「いやぁ…食ったな」
「ほんと、もうお腹いっぱい。おいしかった」
「おかげで楽しい時間になったわ。ありがとう」
「こちらこそ楽しかったです。急に思いつきで持ち込んじゃって、すみません」
薄い藍色の布団がかぶさった電気ごたつで温まる8本の足。今夜は少し寒い。机の上には大皿小皿、お椀にお鉢。中身はもう4人の胃袋におさまった後。
かおりさんの管理人室は1階の一番奥にある。 通常の部屋より1室分広くなっていて、僕らはその居間にお邪魔している。 かおりさんの寝室はふすまで仕切られた隣の部屋。一緒にいるのは、ヤマザキさんとマリさん。ヤマザキさんは写真を撮っている。マリさんは絵を描いている。それが2人のいわゆる専業のお仕事なのかとか、フルネームはどんな漢字を書くのかとかは知らない。会うのは今日が初めて。それより先に、2人の作品をアパートメントのサイトで観た。
つくったおかずをおすそ分けしようと管理人室に寄ったところ、せっかくだから誰か誘って一緒に食べましょうよと、かおりさんが他の住人に呼びかけて、たまたまつかまったのがこの2人。帰ってすでに料理に取りかかっていたマリさんがサラダを持ち寄り、かおりさんがその場で手早くオニオンスープをつくり、帰宅途中に連絡がついたヤマザキさんは近くのスーパーでビールとつまみをガサッと買ってきて、気づけば4人でこんなに食べられるかなという量になっていたのだけど、これが意外とすんなりたいらげてしまった。
「メシだけでも大満足だが、せっかく買ってきたしつまみでも開けて、もう少し飲むか」
ヤマザキさんが近所のスーパーの袋から、半額シールの貼られたタコわさパックやら枝豆パックやら、チーズ鱈やら堅あげポテトやらを取り出していく。
「いいですね。じゃあ一回テーブル片付けましょう。洗い物しますよ」
「そんな、気を遣わなくて良いわよ。料理まで持ってきてくれたのに」
「や、なんか僕、洗い物好きなんですよね」
食器を重ねて、手分けしてキッチンの流し台へ。よく住人が遊びに来るからか、棚には食器がざっと5,6人分揃っている。窓際には小さなサボテン。オレンジ色のスポンジに椰子の実洗剤をかけて何回か握り、泡立てる。
誰かと一緒の食卓では、洗い物まで楽しいものに変化する。人数が増えた分だけかかる時間は増すけれど、そこで奏でられる音は毎回違っていて、一人の時には出逢えない。束ねたフォークがカチャカチャ言う音、シャーッと流れる蛇口の水、水切りラックにトトンとお皿を重ねる音。それらの合間に挿し込まれてくる少し遠くの会話を、聞くともなしに耳に入れるのが好き。手元の作業の進度、キッチンとリビングの距離、話題の盛り上がり具合、一人ひとりの声の大小、使った食器の材質、蛇口ヘッドの形状、そうしたいくつかの要素の組み合わせとタイミングで、届いてくる言葉が決まるのだけど、会話の全部は聞こえないし、聞こうとしない方が楽しい。みんなと一緒にいるんだなという実感と、自分なんかいなくても世の中は平気のへっちゃらだなという感覚が、両方一緒にやってきて、それはとてもいい感じ。
「おーい青年、そんなの後でいいから、お前も早くこっち来て飲め」
食器を全部洗い終えて、ふきんで調理台を拭いているところ、ヤマザキさんからお呼びがかかった。洗い物の水でひんやりした手を、足と一緒にこたつ布団に突っ込んで座る。見るとすでにビールのロング缶の3本目が空いていた。かおりさんとマリさんはほんの少ししかお酒を飲まないようで、必然、このワカモノがお相伴にあずかることに。
あ、まずいなぁ、この流れ。お酒、好きなんだけど強くはないから、あんまりハイペースで飲むとよくない。まぁとりあえず一杯、とヤマザキさん。言われるままに飲む。おぉ、いい飲みっぷりだな。あーあ、そんなこと言われちゃって、これ、どんどんいくパターンだ。今日みたいになまじ楽しい席だと、自分、調子乗っちゃうからよくない。よしよしいいぞ、もう一杯いけ。いやいや、やっぱり初対面ですし、あんまりハメ外しすぎるのも、なんかほら。
「いやー、なんか楽しいっすね、今日…」
「おう、そうだろうそうだろう」
ものの30分でこれである。いや、自分気持ちよくなっちゃってるけど、ここ管理人室ですし、もう夜も遅いし、かおりさんとマリさん笑ってるし。そろそろ引き揚げ時ですよ、お兄さん。
「ところで!」
「おう、どうした」
おいおい、ところで!じゃないよ。お前はいったい何を話し始めるつもりだ。酔うとすぐ芝居がかった動きを始めるからなぁもう。
「ヤマザキさんの写真観ましたけど、僕、すごい好きです」
「えっらい急に褒めてくるなー、お前」
おっしゃる通り。気持ちが高まっちゃうと自分の好き勝手に話題を切り出すもんだから、不可ない。
「僕、すごく思考が五月蝿いタイプで、アート作品観る時も色んなことゴチャゴチャ考えちゃってダメなんですけど、ヤマザキさんのあの、モノクロームの写真、目にした時にすうっと言葉が消えて静かになって、なんていうか、すごくいい時間でした」
「思考が五月蝿い、か。確かに、こないだウェブの文章読んだが、ずいぶん小難しいこと考えてるやつだなと思ってたぞ」
「あー、あれはほんとその、お恥ずかしい。思考ダダ漏れみたいな」
「いや、あれはあれで面白いからそのまま続けろ」
「えー、そんなぁ。とにかくそう、街とか人の、日常の断片を届けてくれるような作品が好きで。なんだか落ち着くんですよね。逆にこう、あんまり壮大過ぎる大河ドラマみたいなの、難しいです、ついてくのが。主人公が革命とか動乱の最中を駆け抜けるわけですけど、あぁこれ俺だったら絶対途中で撃たれて死んでるわーとか考えちゃって、映画館で周りのお客さんが感動してても、僕はちっとも泣けないわけですよ、感情移入できなくて。『ああ、無情』ってか、『俺、非情』みたいな」
我ながら何を口走っているのか、本当に始末に負えない。かおりさん、すげー笑ってるし。
「なんだお前、最初ずいぶんおとなしいやつだと思ったが、けっこうしゃべれるじゃないか」
「ね、ほんとに。私も今日でずいぶん印象変わったわ」
「いや、ほんとすみません。飲み過ぎると調子に乗るから…」
「人なつっこくて、私はいいと思うけどな。普段からもうちょっと自分のこと出してきなよ」
「そうですかねぇ…」
こういうことは、よく言われる。この歳になって未だに、出したり閉じたりの調整が難しくて、ついつい二の足を踏んでしまう。読み合いなんて意味がない、人と繋がっていくには自分を開いてくしかないとは、経験としてももう分かっているのだけど。
ただひとつ確かなことは、今日のこの場がとても楽しくて、このアパートメントで出会ったこの3人のこと、好きになっていっているなということ。そう思えるのならちょっとは気を抜いて、この夜の空気に委ねてしまっても良いのかもしれない。