生に隣る

「いてっ!」
「あ、ごめんごめん、悪気はあったんだよ」
「おい、こらー!」

角度が悪ければちょっとした力で割りと簡単に捻挫してしまう彼の足の指先を、うっかりソファにちょこっとぶつけてしまい、謝りながらも軽口を叩いた自分がおり、そのとき「あ、俺この仕事続けていけそうだな」と思ったものだ。

「いつも」の水曜日
介助の仕事をしている。友達の家で。彼の名前は、愼 允翼(しん ゆに)君という。右手の先を除いて身体をほとんど自由に動かせず、体位の転換や飲食といった日常生活動作の全てに24時間の介助を必要とする、いわゆる「重度身体障害者」である。1歳のときに遺伝性疾患の脊髄性筋萎縮症(SMA)Ⅱ型の診断を受け、小学校から地域の通常学級に通い、5,6年前に親元を離れて自立生活をしている。今は東大の修士2年、仏文でジャン=ジャック・ルソーの研究をしている。

毎週1回水曜日、10時〜15時が僕のシフトだ(たまーに、金・土の夕方に入ることもある)。朝、家を出て子どもを保育園に預け、駅前のカフェで30分ほど作業をしてから電車に乗り込み、彼の自宅に向かう。着いたらまず洗面所で服を着替え、手洗いうがいをし、新しいマスクに付け替えて部屋に入る。キッチンペーパーにアルコールスプレーをしてスマートフォンを消毒する。郵便物があれば彼に見せる(ほとんどは要らないチラシなので即答で「ポイ!」だ)。夜勤の人から引き継ぎを受け(特に無いことが多いのだが)、室内車椅子に乗ってパソコンで動画を観ている彼の隣に座る。「ヤッホー」「ヤッホー」。大抵は朝食の終わり際、水のみに入ったコーヒーやジュースの残りを飲むか、服薬するかというタイミングでの交代になる。朝食が終わったら、彼の車椅子を少し起こし、頭を両手で押さえながら膝で背中をとんとんと軽く蹴り、ゲップを手伝う。腹圧ベルトを外し、「お姫様抱っこ」で彼を抱えてソファに着地。頭や腰や脚の角度を少し調整し、パソコンを正面まで運び、マウスパットとマウスを設置して右手を載せる。これらの「ポジション取り」が終わってから、朝食のお盆を台所に持って行き、洗い物をする。その間5分10分、彼は動画やSNSやニュースを見て過ごす。

「洗い物終わったよ―」「おっけー、よしやるか」ソファで横になっているユニくんの前の床に座り、テーブルを引き寄せ、キーボード、本立て、電子辞書、赤ペンを並べ、自分が楽にタイピングできる姿勢・角度をとる。ここから昼食までだいたい2.5時間ほど、つまり僕のシフトの約半分は、彼の大学院のレポートや文献翻訳、論文執筆といった「書き物」介助に充てられている(合間に排泄や体位変換、休憩、雑談を挟むので、ぶっ通しではないが)。お昼ごはんはコープの宅配弁当と、夜勤の人の作り置きをチンするだけがほとんどで、ラクである。メニューを見せ、本人の言う順番で食事を口に運ぶ。彼が咀嚼している合間に、大きいものを刻んだり、食べられないもの(たとえばパプリカやわかめなど、喉に張り付いて呼吸を妨げるリスクが大きいもの)をよけたり、調味料をかけたりする。この昼食時間、僕にとってけっこう「役得」なのである。アニメ・特撮・刑事ドラマ・ゲーム実況など、彼が今観ている動画を一緒に観られるからだ。ユニくんと僕は10歳ぐらい歳が離れているのだが、作品の好みがかなり合う。そういえばまだ観ていなかった「古典的」名作アニメから、放映中の最新ドラマまで色々だが、昼食を食べている間で、30分番組を2,3エピソードぐらいは観ることができる。食べ終わる直前か、食べ終わって歯磨きをするかしないかぐらいに夕方シフトの人が来るので、適当なタイミングで交代して、「おつかれさまでーす」と退勤。彼と一緒に観ていて、気になった・ハマった「未履修」番組をそのまま家に帰ってから一気見することもしばしばである。これが僕の「日常」になってから、2年半が経った。

ヘロヘロの病人が寝たきりの青年と出会った
「悠平さん、せっかくならヘルパーやってみたら?週1でも良いからさ。身体動かして、今までと違うことしたら元気になるよ」

きっかけは川口有美子さん(NPO法人ALS/MNDサポートセンターさくら会)からの声かけだった。当時の僕は、色々あって(色々としか言いようがない)たいそう弱っており、カネも仕事もなく、ツマに養ってもらいながら、日中の大半を横になって過ごし、ちょっとずつちょっとずつ、身体が動くわずかな時間にできることー通院したり自助グループに通ったり障害年金を取ったり洗濯物を畳んだり子どもと遊んだりーをして、息も絶え絶えながら、しかし微かに、エネルギーが戻ってきつつあるような気がようやくしてきていたところで、かといって自分で仕事を探す/つくる余力はまだなく、週1ならリハビリとお小遣い稼ぎにはちょうど良いか、まぁこれもタイミングというかご縁だろう、と思って「やってみます」とチャットを返した。二つ返事というやつだ。

そのあと川口さんから紹介されたのが、ユニくんである。直接の面識はなかったが、間に共通の知り合いがたくさんいて、彼の話を聞いたりインタビュー記事を読んだりしたことがあった。彼も彼で、僕がウェブに書いた文章を読んで知ってくれていたらしい。そんなわけで、Zoomでの顔合わせ・自己紹介もスムーズだった。彼から示された採用要件は2つだけ。右利きであること(食事介助を彼から見て右側から行うため)、それから、一通りの家事ができることだ。それは大丈夫ですってことで、あっさり決まった。川口さんも、「この二人は合うだろう」という見立てだったようで、まぁとにかく「人さらい」のうまい人なのだ。

さくら会で重度訪問介護の研修を受け、コロナのワクチン接種2回目を終えてから、彼の家での実地研修をスタートした。2020年の9月のことだ。実地研修では、ベテランヘルパーさんにお手本を見せてもらい、やってみて、ユニくんと先輩ヘルパーさん双方からフィードバックを受けて、またやってみて……ということをひたすら繰り返して、彼の生活に関わる一通りの介助動作を習得していく。着替えや外出準備、排泄、食事など色々あるのだが、体位変換や車椅子移乗のための「抱っこ」をスムーズにできるようになることがほぼ全てと言ってもいい。本人が苦しくも痛くもなく、自分も疲れない姿勢で抱き上げ、本人がなるべく不快でない角度・場所で着地する。これが基本かつ最重要動作である。もちろん着地後も、枕とタオルと首の位置や角度を変えたり、足腰を回したり伸ばしたり、腕や脇周りの服を引っ張ったり回したりといった「微調整」はするのだが、抱き上げと着地が良ければ調整の手間や程度も小さく押さえられ、結果、本人も自分も「ラク」になる。とはいえ、当然すぐにできるわけではない。慣れないうちは汗もたくさんかくし、抱き方・置き方が稚拙なうちは本人への身体の負担も大きい。連続で抱っこを繰り返されれば目が回るはずだ。「繰り返し」て練習、といっても一回の実習でそうそう何度もできはしないのだ。最初のうちは2,3回やってみて「あー、痛い、疲れた。今日はもうダメ、交代!」と言われ、そこでストップ、あとはベテランヘルパーさんの介助を見学するという感じで終わる。回を重ね、週を重ねるなかで少しずつ「今のは良かった」と言われる頻度が増え、次第に汗の量も減り、どこかのタイミングでコツを掴み、「別人」「完璧」などと褒められ(かと思えば次の瞬間に「やっぱダメ!」となったりするのだが)、本人にもベテランヘルパーさんにも「もう大丈夫だね」とお墨付きをもらって「独り立ち」した。ここまででだいたい2カ月ぐらいだったと思う。最初は「ユニさん」と呼んで敬語で話していたのだが、実習が終わるか終わらないかぐらいに「ユニくん」と呼ぶようになり、そして最後は完全にタメ口になり、気づけば冒頭のような冗談を言えるようになった。それがいつのことかはもう覚えていないが、実習を終えてそれほど時間が経たないうちにだったと思う。

「居る」のも/が仕事だー重度訪問介護という仕組み

僕がユニくんの家にヘルパーとして「仕事」で入っているのは、「重度訪問介護」という制度によってだ。その名の通り、重度の身体機能障害があり、常時介助を必要とする人が利用できる福祉サービスで、ヘルパーは利用者のニーズと指示に基づき、身体のケアや、食事・排泄・更衣・移動・外出等の介助、部屋の掃除や洗濯、買い物、調理まで……おおよそ日常生活に関わるあらゆることに「業務」として携わることができる(「書き物」介助や通学については自治体裁量が大きく、グレーゾーンだったりそうでなかったりする)。支給量、つまり毎月何時間ヘルパーに来てもらえるかは、障害の程度やニーズによって、更には自治体ごとの方針や担当者の判断によって、またその前後での本人や支援者の主張・交渉によってバラツキや増減があるのが実際だが、取れる人は24時間365日、つまり常時切れ目なくヘルパーがいる状態を実現できる。ユニくんもその一人で、約10名のヘルパーが1日1,2交代制でシフトを組んで彼の家に介助に入っている。人工呼吸器を利用しているALSの人など、医療的ケアニーズが大きい人は、「2人体制」を組めるぐらいの支給が得られる場合もある。  比較的長時間、まとまったシフトで介助に入ることができる制度なので、1回8時間、もっと長く12時間とか14時間でシフトに入る人も珍しくない。週に2,3日程度の非常勤から常勤まで、雇用形態や月の労働時間は人によってまちまちだが、僕のように週に1回・5時間というのは少ない方だと思う。数字だけ見ると「長時間の肉体労働で大変そう」と感じる人もいるかもしれないが、常時あくせく身体を動かしているわけではなく、特に用事がないときは近くや別室で待機しておき、本人に呼ばれたら言われたことをやる、という感じで、けっこう「余白」のある仕事である。たんの吸引や体位変換や排泄など、本人の指示起点で動くもの、服薬や食事など、概ね毎日のルーティンとしてだいたい同じ時間に行うもの、洗濯や掃除、物品の在庫管理など、どこか時間ができたタイミングで誰かしらのヘルパーが合間に片付けるもの……業務の種類は多岐にわたるが、少なくとも「四六時中」動き回っていることはない。2人体制で長時間シフトの家などは、お互い交代で仮眠をとったり、スマホいじったり、昼食をとったりと、ヘルパー間でうまいこと調整して過ごしているようだ。なぜそんな働き方が成り立つかというと、重度訪問介護は「見守り」も含めて仕事であるという制度設計思想だからだ。本人の心身の安全や健康に関わるケアは、生活の中で随時・頻回に、しかし固定的でなく発生するため、ここからここまでが業務で、ここから先は業務外、という区切りは実質的に不可能である。急に体調が悪化して救急搬送が必要となることもあるため、何かあったときにすぐに対応できるヘルパーが「常時」いることが重要なのだ。その意味で「命に関わる」仕事なのは間違いないのだが、何もなければ(それはけっこうなことだ)案外に「のんびり」した仕事でもある。

部屋の中で「迷子」になる介助者
「いやー、ゆうへいさんぐらいのは僕からしたら”障害者”とは認めないよ笑」なんて、ユニくんにはよくマウントを取られるのだが(だいたい、ニヤニヤと悪そうな顔をしながら言ってくる。本人曰く、障害の「純血主義」だそうな)、一応、僕にも「障害」がある。

日々、ただ生きているだけで色んなものに注意を持っていかれる。頭の中にはいつも言葉が溢れ流れ泳いでいる。脳みその忙しさに対して、手足の動きは甚だ不器用で、ちぐはくで、遅く、ズレている(という感覚をほとんど常に持っている)。脳機能の発達の凸凹ーADHD(注意欠如・多動症)とASD(自閉症スペクトラム)が基底にあり、その上に、抑うつが膜のように覆いかぶさっている。関連があるのかないのか、週に何回か「お腹がめっちゃ痛い」日が来る。「IBS(過敏性腸症候群)かもね」とお医者さんに言われたことがあるが、これはいわゆる「論争中の病」と呼ばれる、まぁつまり「あんまりよくわかっていない」やつだ。はじめて心療内科にかかったのは5年前で、業務上のストレッサーが明確にあったため、はじめは「適応障害」という診断だった。その後、休んだり働いたり、当事者研究や自助グループやカウンセリングに行ってみたり、医師と相談して薬の量や内容を減らしたり増やしたり変えたりして、なんやかんや人生やっている。各種症状に対応した朝・夕・就寝前のお薬は現在6種類、けっこう自分なりに良い組み合わせにたどり着いたと思う。人体実験の成果である。2年前に精神障害者保健福祉手帳と障害年金にそれぞれ申請し、どちらも3級の認定を受けた。とまぁ色々並べてみたものの、彼からしたら「所詮は3級」である。

ユニくんの謎マウントは聞き流せば良いものの、とにかく脳内がせわしなく身体が不器用なのは動かしようもない僕の「現実」なのだ。1人暮らしの標準的なリビングルームで、何も障害物がないというのに、しょっちゅうどこかに身体をぶつけている。「たまに部屋の中で"迷子"になってますよね」と実習中にベテランヘルパーさんから言われたのがあまりに的確な表現で気に入ってしまった。右に回れば早いところをわざわざ左回りでキッチンに行ったり、車椅子や机をちょっと動かせばいいものを、わざわざ狭い隙間のまま通ろうとしたりという僕の「奇行」をよそに、彼は堂々と「動かない」。ここだけ切り取ればどっちが「障害者」か分かったものではないと思うのだが、しかしやはり、「純血の本物の障害者」は俺の方だという彼の主張は「動かない」。

「手足」では終わりえない
最初に書いたように、僕のシフトのほとんどは「書き物」介助に充てられており、ほぼ「デスクワーク」である。大学のキャンパスへの同行や、近所のスーパーへの買い出しなど、外出することももちろんあるが、少ない。一応、料理はできなくもないし、何度か彼の家のキッチンで調理をしたこともあるが、片手で収まる程度の回数しか依頼されたことがない。「効率至上主義的分業体制」を敷いている彼曰く、「迷子」になる人の家事は信用ならないから他の人に振っているらしい。あ、はい。

夜勤も、今のところゼロ。入浴や着替え、就寝準備なども実習で一通り教わったし、いざいざ他に誰もいない!となればもちろん入る心づもりはあるが、まぁそんな事態が起こることはほぼないだろう。だって、他にたくさんヘルパーさんがいるし、間違いなくユニくんは僕の夜勤パフォーマンスを期待していないもの。僕も、このままやらないで済むといいなぁと思っている。

利用者のニーズも障害も暮らしも個別で多様であると同時に、ヘルパーも個別で多様であるからして、介助業務は実は「均等」ではなく、それぞれの得意・不得意や適性に応じて采配されていき、銘々がよきところに「収まっていく」感がある(逆に、どれだけ調整しても徹底的にうまくいかない関係もあるのだ)。僕の場合はそれが「書き物」介助だったというわけだ。

基本的には、本人が言ったことを言われた通りに入力するだけで、何もトリッキーなことはしていない。外付けキーボードでWord文書をつくったり、スマホを持ってSNSのフィードをスクロールしたり、知人・友人とのLINEやメッセンジャーの返信をフリック入力したりする、それだけである(ちなみに本命の女の子とのやり取りからは断固排除される、たまに見せつけてくるときもあるが)。彼が「著者」であり「主体」であって、僕はその「手足」だ。こう書くと古典的な障害者と(健常な)介助者の「あるべき」関係性のように見えるし、8割方はその通りだと言っても良い気がするが、「現実」はそんなにパキッと分かれていない。少なくとも僕とユニくんの関係においては「違う」のだ。

僕はフランス語はさっぱりなのだが、彼が翻訳した日本語テキストが読みやすいか、分かりやすいかと「フィードバック」を求められたり、英文テキストのうまい日本語訳を「一緒に」考えたり、最初から日本語で組み立てる文章においては「こう書いた方がいいんじゃないの」と「提案」したりすることがしばしばある。僕が文筆・編集の仕事をそこそこ長く続けていることと、ルソーは専門外ではあるものの一応なんとなく学術的なタームやニュアンスを理解できることと、平均よりタイピングや変換が早いことなど色々あってのことだろうが、単なる「手足」ではなく「頭」を使うことを期待されており、実際に担っている。障害者介助においては、ヘルパーの勝手な「先読み」「先回り」はご法度とされているのだが、慣れてくると言われなくても句読点とか文末は先に打ってしまって問題ない(彼の意図からハズれないアウトプットができる)ことも増えてくる。彼曰く、それが出来る人はけっこう少ないようで、ゆえに分業体制によって僕に積極的に「書き物」介助を押し付けているそうだ。

僕はこの「押し付け」が別に嫌ではないし、むしろ楽しんでいる。彼の発話と僕のタイピング速度およびリズム、またその背景にある二人の「思考」も含めて、書く「身体」のリズムが合っているのだろう。「いやー、やっぱゆうへいさんと一緒だとはかどるわぁ」と彼にも言ってもらえるので、まぁうぬぼれではなかろう。それからたぶん、こうして一人で文章を書いているときの僕の文体も、知らないうちに少しずつ彼の影響を受けて変わっていると思う(ルソーの影響も間接的に受けている)。文体の「乗り合い」現象とでも言うのだろうか、まだ2人ともうまく言語化できていないのだが、面白いことが起こっている。

「向き合わない」ケア
「雑談」がこの仕事の本体なんじゃないか、とも思う。もちろん、食事、吸引、排泄、移乗etc.の「基礎動作」ができることが前提なのだが、「業務」っぽい「業務」をし”ながら”、あるいはその”スキマ”時間に、僕たちはたくさん「雑談」をする。医師による診療や、心理士によるカウンセリングのような構造化された「セッション」ではない。長い時間、同じ人の「暮らし」に同席するなかで、意図せず、必然的に、勝手に起こることなのだが、その中で明に暗に、相手の価値観や考え、感情やコンディションの揺れ動きなどを感じ取り、意識的・無意識的に身体の動きや発する言葉をチューニングし、お互いをケアし合っている。ほとんどの場合は「向き合わない」。隣り合って同じ方向やバラバラの方向を見ている。これは、これも、僕たちの「業務」だろうか?「介助」だろうか?そんなことを問う必要はない。

先人たちを見送りながら
「えびちゃん、死んじゃったじゃん」
「うん」
「そのちょっと前にもやり取りしてたんだけどさ。俺、長生きしなきゃって思ったんだよね」

海老原宏美さん(自立生活センター東大和・理事長。ユニくんと同じSMAⅡ型当事者。2021年12月24日逝去)が亡くなった翌週のシフト、ユニくんがそうつぶやいたのもスキマの「雑談」中のことである。たしか、彼がウンコきばって、僕がお腹おさえてるときだった気がする(僕たちはウンコしながらけっこう真面目な話をするのだ)。

この仕事をしていると、けっこうな頻度で訃報を受け取ることになる(ヘルパーになって2,3年の僕でも実感するレベルに)。界隈のレジェンド、生き字引みたいな人が、それはまぁポックリと、あっちへ逝ってしまう(だから僕の指導教員の立岩真也先生は、とにかく早くインタビューに行け、記録を残せ、書け、と院生たちに口を酸っぱくして指導している)。

これまた別の日に、今度はウンコしてるときじゃなかったと思うけど、「俺が早死にしたら、このパソコンの中のデータはゆうへいさんに全部任せるから、好きに料理して使ってくれ」ってなことを言われた。日常会話の延長、かるーいノリの冗談である。と、同時にマジの話でもある。もし「そう」なったら、僕はたぶん他の仕事をほっぽり出して、彼の残したテキストを読んで整理して、彼とは違う仕方で、しかし僕なりに彼の生き方と思想を解釈し翻訳して、なんらかの形で残し伝える仕事をすると思う。そんなことはヘルパーの「介助」業務でもなんでもないし、起こってほしくもないし、そもそもこの仕事は彼が「生きる」ためにあるのだが、しかしやはり、これはマジな話なのだ(ところが、最近東大につくった研究助手制度で派遣されているデリダ研究者志望の後輩学生に、「ルソーと障害」の研究ノートは託すらしい。ここにも、分業体制……抜け目のないやつだ)。

遅かれ早かれ、全ての人間は、個体としてはいずれ死ぬ。歳を取ればみんな身体がいうこときかなくなって障害者になるんだとか、いま健康な人もいつ病気になってもおかしくないとかいった言い方は、その意味で正しいのだが、ひとまずそんなことー「死」を意識しないで済んでいる、相対的に「健常」な人と比べると、いま現在、「すでに」病者・障害者である人たちは、「みんな同じ」とは言って済まされない程度には「死」に近い存在であることは間違いない。僕を含めて訃報を「受け取る」側にいる人間は、一応、「まだ」生きているだけに過ぎない。なんだか暗い話になってしまったが、多かれ少なかれこの仕事に関わる人は、そうした「静かな覚悟」を分有しているように思う。

しかし一方で、”私たち”病者・障害者は案外にタフというか、しぶといというか、活動的でもある。日常は大変なことの連続で、もちろん落ち込むこともたくさんあるのだが、僕が出会い繋がり教わってきた仲間たち、先輩たちは、どこか楽観的で、そして創造的な人たちだった。そして、みんなよく「笑う」。同時代に直接会うことができた人たちだけの話ではない。書物などを通して「歴史」を越えて出会った人たちもたくさんいる。ユニくんがルソーという18世紀の思想家と対話しているのもそういうことなのだ(面識がないのに、時代も文化圏も全く違うのに、人は思いを繋ぐことができる!と彼はよく言う。生粋の「週刊少年ジャンプ」っ子である)。

生に隣る
介助の仕事をはじめて、2年半が経った。ユニ君の家で実習を始める前に2本打ったコロナワクチンも、気づいたら5本目だ。新型コロナウイルスが消えてなくなったわけでも、人類が感染症を克服できたわけでもない。しかしどうあれ、私たちは個人としても集団としても、さまざまな制約の中でできることすべきことを、検討し、推奨したりされたり、実行したりしなかったりし、上がったり下がったりする「波」に緊張したり油断したりしながら、今のところどうにかこうにか、社会を維持してきてた。その中に僕たちの暮らしと介助もある。

実習をはじめて間もない頃、「ゆうへいさんのお子さんが僕の体重を超えるのもすぐだよ」というようなことを言われた。ユニくんの体重は、現在27kgほどである。これを書きながら母子手帳を開いて確認したのだが、当時ムスメは3歳で、16kgだったようだ。それから2年半が経ち、ムスメは5歳の年長さん、少し前の5歳児健診では20kgちょいだった。つまり、ユニくんの体重は「まだ」超えていないのだが、とはいえ確かに、もう「すぐ」だろう。とか言っている間に、こないだ2人目の子どもが産まれた。生物学的男性、つまりムスコ爆誕である。おぎゃあ。1月の半ばに産まれ、これを書いている5月末までの4カ月で、体重は3kgから8kgまで増えた。あっという間よ。最初は「うわ、かっるー!」と、2人(ユニくん&上のムスメ)とのギャップに一人笑っていたのだが、毎日の寝かしつけにミルクにお散歩にと、抱っこする時間は一番長いので、体感的な「重さ」と首肩足腰への負担はムスコが一番だ。一方その間、ムスメを抱っこする頻度はどんどん減っていった。体力もつき、年相応に自我も育っていくのだから当然といえは当然だろう。今では、休日のお出かけ帰りなど、よっぽど疲れて眠いときの抱っこが、月に1回あるかないかである。そんな2人のお子たちの成長とは関係なしに、この2年半ずっと、僕はユニくんの27kgを抱えては降ろしている。もうすぐ3回目の夏が来る。