眠り方を忘れてしまった

「大丈夫?ちゃんと寝れてる?」
「いやそれが、いつでもどこでも寝られるんですよ、僕」

不健康そうに見えるのか、心労や厄介事を抱え込んでいるように見えるのか、知人友人との会話の枕に、睡眠の心配をされることがよくあるのだが、これまでの人生で「不眠」に悩まされたことは一度もない。心身の状態や環境に関係なく、だいたいいつでもどこでも寝られてしまう。

新幹線や飛行機の移動中、災害ボランティアの車中泊、シェアハウスのこたつ、オフィスの椅子、会社の忘年会での居酒屋角席(社交しろ)、布団や枕がなくたってどこでも寝てしまえる。ストレスがかかる状況でも「心労で一睡もできない」という経験はなく、数年前にうつになる直前の始発・終電続きの激務時だって、インターネットで袋叩きにされたときだって、モヤモヤしたりメソメソしたりしながらも、起きたまま朝を迎えることはなく、どこか途中で意識は飛んで眠りに落ちていた。

しかし、「いつでもどこでも寝られる」とは、「いつでもどこでも”眠る”ことができる」ということではないのだろう。このエッセイを書き始めて、そう認識した。

寝てはいる。
だけどいつも、眠りが浅い。

先に述べたような非日常環境ではなく、家の寝室でちゃんとベッドに入ることができ、入眠(するつもりの)時間から起床(すべき)時間までたっぷり7,8時間確保されている平穏無事な日常でも、中途半端な時間にちょくちょく目が覚める。

原因はけっこう明らかで、ちゃんと「入眠する」ができていないのだ。寝る前に原稿書くぞとか、本読むぞとか、仕事ちょっとだけ片付けるぞとか、出来ないことが繰り返し実証されているのに、懲りずに寝室にパソコンを持ち込む。「やるぞー。でもちょっとその前に休憩」といって布団にくるまり、スマホをいじっている間に意識が飛ぶ。翌日ツマに「やっぱ無理だよなぁ潔く寝た方が絶対いいよなぁ」と報告しては「それ、何度目の発見?」と呆れられるところまでがテンプレートである。

浅い眠りの中で、夢はよく見るのだが、それも妙に現実感のあるものばかりだ。

だいたい、懸案になっている出来事や相手が夢に出てくる。地元の結婚式に顔出すのが嫌だなぁと思っていると、いじめられた同級生が出てくるし、袂を分かった人や団体のことをネットで見かけるとそのメンバーが出てくるし、今年の夏、大学院の出願締め切り前はなぜかこの歳で学部のセンター試験を受けていたし、少し前に集中的にカウンセリングを受けていたときは、生育歴を語ったセッションの夜に父親の夢を見た。

人や場面は現実と地続きで、でもところどころちぐはぐで、知らない・所属が違う人同士がなぜか一緒にいて僕の話をしていたり、相容れない立場や意見の人同士がなんだか変な形で同居していたり、謝罪や和解が妙にあっさりと終わってしまったりしていて、起きたときはいつもやだなぁこれ自分の願望かなぁとか考えて落ち込んでしまう。
(たまに現実感のないシチュエーションの夢も見るが、そのときもだいたい何かに追われている。洞窟で転がる岩石から逃げていたり、街中でゾンビから逃げていたり。そしてだいたいそういう夢では、僕は服を一枚も着ていない。なんで裸なんだよ無防備すぎるだろ)

安心していないのだろう。
いつも何かを引きずったまま、ベッドにくるまるのだ。

「いつでもどこでも寝られる」という表現は適切ではなく、心は現実に未練を抱えたまま、身体が耐えられずに寝落ちている、というのがきっと正しい僕の睡眠像だ。

眠り方を忘れてしまった。
いや、「眠ること」をずっと知らない、のかもしれない。



最近、よく昼寝をする。

昼食後に30分から1時間ほどで済むこともあるが、2,3時間眠ることも珍しくない。下手をすると保育園の送り迎えと食事以外、ほとんど寝ていて完全店じまい状態の日もある(昼寝っていうレベルではないなこれは)。

数年前に心身の調子を崩し、それをきっかけに基底にある発達凸凹への理解と対処も深まり、定期通院と朝晩の服薬で回復・緩和した部分もかなりあるのだが、それでもやはり、しゃかりき働いていた発病前・20代の頃に「元通り」というわけにはいかず(当たり前なのだが)、得意不得意のギャップや「疲れやすさ」は大きくなり、「今日はもうあかんわ」と横になって休むしかないときもしばしば。

独立して曖昧なひとり会社をやっている身分なので、幸いにして時間の使い方に融通が効くというか、1日寝込んでもどうにかなるほどの仕事量しか抱えないようにしており(それゆえまったく儲かってはいないのだが)、ツマもムスメも会社と園に行っていて家には自分ひとりしかいないので、何かに邪魔をされることなく平日の日中から眠ることができるのだ。

一応、タイマーを15分、30分と刻んでセットしてみるが、起きられないときは諦めてそのまま夕方まで眠ってしまう。なぜかは分からないが、夜と違って、この「昼寝」のときは無駄な悪あがきをすることもないし、現実と地続きの夢を見ることもない。「ぐっすり」眠るというほどの時間ではないが、それでも「眠った」といえるぐらいには、現実と切断されて、心も身体もただ眠ることができている。夢を見ないので、目覚めたときに意味とか内容をごちゃごちゃ考えたり言語化しようとすることもなく、「よく寝たな」とか「おなかすいたな」とか「トイレ行こう」とかいうシンプルで生理的な感覚だけがある。

ああ、もしかすると、これが「眠る」ということなのか。
僕の眠りは、多くの人が活動している昼間にあったのだ。たぶん。


ここまで書いてもうひとつ、幸せな「眠り」の記憶を思い出した。

小学生の頃、名前も場所も覚えていない、地元の、神戸か尼崎か大阪か、どこかのレジャープールに連れて行ってもらって、「流れるプール」というものをはじめて体験した。休憩所なのか家に帰ってからなのか、まだ日が暮れる前の明るい時間帯、床で横になってまどろんでいる時間、波が体に残っていてとても気持ちが良かったのを覚えている。このときも(と言っても非常に曖昧な記憶だが、僕の脳か身体が覚えているこの感覚をひとまず信じて書くとするならば)きっと僕は「眠って」いたのだと思う。夢を見ることもなく、何かに追われることもなく、ただただ身体を揺らす波の残滓を味わいながら、夢とうつつの境界線を自覚することもないまま、いつの間にか眠っていた。


あれは、気持ちよかったな。


だからどうということ話ではない。ここまで書いたものの、僕の夜の眠りが浅いという問題?は変わらずにあるし、何か解消につながる示唆を得られたわけでもない。

うまい「眠り方」は未だに分からない。けれど、僕の人生のいくつかの場面で、ただ「眠ること」を経験し、それをこの身体が「覚えている」ということはわかった。ひとまず今日は、それで良しとしよう。