通った学校は、小中高と全部、屋上が立ち入り禁止だった。背の低い僕は、地面に近い視線の世界を生きるのに満足していて、鍵を破って侵入するだけの冒険心も好奇心も持ちあわせていなかったから、この歳になるまで、屋上から街を見下ろした記憶がほとんど無い。
入居して2ヶ月経って、アパートメントの屋上にはじめて上った。マリさんが座っていて、イーゼルにカンバスを広げて絵筆を走らせている。描いているのは眼下の街や見上げた空ではなくて、だけどどこかよく似た世界。隣に立って、ぼんやり遠くを眺め、筆の音を聞く。
「よくここに来るんですか」
「うん、気に入ってるの。ここにいると、時々いい風が入ってきて、乗ると筆がよく踊ってくれるから」
「今日みたいに、風の無い日は、どうですか」
「確かに今日は静かだね。でも、必ずしも風が吹いてなくたっていいの。わずかな空気の淀みとか、私たちに働く重力とか、感じて従うことが出来れば、少し自由になれる」
マリさんは筆を止めないまま呟く。小柄でなで肩な彼女の身体は、きっとその流れの中を抵抗なく泳ぐのにぴったりなのだろうなと思った。
「僕も今度、書くのに行き詰まったら、部屋に篭ってないでここに来ようかな。そしたらちょっとは捗るかも」
「うん、またおいで。かおりさんも時々踊りに来てる」
階段を降りて1階でかおりさんと出会う。いつものように一緒に庭の掃除をする。
「踊りのお誘い、ありがとうございました。すごく良かったです」
「こちらこそ、観に来てくれて、ありがとう」
よく晴れた日。こないだ暗闇の中で踊っていたかおりさんは、今日は太陽の下、鼻歌交じりに花に水をやっている。
「かおりさんは、どうしてここの管理人もやってるんですか。来る人を迎えて、みんなの世話をして、出る人を見送る仕事…踊っている時の印象とはギャップがあって」
「別に私、大した世話なんてしてないわ。みんなが、好き勝手にやっているのを眺めてるだけで。始めたきっかけはむしろ…私が必要としてたのかもしれない、着地する場所」
「それは、ホームみたいなところ?」
「そうかもしれないけど…ううん、もっとささやかなものでいいの」
ふたり掃除の手を止めて、アパートメントのベランダを眺めながら言葉を探す。
「みんなが自分の部屋で何をしているのか、毎日このアパートメントの外でどんなことをして、そして帰ってくるのか、わたしはほとんど知らない」
「僕もほとんど知らない。みんなそれぞれ、ひとりで生きてる」
「うん、だからね、ひとつ屋根の下、『家族』だなんて言うにはちょっと遠いし、照れくさいかな。偶然流れ着いた他人同士だもの。だけどやっぱり、時折交わったり、開いたりするでしょ。管理人室で おしゃべりしたり、ネットで作品を見せ合ったり…それぐらいの距離に誰かがいてくれるって、いつも一緒じゃなくてもね、とても嬉しいなぁって、私は思うの」
「そうですね。夏祭りの日、屋上から花火を見つければ駆け下りてみんなを呼ぶことも出来るし、寒い冬の日には、シチューが冷めないうちに扉を開けて届けにも行ける。ひとりの時間とひとりの時間が、その時ちょっとだけ、横に繋がったりなんかして」
門の外から優しい風が吹き込んできてふたりを包んだから、そこで僕らは口を閉じることにした。しばらくして、思い出したように掃除を再開し、それからまた、かおりさんが思い出したように言葉を発する。
「そうそう、夏と言えばね。このアパートメントにもう一人管理人がいて、はるえって言うんだけど、夏に東京に帰ってくるの」
「そしたらみんなでBBQでもしましょうよ。屋上で、ビール片手に花火眺めて」
「わぁ、すっごく素敵ね。楽しみだなぁ」
少し先の未来の空想や計画をいくつか重ね合わせながら掃除を終え、それから僕は散歩に出た。路地を曲がり、並木道を登って高台の公園へ。
満足していたというのはきっと嘘で、意地と臆病で突っぱねていただけなんだ。背伸びしたって飛び跳ねたって、どうせすぐ小さな現実へ戻ってくるんだから、だったら別に見えなくたっていいや、って。今は、ちょっと違う。飛んだ先で出会う人や風景が、僕を開いてくれることを知っている。たとえ帰る先がいつもと変わらぬ小さな自分でも、風を連れて帰れば少しだけ新しくなれることを知っている。
公園にはもう紫陽花が咲いていた。梅雨が開けたら、またすぐに空いっぱいの夏がやってくる。今年の花火はどんな色だろう。共に眺めるのはどんな人たちだろう。