にも、実は秘められた一貫性がある。しかしその謎を解くためには、ルフィの魅力的な「独善性」にもう少し踏み込んでみなければならない。


④得意げな笑顔

 ルフィは「視線」よりも「声」にフォーカスするその特異な行動原理ゆえに、笑顔が「自己充足」的であると既に述べた。つまり、自分と他者の区別の原因である「視線」と「見かけ」を「自然」において笑い飛ばし、その「自然」へと相手を呼び込むことで、区別そのものを「笑い」の中で帳消しにして、「ひとりだけどひとりじゃない」状態を肯定して笑う。この状態がルフィの魅力的な「独善性」にして、意味不明で特異なあり方の秘密だが、その異常性が際立つシーンというのは、既に述べたヒーロー解釈の場面同様ギャグシーンに固有のものと思われる。というのも、ギャグシーンはまさに『ワンピース』の読者が「笑い」を通して、ルフィによって「自然」へと引きずり込まれるシーンだからである。そして私にとって印象深いのは、おそらく最も初期にルフィが「害悪なる笑顔」と激突した場面での明らかにふざけたセリフである。

 麦わらの一味の航海士ナミは、海軍を除隊して故郷ココヤシ村でみかん農園を経営する女傑ベルメールに拾われ育てられた。親子のつながりとは違う愛情によって結ばれた二人だったが、人間に並々ならぬ憎悪を抱く脱獄人の魚人海賊アーロン一味によってココヤシ村は制圧されてしまう。みかじめ料を要求する一味に対し、ベルメールは自らの身代金をナミの保証金とし、ナミの目の前でアーロンによって惨殺される。ナミは故郷をアーロンから「買い戻す」べく、涙を飲んでアーロン一味に入り、各地で財宝を盗み出す命がけの仕事に従事しながら幼少期を過ごしたのだった。そのなかで麦わらの一味と出会い、仲間のふりをして彼らの資金を強奪、いよいよアーロンとの約束の金額を集めることに成功する。しかしアーロンは手なづけた海軍将校にナミの犯罪歴を密告、ナミの集めた金品は没収される。それでも故郷のため、再び盗みの仕事をゼロから始めようとするナミに対し、ココヤシ村の人々は絶望的なかたちで奮起。命を落とすことを知った上で、あり合わせの農具や家具でアーロン一味と戦おうとする。ナミの制止の「声」は届かない。そこにナミを追ってきたルフィが現れ、ナミの自傷行為を阻止。大切な「麦わら帽子」をお守りがわりに彼女に預けると、ルフィはアーロン討伐に向かう。しかし、アーロンは人間と異なり、水中で自由に活動ができ、さらには強靭な歯によって石柱も粉々に砕ける身体能力を保持し、その優越的な力をルフィに対して誇示しながら「一人で海から上がることもできないお前に一体何ができる!!」と問う。そこでルフィは「得意げな笑顔」を浮かべて驚くべき反論をする。

何もできねェから助けてもらうんだ!!! おれは剣術を使えねェんだコノヤロー!!! 航海術も持ってねェし!!! 料理も作れねェし!! ウソもつけねェ!! おれは助けてもらわねェと生きていけねェ自信がある!!!

なぜ「得意げな笑顔」で言えるのだろうか。「コノヤロー」という表現に見えるように、もはや逆ギレに近いのではないだろうか。「生きていけない自信」とは、そもそも「自信」が「できる」ということを前提とする以上、語義矛盾ではないだろうか。

 否、これは語義矛盾ではなく、「命令ならざる命令」ならぬ「反論ならざる反論」というべきである。前提としてルフィは「海賊王」を目指していながら、ゴムゴムの能力ゆえにカナヅチである。海を舞台にしながら、主人公は泳げない。したがって、「できる」ではなく「できない」が前提である。しかし、この前提がルフィにとっては「自然」である。すなわち、「泳げない」と見えるとしても、仲間に助けてもらうことによって「泳ぐ」ことができる。これは実はルフィにとって「助けてもらう」ことですらない。繰り返しになるが、ルフィは独善的な男であるから笑顔を通じて仲間と文字通り一心同体になっているのであり、「泳げない」という身体的障害は見かけのことにすぎない。だから「得意げな笑顔」という言い方さえ、厳密を期して言うなら、「徹頭徹尾得意になっている笑顔」と言った方がいい。しかし、私を含めてほとんどの読者は、なぜ得意になれるのか最終的にわからないから、「得意げな笑顔」と言うしかない。

 そして、この「得意げな笑顔」に象徴される「自然」な行動原理は、あらゆる「力の支配」の原理に対して、完全に超越した立場からの攻撃を可能とする。すなわち、「力」を誇示する者はいかなる力であろうとも、常に相対的で「自己充足」することがなく、何かを欠如した状態に留まる。実際、アーロンはナミの航海術を必要とするからこそ、ナミを永久に支配しておきたい。ところが、ルフィは「何もできない」という絶対的な欠如を異常とも言うべき「自信」によって可能性の場に切り替え、そのゆとりに他者を次々に取り込むことができる。これがルフィの「自然」である。

 したがって、この「自然」は逆説的だが、ゾロやナミやサンジやウソップを必ずしも必要としない。つまり、ルフィの「自信」というのは、実は仲間の不在さえも前提としている。ただし、仲間が不在の場合どうなるかといえば、ルフィは「海賊王」になる以前におそらく溺死なり餓死なりしてしまうのだ。しかし、既に述べた通り、ルフィにとって「死」とは「目」によって距離を帯びた対象にすぎない。それはルフィの「自然」にとって、笑いの対象でしかない。だから「海賊王」になるために海に出てはみるものの、仲間と出会うことがなければ、海の藻屑としてルフィは消えなければならない。むしろ、その運命のただなかに突き進むことなくして、「海賊王」になることはできない。ここには致命的な袋小路がある。すなわち、仲間と出会うか否かは「偶然」であるのに、「海賊王」という夢がまったくの不動であるがゆえに、仲間と出会うことを「必然」にしなければならない、という状態。ところが、現にルフィにおいては「偶然」と「必然」が一致する。この一致を「フィクション」によって片づけてはならない。現に私たちは「偶然」の中に生きているし、それをまるで「必然」のように語ることによって、ある生き方のモデルに従うことを目指しながら、同時にそれに苦しんでもいるからだ。

 ルフィの「自然」を象徴する「得意げな笑顔」は、特異な運命論に基づいた「自信」によって生み出されていることがわかった。そして運命論と「自信」の基礎づけ関係を支えているのは、当然「海賊王」という夢である。そして「海賊王」は「ヒーロー」ではない。少なくとも、ルフィは「ヒーロー」を対象化している。最後に「海賊王」を検討する。


⑤真の笑顔

 「海賊王におれはなる」、それはあまりにもよく知られたルフィの決め台詞、むしろ文字通りの代名詞というべき言葉である。すなわち、ルフィとは「海賊王におれはなる」という言葉の人間化であり、ルフィという人間存在が「海賊王におれはなる」という言葉に唯一実効性のある意味をもたらしているとも言える。実際、ルフィはかかってきた電話を応答するときも、「もしもし おれはモンキー・D・ルフィ 海賊王になる男だ!」などと言う。これはギャグではない。ルフィはいたって真剣である。なぜならルフィ本人と「海賊王におれはなる」が同じものとして自覚されているからである。

 既に述べた通り、ルフィの「得意げな笑顔」に象徴される「自然」を貫く「自信」は、同一化できる仲間における「偶然」と「必然」の一致という特異な運命論に基づいているが、ルフィと「海賊王になる男」が言葉の上も現実の上でも全く同一だとしたら、その基礎づけ関係はいかなる意味を持っているのか。そのためにルフィが「海賊王」について定義する名シーンを確認しよう。

 グランドライン後半の海「新世界」に入る折り返し地点シャボンディ諸島にて、麦わらの一味はかつて「ワンピース」にたどり着いた海賊王ゴール・D・ロジャーの海賊団で副船長をしていた「冥王シルバーズ・レイリー」と出会う。ロジャーの死後、世を忍んで隠居しながら酒に浸る生活をしていたレイリーだったが、麦わらの一味にかつての自分たちの姿を見出すと、自分たちが「早すぎた」ゆえに到達できなかった「ワンピース」が何なのか、ウソップの質問に答えようとする。ルフィはこれを遮って次のように言う。

宝がどこにあるかなんて聞きたくねェ!!! 宝があるかないかだって聞きたくねェ!! 何もわかんねェけど みんなそうやって命懸けで海へ出てんだよっ!!! ここでおっさんから何か教えて貰うんなら おれは海賊やめる つまらねェ冒険なら おれはしねェ!!!!

レイリーはルフィを試すように厳しい問いを返す。

やれるかキミに…グランドラインはまだまだキミらの想像を遥かに凌ぐぞ!! 敵も強い キミにこの強固な海を支配できるか!?

ルフィは「無邪気な笑顔」と「得意げな笑顔」の合わさった「真の笑顔」でもって答える。

支配なんかしねェよ この海で一番自由な奴が海賊王だ!!!

ここで「真の笑顔」と呼んでいるのは、ルフィの笑顔の後ろにロジャーの笑顔をレイリーが見て取っているからであり、「真の笑顔」は「海賊王」という表象を通じて、「自信」と例の特異な運命論の基礎づけ関係を機能させる。そのとき問題になるのは、「海」における「宝」の規定不可能性、そして「支配」を超越した「自由」である。順に考えよう。

 まず、ルフィにおいて「海賊」とは「面白い冒険」ができる唯一の身分である。そしてその身分は「命がけで海に出ること」と「宝の所在を教えてもらわないこと」によって保障されている。ところで、既に述べた通り、ルフィにおいて「海賊」とは社会秩序と根源的に相容れない絶対悪である。したがって、「海賊」が何故社会秩序にとって「絶対悪」なのかと言えば、「命」という最大限重たいものをかけておきながら、そのかけた先が不明であることによって、他者との交換原理が全く機能しなくなるからである。そこには見通しもなければ、根拠もなく、全てが「偶然」に還元されてしまう。誰かが生き、誰かが死ぬであろう。ところが、その生死の境に「勝者の原理」があると見る者たちがおり、彼らこそ社会秩序をつくる者たちに他ならない。

 しかし、この「勝者の原理」を否定すべき社会秩序こそが「支配の原理」を生み出している。社会秩序が自らを正統であると主張するためには、「敗者」や「弱者」が協力するという正義だけが「必然」でなければならない。そのためには、「勝者」と「敗者」あるいは「強者」と「弱者」などという区別が意味を持っていなければならないし、「敗者」や「弱者」が「勝者」や「強者」に勝つことが「偶然」ではなく「必然」でなければならない。しかし、その社会秩序を守るためならば、その「支配の原理」から「自由」であろうとする者は船に乗っていようが、歴史研究にいそしむ学者であろうが、みな「賊」であり、抹殺すべき対象である。ルフィは「海賊王」を信じることで、この自己欺瞞的な「勝利の原理」としての「支配の原理」を破壊しようとする。

 しかし、まだルフィの考える「自由」には根源的な問題が残っている。ルフィにとって、「海賊王」とは「この海で一番自由な奴」だが、「自然」の原理としての「自由」に「一番」や「二番」があるのか。そのチャートとはまさに「支配の原理」ではないか。

 否、「支配の原理」ではないのだ。なぜなら、ルフィは「海賊王になる男」であるものの、「ヒーロー」つまり「海賊王である男」ではないからだ。「海賊王である男」ゴール・D・ロジャーは「早すぎた」から、大海賊時代をもたらすために進んで処刑台に登った。彼が「早すぎた」理由は当然「ワンピース」の正体が現時点で不明である以上、推論するしかないが、テクストから理解できることとしては、「自由」を知っている仲間がいなさ過ぎたからということであろう。すなわち、「海」に出る人が増えれば、「自然」の原理としての「自由」の中にはただ「偶然」だけがあって、「勝者」と「敗者」あるいは「強者」と「弱者」などという区別に意味がないことが理解されるが、ロジャー以前は誰もが社会秩序に甘んじて暮らすことが自明であった。だから、ロジャーは「肉」としての自らの体験を分け与える「ヒーロー」にならざるを得なかった。そして、ロジャーはそのように分け与えてくれた「ヒーロー」であるから、「海賊王」と呼ばれたのである。しかし、ルフィは「海賊王になる男」であって「ヒーロー」ではない。つまり、「肉」を誰にでも分け与えるような「ヒーロー」の称号として「海賊王」と呼ばれたいのではない。レイリーの「海賊王」という認定基準のなかでの「試し」としての質問に答えながら、答えるという社会秩序そのものを破壊する独善性、それこそが「一番自由」という意味破壊的な応答含意であろう。

 笑顔を通じて同一化した仲間と、無限に続いていく「海」の中を一緒に冒険すること、「肉」を一緒に食べること、その絶えざる答えと分配の拒否だけが「海賊王になる男」ルフィにとって「海賊王になる」ということである。だからルフィは第一巻第一話の「よっしゃいくぞ!!! 海賊王におれはなる!!!」から、今日まで変わることがなく、そしてこれから先も「海賊王におれはなる」と言い続けるだろう。そしてそのように言い続けられる間でだけ、「偶然」と「必然」は一致し続けることができる。


 「笑うこと」について、他者が「笑うこと」しか私には語ることができない。私の言葉はそれが言葉である限り、社会秩序の縛りを前提としている限り、本当に共有すべきものを共有できないのが「必然」である。しかし私は現に「笑うこと」ができるし、そのためには他者が常に先行していなければならない。だから、私は他者とどうにかしてつながる術を持たなければならない宿命にあるが、どれほどつながることに困難があると見えても、その宿命を認識する時点で私は、「笑うこと」を目指しているはずが、既にできている。なぜなら、私は現に「笑うこと」を通じて、先行している他者と「偶然」出会っているからだ。「笑うこと」とは、「私」において「必然」と「偶然」が一致することにほかならない。そして私もまた、生きるということを通じて、何かが足りないことを前提とする社会秩序ではなく、全てが既に満ち足りている「海」に飛び出していかなければならない。ルフィと共に笑うその日まで。