身体で感じた海

朝起きると、まずスマホの通知欄をチェックする。SNSからの通知がたいていの場合来ていて、そのチェックから一日が始まる。人差し指でスイスイと画面をスクロールしながら、友人からのLINEや仕事上のSlackに何か新しいメッセージがないか確認する。

仕事をする日は朝食後そのままPCを立ち上げる。昼食を摂って、休憩中にSNSをチェックする。たまに、フィアンセと話をする。夜になって仕事は終わり、またスマホでSNSをチェックする。食事中はスマホを使わないようにしているが、夕食の前には今晩作った、あるいは作ってもらった料理を写真におさめる。まるで私の身体の一部のように、スマホは左手からほぼ離れずぴったりとくっついている。

こんな風に、最近の私はスマホやPCの画面を見ることに終始している。日常がスマホとPCで完結していて、見ているものが毎日あまり変わり映えのしないものだ。昔からこんなだったっけ、と振り返ってみると、そうではなかった。私は、スマホやPCの画面ではない何かをじっくり見ることをとても好んでいた。

あれは確か、大学3年くらいのときだったと思う。当時東京で大学生をしていた私は、ふと、鎌倉の由比ヶ浜に行こうと思い立って電車を乗り継いでいた。おそらく夏が終わり、秋が深まっていこうとする頃だったと思う。海と言えばピークは夏だけれど、私は人気のない、どこか淋しい海というものを求めていた。当時私は大学で独りぼっちで、飲み会に参加したことなど数えるほどしかなく、本を読みながら孤独をやり過ごしていた。そんな私にとって、ひとりで海に行くことはとても自然なことだった。

路面電車に乗りながら、次々と風景が変わっていくのを車窓越しに見る。周りの乗客は観光客がほとんどのようで、路面電車は滑らかに、しかし時に軋むような音を出しつつ乗客を目的地で吐き出しながら、どんどん進んでいく。由比ヶ浜に到着するまでのこの時間は、車窓の景色が次々と変わりゆき、私の瞳に映る景色は心を穏やかにしてくれる。

由比ヶ浜の駅に到着すると、そこからしばらく海まで歩く。私はこの道順の途中に、素敵な革小物店があることを知っていて、そこにお邪魔する。店主のおじさんがいらっしゃいませ、と狭い店内の奥から声をかけてくる。「こんにちは」と私は返事をして、店内の革小物をゆっくりと見てまわる。ここの革小物は全て店主が自分の手で作り出したもので、一つ一つの作品の丁寧な手仕事に感服してしまう。革というものはそれぞれに個性がある艶や光をもっていて、店内には革のにおいがしみついている。

「ここはオーダーメイドもできますか」と私が訊ねると、予約はかなり埋まっていますが大体のものは作れますよと声がかかる。いつかブックカバーを作ってもらおうかな、と何となく思う。ひとつ、革を細く三つ編みにしたブレスレットがあり、しばらく悩んで購入する。これは私が今日ここに来たことのしるしなのだ。

店を後にして、海に向かって歩く。柵をまたいで砂浜を歩いていく。潮のにおいが漂ってくる。砂浜の砂粒の中に靴をうずめながら、歩く。歩く。するとああ、目の前には大きな海がある。海は波を寄せたり返したりしながら、しずかに、そして大らかにそこにある。15時くらいに到着しただろうか。道すがら購入したシートをひいて、そこに寝転がる。すると、瞳の先には、一面の青空がある。

しばらく空を見上げてぼんやりとしたり、起き上がって通りすがる人々を眺めたりする。波打ち際で、大きなゴールデンレトリーバーを地元の人が散歩させている。私と同じようにシートを広げて海を見ている人がいる。人々がはしゃぐ音はしない。ただ、波しぶきの弾ける音が聞こえる。私は何者でもなくなったような気分になって、その時間に自分を委ねる。まるで波に自分の身を委ねるように。何にも縛られていない、とても心地よい気持ちになる。

ずっと横になって澄んだ青色の空を見ていると、視界のすべてが空の色をしていて、この世界が全て空の色で染まってしまったように錯覚してしまう。波の音だけが聞こえる。とても静かだ。そのうち日が落ち始め、どんどん空の色は変化して、夕方の橙色のグラデーションが瞳の中に染み込んでくる。私はずっと横になりながらその様子を見ていて、ああ、私はこんなに大きな空にすっぽりと包まれて生きているんだ、と思う。当たり前のことを、普段の生活に忙しくしていたら忘れてしまう。

「私は一体何を目指し、どこに向っているのだろう」と大学生のときはよく考えた。年頃の大学生なら皆がよく考えることだろう。モラトリアムの中、自分自身の檻の中で精一杯自意識を膨らませ、どこにも動けない自分を持て余し、必死に何かに対して足掻いていた。そんなことを感じてもいないというふうに周りには振る舞っていたけれど、内実は生きているだけではちきれそうな自我を持て余していた。若かった私は、自分なりの答えを探すために、必死で本に縋っていたことを覚えている。

でも、ひとりで由比ヶ浜の海と空に包まれていたあのとき、私はすがすがしく、ああこれが自由なのだと感じた。何も考えず、ただその場に居るだけで、自分が透明になって風景の中に溶け込んでしまっているような、何者でもない誰かとしての私が、そこにいるだけでただ肯定されているような、そんな気持ちでその場に居ることができた。そしてそれは、あの瞬間にしか感じられないものだった。

あのときの想い出の詰まった革のブレスレットは大人になっていつの間にか失くしてしまっていたけれど、今でもあの時に見た空、全身で感じた空のことを私は忘れられない。海を見に行ったはずなのに、私がずっと見ていたのは空だった。そして耳元で、いつまでも残響のように鳴っているのが、海の音だった。

あんな風に、空や海を丸ごと体感できたのは、私にとってすごく貴重な体験だった。今、私は外出ができない不安障害を抱えているので、自分からめったに外に出ることはない。しかし、まだ外に出られて元気だった頃、そして私が孤独だった頃、そのことをまるごと包んでくれたのは自然であることが多かった。今は家にいることがほとんど全てで、外に出て何らかのアクションを起こすことはできないに等しいのだけれど、あの時の記憶が折にふれて私をとても優しく慰めてくれる。

由比ヶ浜に行ったあのとき、私は写真を一枚も撮らなかったし、メールチェックもしなかった。あの空の何とも言えぬグラデーションは脳裏のフィルムにしっかりと焼きつけられていたし、頭の中で何度も現像できるものだった。その場のその瞬間を誰かと瞬時に共有したいとも思わなかったから、スマホを使うということがなかった。どちらかといえば、自分の頭と心の引き出しの中に、宝石のように大切にしまっておきたい想い出のひとつだった。

昨今はインスタ映えを狙っていい景色の場所に行ったり、写真をスマホで加工して現実を装飾してSNSにアップロードしたり、LINEですぐ共有したりする人が多い気がする。もちろん私もそのうちのひとりだ。

しかし、ほんとうに美しいものを見たとき、もしかすると人はその出来事全部に圧倒されて、飲み込まれてしまうのかもしれないと思う。写真という形で切り取ることをしなくても、ひとつの体験として身体の中にそれをしっかりと刻み込むこともあるのかもしれない。自分の身体全身で「見る」という体験を、またいつかどこかでしたいものだと思う。