24 病と畑

 4日前の日曜日、2年ぶりにオイルマッサージに行った。足湯をして足をほぐしてもらった後、施術台に寝転ぶ。「どこか重点的にほぐしたいところはありますか」と聞かれ、「いえ、特にないです」と答えたものの、触ってもらうとすぐに全身がガチガチだと気づく。「特に肩甲骨から首にかけて、鉄板が入ってるみたい。人間の身体じゃないですね」と言われる。そうか。わたしの身体はいつから悲鳴をあげていたのだろうか。

 振り返ると昨年12月から軽躁状態だったんだと思う。1カ月半に渡るクラウドファンディングでわたしの神経は昂っていた。クリスマスに書いた投稿にはこんなふうに書いている。

「1週間に1,2日ほどデジタルデバイスから離れて、体を動かしたり青空の下で働いたりしたい。先週ふとそう思った。私の生活はあまりにもパソコンやスマホに支配されすぎているから。もうお腹いっぱいなんだ、SNSに投稿する日々で。もう飽き飽きしているんだ、排泄の瞬間も停車したわずかな間にもスマホを何気なくいじる日々に。もっと感じていたいんだ、このからだで美しい世界を。」

 普段使わないリズムを用いているところが、なんだか悲鳴みたいに響く。年末にはガタが来て風邪を引き、正月は呆けたように過ごした。でも年が明けると、やはり騙し騙し続けてしまっていた。それもまた、わたしの愛おしい一部なのだけれど。

 そんな折、わたしは恋をした。躁状態で恋をしたってだれのことも大事になどできないくせに、わたしはいつも性懲りもなく恋をする。恋をしたから、躁状態も加速した。眠れなくなって、ご飯が食べられなくなった。結果的に相手をものすごく苦しめてしまった。まあそれはちょっと脇に置いておくとして。

 ある日ふと、「双極性障害の本質は、『生きている実感』を得たいという欲望が強いということにあるのではないか」と口走っていた。刺激がほしい。甘い恋がしたい、痛む恋がしたい。そういうことで、生きる実感を得ている。まるで自傷行為だ。

 でもだからわたしは畑をやっているのだと思う。逆説的だけれど、畑はわたしにとって、生活を、わたし自身を、地に足をつける方へと向かわせるよすがであり、営みなのだ。わたしは土とともに生きていく。病に食い殺されないためにも、今年も畑を営んで、暮らしていく。