アパートメント 第八話―空気の層

 「やっほー、元気してる?」
 「…なんだ、君か。今日はこれから採寸の予約が入ってて忙しいんだけど」
 「もう、まだ何も言ってないってば。ちょっと社会科見学に協力してくれない?邪魔しないからそれぐらいいいでしょ。彼にあなたの仕事見せてやってよ」
 「別に構わないけどさ。またそんな若い青年をつかまえて、ナンパでもしたの?」
 「ふふ、なかなかいいオトコでしょ」
 
 
 面接から1週間経った水曜の午後。根津駅に降り立ち、へび道をくねくねと歩いた後にたどり着いた小さなお店の入り口で、ヒロさんとその男性が話をしている。レジカウンターに座っていた彼は、ラップトップを閉じて立ち上がり、回り込んで僕のところまで出て来てくれた。
 
 「こんにちは」
 「やぁこんにちは。君もまたやっかいな女に目をつけられたね。何に巻き込まれようとしているの?僕はアスカ。ここで服屋をやってる」
 交わした握手が不思議なあたたかみを帯びていて、その華奢な身体つきからは予想もしていなかった感覚に少し驚いた。
 
 「普通に作って売ったりもするけど、うちの仕事のほとんどはオーダーメイドだよ。こっちへおいで」
 服屋と聞いて僕が抱いた疑問を察したのか、アスカさんが先に口を開いた。玄関を背にしてレジ左横にある小スペースにはワンピースやシャツがいくつかかかっていて、値札のタグも付いているけれど、小売の「服屋」と言うにはあまりに数が少ない。
 
  レジカウンターの右奥へと進んだ先の部屋へと通される。実際の面積はそれほど大きくないはずなのに、お店の外観からは想像がつかないぐらい広々とした感じがする。
 
 採寸や試着や、それから撮影もするのだろうか、部屋の右半分はゆったりとスペースがとられていて、簡素な姿見やカメラや照明器具が脇に佇む。
 左手には打ち合わせ用の長テーブル。背後の壁と棚に、色とりどり、様々な素材の生地が収納されている。
 壁の一部にこれまでのお客さんのポートレートがいくらか飾ってあり、先日の舞台衣装を着たかおりさんもその中にいた。
 
 「そろそろ来る頃だな。見るの、別に構わないけど、そっちの事務室の窓から覗いてもらう形で良いかな。少し遠いけど、お客さんを緊張させたくないから。ヒロ、適当にコーヒーでも出してあげて」
 
 
 そこから先は、音の聞こえない時間だった。だけど、お客さんをテーブルに通してお話をし、鏡の前に立たせて採寸をし、またテーブルでお話をする―そうした一連の流れを見ている時間には、まるで映写室から無声映画を覗き見するようなワクワクがあった。

 お客さんの肩にメジャーを当てる時の柔らかい手つき。棚から次々と生地のロールを取り出して、はさみで小さく切り取り見せる様子。それらの動作が進むたび、またその合間にアスカさんから声をかけられるたび、最初は緊張していたお客さんの表情が、どんどんとほぐれていく。
 わたしなんかがオーダーメイドなんて。自信なさげなうつむき。ううんでもやっぱり、せっかくの機会ですもの。決心と勇気のまなざし。隣を歩くとき、彼、喜んでくれるかしら。赤らめた頬。そうそう、初めて出会った時のことなんだけど…天井を見上げて記憶の糸をたぐり寄せる。
 その一つひとつにアスカさんは耳を傾け、時に子どものように驚き、笑い、それから真剣な顔をして質問を返し、提案をする。
 
 
 あのテーブルでは今、お客さんのこれまでの想い出と、これからの未来が交わっているんだ。
 
 
 
 「いいカオしてるでしょ、仕事中のアスカ」
 「ええ、ほんとに」
 「彼ね、わたしの元ダンナ」
 
 「…そうなんですか?」
 「君より若かった頃かなぁ、アスカは私の3歳上なんだけど、まだ駆け出し社会人だったし。駆け落ち同然、本当に二人の勢いだけで結婚してさ、バカみたいでしょ。何があっても一生一緒なんだって、当時は本気で信じ切ってたけど、若い気持ちだけで続くはずもなくてね。1年も経たないうちに離婚しちゃった」

 「2年前に偶然ばったり再会したんだ。別れてから数えたら…もう何年になるんだろうね。わたしはちょうど友人二人と今の会社を立ち上げた頃で、アスカも同じ年に独立した。そのまま流れで、お店のウェブデザインを受注したってわけ」
 タバコをふかしながら、ヒロさんは懐かしそうに目を細める。

 「今、あんな楽しそうに仕事してるけど、付き合ってた当時は、肩の凝るスーツ着て、たくさん資料抱えて営業回るような仕事してた。しんどそうだったな。でも、我慢も応援もうまく出来なかったんだよね、お互い。わたしはわたしで好き勝手やってたけど、必死な時期だったから」
 「それで、二人の関係は、今」
 「ご覧のとおり。仕事相手、それから、いいお友達」
 いいお友達。その響きに、今日の最初に二人の間で交わされた空気を重ね合わせる。
 
 「時々、思い出したように二人でディナーに行ったりする。結婚した当時はそんな余裕も無かったから、皮肉なもんだよね。でもね、昔に戻った話はしないし、それ以上距離を詰めたりしないよ。お互いそれが一番良いと分かってるから」
 「答え合わせは、しないんですね」
 「うん、そういうこと。別れてから再会するまでの間、アスカに何があって、何をしていたかは知らない。でもその空白を埋めたり追求することに意味は無いとわたしは思ってるんだ。今のアスカの作る服、すごく軽くてやわらかい。その名の通り、ほんとに飛んでいけそうな気分になる。それだけで十分だよ」
 服を着ることは、衣そのものだけでなく、空気の層を身に纏うことだという話を思い出した。そのすき間は、人と人が心地よく付き合う上でも必要なことなのかもしれない。

 「若いと、たかだか半年や一年のことでも、それが人生の全てってぐらい絶対的なものに思えてきます。出逢いも別れも、キスもセックスも。でも、人生には強制的なコースチェンジってものがあるんですよね。それも、心の準備や原因の整理なんかさせてくれやしないぐらい突然に」
 「そうだね」
 「後悔や恨みの念に苛まれたりもします。でも結局、事が起こった後に出来ることは、時間に任せる以外に無いんだなって、最近思います」
 「…吹っ切れたみたいだね。前会った時より、いい顔してるよ」
 「ヒロさん。一緒に働かせてもらえますか」
 「もちろん、歓迎するよ。今の君なら、もう大丈夫。きっと繋がる」