守護神と原風景

A. 守護神について

 先日、撮影の都合でC県F市に帰郷した。小学2年のときの担任I先生、小学2年のときの学校介助員Kちゃん、小学5年までの養護教諭Aちゃんと再会し、語らうという企画のためである。撮影監督である友人が福祉車両を借りて、私を故郷へと連れ帰った。私の実家にストレッチャー電動車いすがそのまま乗れる特別車がなくなって久しい。帰郷に両親が不在というのが私にふさわしい気がした。ちなみに両親はそのとき呑気にヨーロッパ旅行に出かけていた。それにしても、田舎というのは一般道が複雑である。そこで弟が道案内を買って出てくれた。彼もまた、私の担任や介助員、養護教諭と20年ぶりに再会したいとのことだった。

福祉車両に電動車いすごと乗って移動する筆者(愼 允翼 しん ゆに)と介助者Tさん

 高速道路を降りると、高校時代や予備校時代に父が送迎してくれた大通りの風景が変わることなく、私の視界である右側の車窓を流れていった。26歳現在の私が暮らす東京の中心部ではなかなかお目にかかれない、広大な駐車場を備えた平屋建ての居酒屋とか和食屋とかがいくつも並んでいる。そもそも「マミーマート」って東京にあるのだろうか。「まねきねこ」もずいぶん久しぶりに見た気がする。そうしているうちに、私と弟の母校が目の前に現れた。

筆者の母校、船橋私立芝山東小学校の校門

 20年ぶりの再会を前に、私は理科室で介助者Tさんと身だしなみを整える。背中や首を持ち上げられながら、私がイナバウアーをすると、壁一面に花壇の植生やモーターの仕組みを解説した新聞が貼られていることに気が付く。黒板は昔と変わらずにあるけれど、パソコンやタブレットとの接続が可能な電子ホワイトボードにはかなりの使用感がある。少なくとも母校は東大文学部より近代化されていた。それでも壁の掲示物が変わらないあたり、歴史というものの生きている感覚があった。

 換気のために全開にした扉の向こうから、小学校教員独特の通る声が複数聞こえてくる。だが、心の中にあった声のイメージとは違って、何かを話す感じよりは笑い声の要素が多く、何を話しているのか分節化されては聞こえてこない。それより早く、3人の顔が見えた。

小学校の理科室で再会の挨拶を交わす筆者(写真左)とI先生(写真右)、学校介助員のKちゃん(写真中央奥)

 I先生は抱えていた大荷物を床に放り投げると、私の近くにしゃがみこんで肩を掴んで「大きくなったねえ」と昔のままの眼差しで言った。「先生、昔より若返ったんじゃないですか」と私は答える。「そういうところ、ゆにくんだねえ」と先生が言う。どういうところなんだろう。「元気そうで安心したよ、移動バテなかったか」とKちゃんが言う。KちゃんとAちゃんとは実は一度、成人直後に新宿で飲んでいる。私も弟も、そして当時の学童はみな、Kちゃん、Aちゃんと呼んで、「先生」とつけている者は少なかった。ちなみにKちゃんはこの5、6年のうちに教頭先生になっていたそうである。I先生が「私、学年主任で定年しちゃったわよー」と付け加えたせいで、やっぱりKちゃんは昔と変わらず「ちゃん」でならねばならない感じになってしまった。この人たちには、子どもに「立場」というものを教え込まないための協調関係でも成立しているのだろうか。「立場」などというものは、否が応でもいつかどこかで教え込まれてしまう。だが教育の本懐は、そういう窮屈な社会性を押し付けるのとは違うところにあるのだ。

 I先生が持ってきた大荷物が、一部木の内面が暴露した机の上に広げられる。「おやつ」として差し入れされたオランダ屋のスイートポテトと、ペットボトルの飲み物が10本。次に私の秘蔵写真と学級通信の束。そして、私の父母や私の関係者と議論したことであるとか、私を担任する過程での所感などをまとめたノート類。御年65歳とは思えない荷物の量だが、I先生の偉大さはまずこのタフさに現れていると言えよう。

理科室の机にI先生(写真右手前)が広げた写真やノート類をみんなで眺めて話す。養護教諭Aちゃん(写真右奥)、学校介助員のKちゃん(写真左手前)筆者(写真左中央)、介助者Tさん(写真左奥)でぐるりと机を囲む

 「この写真、かわいいよねえ!」、そこにはバッタを指先でつまみ、向けられたレンズへと見せつける7歳の私がいた。表情がやや固いのは、「こっち向いてバッタ見せて」とカメラを向けるI先生になんとか応えようとして、上がらない右腕を無理やり持ち上げようとしていたからであろう。他にもI先生が撮った写真は、幼少期の私のややすまし気味の笑顔をいくつも捉えていた。クラスの友だちとくっつき、紙粘土を握っていたり、教室の机の上におもちゃ付きの文房具を広げていたりする。私はこんなに楽しそうな幼少期を過ごせていたのか。それは私が、私の周囲の友だちが、大人へと変わっていく前の時期、私にとって長く苦しい少年時代が始まる前の安らかなひとときであった。

 「ゆにくんはもちろん特別な生徒だけれど、特別扱いしてはいけないからね」、ノートをめくりながらI先生が言った。「特別扱いすると、周りの子ども達がゆにくんとうまくなじめないでしょう?でも、何もサポートしないとゆにくんは自由に生活できない。その板挟みをKさんと私で役割分担すればなんとかなるんじゃないか、そう思ってたかなあ」という。そこで二人は次のような方法を取ったという。すなわち、I先生が「平等」の象徴として、Kちゃんが「自由」の象徴として。I先生はあくまでも私を30人のうちの一人として扱う、Kちゃんは私と一心同体であり、いついかなるときも私の側に立つのだと。しかし、周りの子ども達からすれば少なくともKちゃんと私が一心同体であることの意味などわかるべくもない。もちろん7歳当時の私が「介助者」の役割について確固とした考え方を持っていたはずもない。それがむしろKちゃんの役割を積極的なものとしたようだ。私とみんなが遊びたいわけではなく(子どもだっていつも障害を持った同級生と遊ぶほど暇ではないのだから)、ときにはKちゃんと遊びたいことがある。Kちゃんは若いときも教頭先生になった今も、子どもが魅力的に感じる(ということは誰もが安心感を持てる)こと間違いなしな佇まいがあるから。そういうときKちゃんは、自分のところに来た子ども達と戯れながら必ず私を巻き込んで、最終的にKちゃん自身が存在感を消していなくなってしまうのだ。そうすることで、友だちはKちゃんと遊ぶつもりが、気づいたら私と遊んでいることになる。私も思わず、苦労無しで友だちと自然になじむことができたのであった。

電動車いすに乗ってみんなの話を聴く筆者

 

 「僕は与えられた仕事(=ゆにの介助)だけやってるのつまんなくてさ。ほんと自分の裁量とか全然考えなくて、ゆにや周りのお友だちが楽しく過ごせる学校を一緒にI先生も含めてつくるのが面白かったし、教わるところばかりだったのよ。I先生とも昔よく話したけど、大人が子ども達に教えることより、子ども達から教わることが多い方が絶対楽しいし。ゆにとI先生に学校の先生の素晴らしさと面白さを学んで、はじめて小学校の先生目指したんだよね」

 「本当に子ども達は大人のことをよく見てるから。とりわけゆにくんは他の子に比べても背伸びしているおませちゃんだったから、私たちもきちんと向き合わなきゃって感じで」

 

 I先生はさらに父とのやり取りをノートに残していた。「息子を頭脳労働者に育てたいのです」と、そこには書かれていた。「ほんと、お父さんの目指した通りになったじゃん」Aちゃんも覚えているくらい印象的な言葉だという。保健室の先生にまで知られていたあたり、かなりスパルタ教育の家庭環境に私は育ったのだと思われていてもおかしくない。

筆者が小学生当時、I先生と筆者の父が交わしていた打ち合わせノートをI先生が持ってきて見せてくれた

だが、これには少し補足というか厳密化が必要であろう。率直に言って、幼少期に父から「勉強しろ」などという趣旨の言葉をかけられた記憶はないのだ。とはいえ、直角に座ること、僅かに動く右腕をなんとか駆使して平仮名や初等幾何に取り組むことに対しては、異常な執着を押し付けられていたように思う。それでも小学3年生ほどになり、身体があきらかな悲鳴をあげるようになると、私自身もはや座ることや右腕を動かすことを断固しなくなったし、父もそれまでの健常者的な教育方針をそそくさと放棄してしまった。我が家は運命論者ばかりというべきか、刻々と変化する情勢に対して自由闊達に適応できる人たちばかりなのだ、私も含めて。だから「頭脳労働者」という目標のうち、百万歩譲って「頭脳」の方は満たしたとしても、「労働者」の方は未だ満たされないどころか、「高等遊民」まっしぐらな26歳の私は、あの頃の父の目標を言葉通りに受け継いではいないのだ。その代わり、ノートの端にやや小さく書かれた「自律」という目標は当時の期待以上の仕方で、継承できている自負がある。

 ここで何よりも重要なのは、人の歴史を最初に支える「教育」が必ずしも望み通りの未来を導くものではないということ、むしろ「教育」の真価は現在の小さな期待値を越えていくときにあるということだ、と考えずにはいられない。そしてそれは決して結果論に回収されるべきものでもない。何か思わぬ出来事、偶然の作用、運命的ではあるが決して定まっていたわけではないような出会いが重なりながら、未来は揺れ動いていく。

 「でもねー、私三日坊主なところあるからこうやってノートを最初は作ってるんだけど、ゆにくんと生活して数ヶ月するともう取ってないのよ」とI先生は謙遜する。

筆者の様子を記録したI先生手書きの振り返りノート

違うのだ、先生は「頭脳労働」だの「自律」だの大人向けのご大層な理論よりも、眼の前の私に対する実践を優先してくれたのだ。そのことは、理科室の机に広げられたI先生の学級通信に記された教育哲学が証明している。「経験から得た自信が、次のステップへつながるエネルギー源になるのです。自分自身で、いろいろな知識や技術を獲得し、考え、つまずき、失敗をくり返しながら、なお真っすぐに伸びていこうとする。それが、本来の子どもの姿なのではないでしょうか」云々。そのとき、か細いけれども確かな運命の糸が、黄金に輝いて私の中に無数に伸びているのを確かに感じた。

 

自分で学ばなければならない彼は、自分の理性をもちいて他人の理性にはたよらない。というのは、世俗の意見にとらわれないためには、権威にとらわれてはならないからだ。そしてわれわれの誤りはたいていわれわれからというよりはむしろ他人から生じるものだ。こういう絶えまない訓練からは、労働と疲労によって身体に与えられるたくましさと同じような強い精神力が生まれてくる。もう一つの利益は、自分の力に応じてのみ進歩していくことである。…こういう方法をとると、進歩はあまりはかばかしくないが、一歩でもむだ足を踏むことはないし、後戻りしなければならなくなるということもない。(『エミール』第三篇)

 

「経験」は「自分自身で」、「エネルギー源」へと変換されていく。様々な外的条件によって挫折をすることになろうとも、植物と同じく「なお真っすぐに伸びていこうとする」のは、それが「自然=起源=本来」の子どもの姿だからである。そうした成長は「自分の力に応じてのみ進歩していく」限りで、均等でもなければ早熟がよいことであるわけでもない。それゆえに、ルソーにおいて「生の技法」の伝授として想定される「教育」は、偶然の機会や出会いに彩られて、単に消極的であるどころか、再現性も回顧性も無い途方もない企てとして表れる。しかし、子どもと共に大人も成長するとはそもそも、それほどに途方もない企てとしてしかあり得ないだろう。私が幼年時代に受けた教育は、26歳の私がルソーを研究していることと直接的に結びついているのではない。だが同時に、26歳の私のルソーに対する向き合い方を規定している人生観、あるいはルソーと出会うまでにくぐってきた苦悩の少年時代を耐えさせた力は、この教育から与えられたものなのだ。その力は輝く運命の糸にまとわれ、か細く絡み合って、私の神経や血管の中を流れているのだ。

 

理科室での撮影を終えてグラウンドに出る一行の後ろ姿。校舎の後ろから西陽が射している。

 撮影が終わって、西陽が射す校庭に出ていく。夏休みということで撮影が許可されたわけだが、グラウンドにはサッカークラブの子どもたちが、体育館にはバスケクラブの子どもたちが、迎えに来た母親たちと戯れている。その子らと違って、幼少期の私は他の小学校に練習試合などで訪れる機会もなく、比較する根拠は持たなかったけれど、とにかくそのグラウンドはとても綺麗で広いのだという自慢があった。親や教員がそう言っていたのかもしれない。そして実際、そこにはあの頃と変わらない遥かな眺望が開かれていた。電動車椅子で走り出すときに顔に受ける風も、足元に響くモーター音も、視野におさまらない果ての砂ぼこりも。だが、私が小学生の頃にみた風景と違うところがあるとすれば、プール側の鶏小屋がなくなり、近くにあった接続可能な巨大遊具の滑り台および歩道橋部分も撤去されている。その分、歩道橋から繋がっていた小山は思い出の中のそれよりずっと小さく感じた。さみしいのはそれだけではない。おそらく子どもたちがもうその遊具で遊ばなくなり、その近くに立ち入ることさえなくなったのかもしれない。かつては校舎裏のさらに日陰になった部分でしか見なかったような丈の長い草がうっそうと茂っている。おかげで私の介助者とカメラマンが蚊に刺されまくっているではないか。空気を読んで私に近寄ってこないのは褒めてやろう。

小学生の頃、友達とよく登って遊んだ遊具のひとつである小山の前でカメラ目線の筆者(写真中央)と介助者Tさん(写真右)、学校介助員のKちゃん(写真左)

 「ゆにー、これまた登っちゃうか!?もう僕は抱っこ出来ないんだけど(笑)」、Kちゃんが言う。「いやー、これ足かけるところほとんどないのによく昔登ったね…今日は生命力めちゃ溢れたからTさん、行っちゃおっか!みんなちょっとサポートして!」、思わず応じてしまった。あとから介助者Tさんが言っていたのだが、「愼さんが介助者に要求水準半端ないの、子どものときにKさんと出会ったからだな~、鍛えておいてよかった。他の人じゃできないよ」とのこと。きっとそうであろう。

介助者のTさんが筆者をお姫様抱っこで抱え、その後ろを筆者の弟と学校介助員Kちゃんが支えて小山を登る様子

 私をいつも通りのお姫様抱っこにして、Tさんは斜面を登っていく。滑り落ちてはいけないから(それはそれで画的には面白いのだが)、小さい子が手をかけられるようになっている突起部分に足をかけて、弟とKちゃんがTさんの後ろに控えて万一に備えつつ、私の頭や足がより大きな突起部分などにぶつかったりしないようフォローして、一歩ずつ確実に登っていく。

 

 みんなのにぎやかな声。「ゆにが登ってるぅ」「みんなちょっと避けてあげて」「一緒に写真とろぅ」「あ、あ、あ、ゆにの首落ちそう」、小山の頂上まで僕を軽々と連れてきたKちゃんがお姫様抱っこから持ち替えて僕を前抱っこにする。僕の背中が彼の胸に受け止められ、胡坐とうんこ座りの間のような姿勢になる。座っていない首は隣の友だちが肩で支えてくれる。3月の風は病み上がりの身体に少し辛い。ここで痰を詰まらせるのはまずそうだ。それでも終業式に間に合って退院できてよかった。来月からは3年生、初めてのクラス替えでもある。さっきKちゃんやI先生が離れてしまうのを知った。寂しいけれど、また良い人がやってきてくれるに違いない。僕はみんなに愛される者だ。それにしたって、まさか本当に連れて行ってもらえるとは。Kちゃんのこういうなんでもありなところが好きだ。この前も僕が見えない花壇のお花を引っこ抜いて見せてくれたっけ。ちくり魔に見つかって、一緒にI先生に怒られたけど、I先生も半分笑ってたな。反省の色なしって感じ。

 「ゆに、やっと登れたなぁ。お尻痛くないか?」、痛いに決まっている。遊具の上に座ったことなどないのだ。でも痛くたっていい。危ないことなんか関係ない。「すごい気持ちいい〜、ずっとこうしてたい!」、こんなことならもっと早く登りたいってはっきり言うんだった。次の介助員の人にはなんでも言えるような自分になりたい。

「はーい、みんなこっち向いて!ゆに君、頑張ってもうちょっと笑って!下向けるかなー?いくよー、はいチーズ!」、世界が止まる。聞こえるのは重なった二つの心臓の音だけ。

小学生当時、筆者と友達みんなで小山に登って撮った集合写真

 

 「いやー、ゆにもうちょっと左向けっかー??Kさん、もうちょいゆにの首左向けてあげてください」、山の下からカメラマンが言う。身長170cmほどになった26歳の私の身体を、さすがのTさんも前抱っこするわけにはいかない。ということで、弟が足を持ち、Kちゃんが頭を持った状態で、男3人がかりで私は左向きにされる。すしざんまいか。たしかにベッドの上ではマグロ…何を考えているんだ私は。しかしどれほど歳をとっても変わらないのは、この無茶をした時の痛み。そして、その痛みと引き換えに見える世界、湧き上がる力、聞こえる鼓動。涙で忘れかけた時の中に、蘇る言葉。

小山のてっぺんに登った筆者と介助者Tさん、弟、学校介助員Kちゃん

 

「何事にも明るく前向きに取り組んでいくチャレンジ精神は、ゆに君の宝です。…小山のてっぺんからKさんとながめた校舎や校庭のけしきを、いつまでも心のアルバムにしまっておいてね。いつでもゆに君を見ているし、応援しているからね!」

 

 シャッター音がかすかに聞こえる。いたるところから黄金の糸が伸びてくる。運動が根本的に不向きな全神経に、その糸を通じて生きる勇気が流れてくる。山から見渡したグラウンドの真ん中あたりにも、その糸は人型を形成している。「守護神」は私と視線を交わすと、黄金の車体にモーター音を響かせながら、その力の流れの中に消え去っていった。

 

B. 原風景について

 21歳のときに親元を離れて、もう6年ほどになる。信頼できる介助者に囲まれながら、出会いと別れがあって今日に至る。自分はもう少し勉強ができる人間だと思っていたのだが、まだ修士課程とは泣ける。自由にやって、しかも健康に過ごせてきたのだから文句は言えまいと分かっているのだが、友人の中には結婚どころか父親・母親にもなる者が少しずつ出てきている。私もそろそろ自分のためだけでない、人生の処し方について試みていきたいと思うことがある。

I先生が筆者たち2年1組の生徒に送ったアルバム「8さいのあなたへ」

 故郷での撮影が終わって、自分が与えられてきた天恵に思いを馳せる。今回の映像作品も含めて様々な形態の表現を通して、自分にもひとに与えられるもの、与えるべきものがあったら良いなと考える。実際、これまでも取材や様々な依頼事をいただいてきたし、その都度考えていることを変遷させながら、出会った機会を大切にして、基本的には断ることなく応じてきたはずだ。だが、そのような思いが強まるほど、そしてその思いに応えられるだけの力が自らに宿るほど、特定の質問や依頼には絶対に応えられないと思うことが増えるようになった。私の能力が足りなくて応えられないのか、私の意志として応えたくないのか、そもそも案件そのものが原理的に応答不可能な要素を帯びているのか、あるいは案件が私と相手のディスコミュニケーションを促進する厄介なシロモノなのか、考えだすとキリがない。それでも、これから私と出会おうとしてくれる誰かのために、私自身が告知しておくことができるかもしれない。次に挙げるタイプの質問はなるべく避けてくださいね、と。こう言うと、予防線を張っているようにも聞こえるだろう。私は他人に対して閉鎖的なのだろうか。いや、よく読んでくれたなら、よく考えてくれたなら、私の告知があまりにも当然のことであって、むしろ私の生真面目さが笑いの対象にさえなるだろう。私が出会いたいと期待するのは、そこで一緒に笑ってくれる人なのだ。案件を持ってくるという仕方で私と出会う人は、必ず私に何がしかの期待を抱いてくれているだろう。だから、これはおあいこである。

 何はともあれ、見てみてほしい。笑うから。

 

①普段どういう風に暮らしているんですか?
②どうしたらあなたみたいになれますか?
③(政治)社会にしてほしいことは何ですか?

 

 ①については一言、こう言うしかない。「私の介助者になってください」と。他人の生活を覗き見たいという好奇心が、健常者にとっての未知なる存在者=障害者としての私に向けられることを、私は必ずしも否定しない。それどころか歓迎する。ただし、好奇心を質問ではなく実践で満たそうと相手が努力するならば。質問だと私の側に回答の努力が要請されてしまう。そしてもちろん、この質問は抽象的すぎるし、何が相手を満足させるかわからないし、回答の要素が私の人生全てに触れてくるため、原理的に回答不可能である。けれども、あくまでも実践の中で私を選んでくれるのならば、まずはお友だちからでも(お見合い?)、私は時間をかけて応えることができるだろう。したがって、この質問からスタートする案件には相手も私も幸せになれるかも、というポジティブさがある。

福祉車両に電動車いすごと乗り込む筆者。これが筆者と介助者の日常であり実践である

 そんなバカなこと聞きませんよ、と言った人が同じ口で②を言ってくることがある。しかも様々な言い回しをとって現れるから、私は相手の意図を十分に見定めなければならない。結構しんどいのだ。たとえば「○○先生が僕/私のことを‥‥などという感じでわかってくれません。愼さんだったらどうしますか?」、あるいは「いつか親元を離れなければいけないことは分かっているのですが、他人に身を預けたり24時間側にいられたりすることにストレスがあります。実際、ヘルパーは人手不足でもあるようで。愼さんだったらどうしますか?」など。こう聞かれて、「私はあなたではないのでわかりません」としか言いようがないというのが本音なのだが、そして結局オブラートに包んでそう返すことになるのだが、既に自らの身体や人生に疲れていそうな相手の小さな期待を損なうのは、ニーチェ主義者の私でも良心が咎め、同情心を抱かざるを得ない。しかし、彼/彼女の質問は結局どういう言い方にしても、②になっていると言えるのではないだろうか。そしてその限りで、やはり間違っているのではないか。彼/彼女は、私をモデルケースにして何か得られるものがあると信じているのだから。冷たい言い方かもしれないが、「私はあなたではない」ということの含意をグロテスクにぶちまけるなら、「あなた」の置かれている不当な状況が「私」には本当には共有できない、ということだ。私は自分の担任との間に不当なディスコミュニケーションを持ったことがないし、不満があったとしても、それは私の身体障害に起因するものでない。それに、介助者に身体を預けることへの拒絶は単なる自己否定のようにしか思えない。ここで、私が「男性」であることに反応する読者もいるだろうが、それは別で議論することにして、先に進もう。実際、私は「ヘルパー人材不足説」についても基本的に何らか陰謀の類のようにしか思えない。人間に稀少性を見出すのは、常に健常な他者を必要とする我々障害者にとって、生の放棄と等しいだろう。ただし、留保があるとすれば過疎地域や極端にアクセスの悪い地域の問題だが、それは③の話である。順番を守ろう。私がこのように敢えて言ってみたのは、新しく考えるべき観点があるからなのだ。それは、どうして彼/彼女の障害者はこのような愚かな問いを抱いてしまうのか、ということである。目下の答えは、彼/彼女を育てた家族や支援者に根本的な過ちがあるということだ。②は実のところ、健常な大人が障害者の子どもの陰に隠れて投げつけてきている問いなのだから。

 ③は、これまでとは違った意味で私を悩ませる。少し違う観点になるが、私は在日朝鮮人4世という歴史性を血に宿している。そのような私の声は既存の政治社会において真に聞き取られるべきものとして、その地位を確固たるものにしているだろうか。あるいは、この百数十年の近現代史を振り返って、政治社会を信用してその一翼を担うことが果たしてその人間の利益になるだろうか。そういう考えが一々去来するのである。このことは決して、現在の日本の行政を全て否定するものでもなければ、期待しないことでもない。そうではなくて、政治社会が少数者に対してその都度どのようにして考え、対応しようとするのか、断固その観察者としての地位に留まることが必要だと思うのだ。或る行動の評価をする者は、行動主体と同質であるべきでないのだから。この同質性の否定は、決して健常者と同じ身体性に立てない障害者にとって②とも関わる重要な観点であり、順番に②の残された課題に答えてから考えていきたい。ここでは取り急ぎ、障害者としては③に対して次のように言っておかねばなるまい。「それは私に聞かずに、あなたが提案してください」と。

 

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観点1:エンパワーとエンカレッジ
 ②は既に述べた通り、私に対してある種のモデルを求める意志に支えられている。だが、それは障害を持つ子どもたちの問いと見せかけて、実は健常な大人たち・親たち・支援者たちの問いなのである。私は以前、中等教育におけるインクルーシブ教育について考える場に登壇するに際して、原稿を仕上げたことがある(「困難」よりも、はるかに広いイマジネーションを。歴史創造的存在としての障害者 — 閒-あわい- (awai.jp.net))。そのときの立場と基本的に変わるところはないから、詳細はそちらを参照してほしいのだが、とりわけ重要なのは次の記述である。

中等教育でものを言うのは、今までの教育に嚙み合うかどうか、既存の社会に相応しいか、これだけです。ですから、学習障害のある学生は診断書がなければ、「努力の足りない子」「勉強の苦手な子」にされてしまいますし、仮に診断書があっても、「専門の学校に行って」と追放されてしまいます。これを是正するために差別解消法はあります。しかし、差別解消法があっても「困難」が決してなくならないことをみなさんご存知でしょう。なぜなら、そもそも障害者は「インクルージョン」と根本的に相容れない、歴史創造的存在だからです。私たちの「困難」は、障害の医学的特性や社会的法的定義によって決まるのではありません。その「困難」を生きる一人ひとりのかけがえのなさが歴史的に常に新しいこと、これが私たちの「困難」を決定するのです。ですから、「中等教育におけるインクルーシブ教育」を考えることは、私にとって障害の現実的解決を考えることよりも、ずっと広大な問題圏として人間論的に検討すべき問題にならざるを得ません。

 

障害者のモデルケースが必要なのは、教育をはじめとする既存の社会制度を改良し、障害者の境遇を改善するためである。だが、モデルケースに即した社会制度の改良はすぐになされることはないし、もっと言えばその改良された制度からはみ出る障害や困難を抱える子どもたちを抑圧する契機となりうる。何故なら、モデルケースを生み出すのも利用するのも、端的に健常者の大人たち、しかも次々に新しい困難を量産する、障害者の子どもの生きた眼をまるで見ていないような連中だからである。或る障害者がどうにか自らの人生を開いていこうとするとき、それが一定の勢いを持つようになると、社会は彼/彼女を抑圧する手を緩めて、エンパワー、つまり権力を与えるという手段を選ぶ。すなわち、モデルケースとして既存の事例・秩序の中に包摂して協力させようとするのだ。障害者自身にとってもこれは都合がいい。障害者は少しずつ健常者化することができるのだ。

 分割統治、伝統的な統治の技法に即したこうした罠に対して、別様なあり方を採ることは不可能だろうか。実際、エンパワーによってパイの配分が大きくなることが福祉を可能にするのだとすれば、その恩恵にあずかっている私のような者がこの構造を拒絶することはある種の裏切り行為と見なすことも出来る。だから、別様なあり方は途方もなく不可能に見える。だが、成功体験者こそ自らがモデルケースになり果てる前の姿を思い出してみることができるはずだ。幼い自分を導いた良き出会いを、偶然の巡り合わせを、運命の計らいを。自分を助けてくれた人たちは、自分をモデルケースにしようとして側にいてくれたのだろうか。否、他の障害者のことなどお構いなしで、自分だけを見ていてくれたのではないか。それが結果的に、社会を変え得る可能性のある実践に結びついてきただけだ。はじまりにおいて子どもにとって大切なのは、エンパワーではなくエンカレッジ、つまり勇気=心の力を授けることだったはずだ。この勇気=心の力は、子どもたち一人一人のかけがえのなさに与えられるしるしである。それは目立たないけれども、いつも新しい。だから新しい「困難」を生きる障害者に相応しいのは、この新しい力の源であるエンカレッジなのだ。そして、この勇気=心の力はいつも新しい秩序を産出し続けることができるはずだし、その意味で社会における協働や協調に対する裏切り行為なのではない。むしろそのような裏切り行為固有の前社会性、社会準備性があるから、社会はそもそもこの社会として成り立つことができているのである。そのような社会以前の起源的力の下に、全ての人は対等である。

 

観点2:平等と対等
 ③は、私に対して独特な仕方で違和感を与えるものだった。「私」と「あなた」との間に、同質性があって質問と応答が可能だという前提。もう少しきちんと言えば、そのような前提が政治社会の正義にとって重要だという正義観。この緩いロジックに対して違和感がある。そのような政治社会の正義とは端的に平等概念のことだと言えようが、私が違和感を持っているものの正体は平等であるとするならば、私の違和感はどんな理屈をこねても社会構成員として、いよいよ裏切り行為のようではないか。

 いま「裏切り行為」と言ったが、観点1で述べたようにその動力は社会を準備し、新しい秩序をもたらす否定し難い力である。その力の前に善悪などない。そして、この力は新しさとかけがえのなさにそもそも依拠している以上、それを備えていない人間など存在しないし、全ての人間は対等である。したがって、私は「平等」に違和感を抱きながら、「対等」を希求しているのである。

 エンパワーとエンカレッジの違いは、既に記したように成り立ちから明確である。powerを与えるか、courageを与えるか、だ。しかし、平等と対等はそう簡単でなさそうだ。現代語の辞典程度では、ロマンス語系言語ではだいたいequal系のものに集約されてしまう。のんきなエッセイを意図している以上、ここでさらに踏み込んで思想史のあれこれを考えていく余地はない。ただし、現代語でもparityとは区別されているようだ。質・量・位階など様々な価値に同質性を見出すequalityに対して、parityは同等性を強調し、特に数学においては偶奇性を意味する。偶奇性において重要なのは、属性が相異なるにもかかわらず、それらは異質なものとして関係を持ち、なんらかの体系や意味を構成する点で等しく価値を持つということだ。これは少なくとも私の違和感を言語化するには、取り急ぎ役立ちそうだ。念のため、国語辞典も開いておく。しかも敢えて広辞苑ではなく、みんな大好き新解さんを。新解さんは、編者の独断と偏見がしばしば話題となるが、日本語における類語の区別を確認するにはちょっと参考になる。新解さんによれば、「平等」は「社会構成員に対する待遇の平等」を指すのに対して、「対等」とは「二物・二者間の上下関係の否定」ということになる。ということは、ひとまずequalityと新解さんにおける「平等」はかなり近いところにありそうだ。待遇は社会的な分け前と言い換えても良いだろう。そして、この分け前はそれを配分する者による査定によって与えられるものであり、その査定の根拠には同質化・モデル化が働く。逆に、いよいよ「対等」は厄介である。それは比較の否定であり、同質性の否定でもあるからだ。しかし、parityすなわち偶奇性のような査定者を必要としない、非人間的な世界においては、少なくとも同質性のない同等性は存在し得る。

 かくして、エンカレッジを重視する私が「対等」を志向する意味の基礎は、多少はっきりしてきたようだ。③において私が感じた違和感とは、政治的な行動主体とその観察者に対して同質性を暗に要求しがちな人間性への問い直しであった。しかし、だからといって観察者としての障害者もまた政治社会の中に生きなければならず、政治的な行動と無縁であるべきでもない。そうして、生きた人間として既存の悪しき同質的な人間性のなかに片足を突っ込んでいなければならない。その構造的にダブスタな事態、ある種の妖怪人間的な状況を生き抜くことがどうしたら可能であるのか、それが私にとっての大問題なのだ。ここまで考えてきたように、目立たないけれどもいつも新しく生きる勇気を供給する力(エンカレッジ)は、社会以前の起源において誰も「平等」でないが故に全ての人に「対等」に与えられるのであり、だからこそ誰もが新しい秩序を生み出すことができるのだった。そして、そのはじまりは社会のただ中にあっても、人が新たに生まれてくる限り、決して塗りつぶすことができない裂け目なのだった。とすれば、障害者は生き抜くために、その裂け目をたまには覗き込んでみることが必要であろう。たまにでいいのだ、いつもだと疲れる。

 

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 意図せず、小難しい話に脱線してしまった。だがこの脱線がないと、①~③の質問に対する私の態度の真意が伝わらないと思ったのだ。話を戻そう。私は①~③の質問を一緒に笑い飛ばしてくれる人を求めて、エンカレッジや対等を考えていたのだ。私はそういうことを考えるとき、やっぱり麦わらのルフィの顔を思い浮かべてしまう。以前も書いたことがあるのだが(「笑うこと」について — 閒-あわい- (awai.jp.net))、あのときはルフィの名シーンを分析して脱力してしまった感がある。いまなら、もう少し具体的にイメージを書いていくことができそうだ。

 ルフィは海賊である。だから「正義」の海軍あるいは政府とは根源的に相容れないし、ルフィ自身がそのような自らの立場に対してとても自覚的である。ルフィはヒーローが好きだが、ヒーローになることを拒んでいる。「ヒーローは肉を分け与える、俺は肉を食べたい」からだそうだ。つまり、分け前の平等を拒むのだ。だが、ルフィは通りがかる島々でそこに生きる人々と出会い、彼らを抑圧して分け前の平等さえ奪い取る既存の悪しき秩序を徹底的に破壊し尽くす。そのとき、抑圧される人々は弱く、支配者は強く、ルフィはその支配者より強い。ルフィはすぐに勝てないどころか、初戦は必ず負けるけれども、生き残ってより強くなり、「越えていく」から、やっぱり強者である。弱者が助けを求めるために頭を下げようとするなら、ルフィは相手の頭を支えて自分が頭を下げる。そして、ルフィは弱者に助けを求める。お腹が空いたらご飯を恵んでもらい、巨大な悪をねじ伏せるとき自らのあまりにも大きな力によって人々に危害がおよびそうなら、土壇場で島丸ごと動かしてくれと無茶な要求をする。「俺は皆に助けてもらわないと生きていけない自信がある」からだ。戦いの後には必ず「宴」をしてみんなで肉を食べる。我先にがっついて、誰よりもたらふく食べるのだが。「宴」の後は引きとめを無視して、立ち去ってしまう。残された人たちは、自分たちで秩序を作り直す事になるわけだが、そのことにはお構いなしである。とはいえ、彼らの新しき政府も世界政府の一員として海賊には敵対的であらねばならないから、やむを得ないお別れである。ただし、表面上は。そこに生まれた新しい秩序は、もはや世界政府が留めることのできない力なのだ。

 こうしたルフィの謎めいた、けれどもどこか一本筋の通った姿、彼と出会った人たちの笑顔、生まれゆく新しい世界が私の「原風景」である。それは起源・はじまりにおいて、何が起こっているのかを楽しく想像させてくれる風景だ。私はその原風景を現実世界のヴィジョンに重ね合わせながら、そのズレにうんざりしつつも、しばしば一致の可能性を体感してきた。決して肉体から消えることのない障害を生きるためには、そういう体験が必要であろう。特に終わりがすぐには見えないならなおさら。終わりが見えていたとしても、この生には生きられるべき価値がある。生きる勇気を持つことは、実は生きる勇気を与えることになるし、そのように身の回りの世界に新しい秩序を生み出し続けることは決して無駄なことではない。新しくなった世界から金色に輝く運命の糸を通して、そのひとに生きる勇気が帰ってくる。肉体が消えた後も大地に、海に、風に流れて、いつか(いや、いつも)新たに伸びるべき神経や血管へと流れ込んでいくだろう。そのように未来は揺れ動くし、「守護神」はそうした力の渦の中に住んでいるのだ。だから私はいつも旅立たなければいけない。

母校のエントランスで