きみの目に世界はどう映るのか

 色彩が迫る、という体験をしたことはあるだろうか。絵画や風景、生き物といった、何か美しいものを見たとき、その色彩が、眼前に、胸に迫ってくるという体験を。そしてその体験を「色彩が迫る」と自ら言葉にして表現したことは、あるか。

 「nui project」というプロジェクトがある。鹿児島県にある知的障害者支援施設「しょうぶ学園」が行っている事業の一つだ。ひと針ひと針を重ねてできあがった刺繍たちは、一つとして同じものはない。一つひとつがはじめて見る造形や色彩をしていて、まさに生きている。それを見ると私の目は釘付けになり、ゾクッと得体のしれない感情が湧き上がる。何かを問われている気がする。そういう美しさだ。

2021年に行われた「おおいた障がい者芸術文化支援センター企画展 vol.3 生きるチカラ」より(※写真撮影可、SNS掲載可でした)

 そのnui projectの図録を複数人で見る機会があった。もう5年ほど前のことだ。冒頭の言葉は、そのとき場をご一緒した、今は亡き陶芸家の知人が言った。「nui projectの作品がとても美しくて、その色彩が目に焼きついて(眼前に)迫ってくるようで、はじめて見た日はなかなか眠れなかったの」と。

 その言葉を聞いて、私は深く心を動かされた。ありきたりな表現だが「この人の目には世界がどのように映っているのだろう」と思った。私には見えない世界が、この人の目の前には確かに広がっていると感じた。

 いや、もしかしたら感動しただけでなく、嫉妬したのかもしれない。同じものを見て、私も同じく「美しい」と感じた。しかしその夜眠れないほど胸に迫る色彩体験をしたかというと、それは違う。だから、できるなら私も、その世界を見てみたいと願った。どうやったら私にもそんな体験ができるのかと、その人のことをもっと知りたいと思った。

 同じような体験をほかにもしたことがある。それは数年前に私がスマートフォンで撮った、一枚の写真に詰まっている。重度知的障害者である姉が映っている写真だ。姉は焦げ茶の絨毯に座り、その上に黒と白でデザインされたコーヒーフレッシュをいくつも並べている。そこに姉の背後にある窓から、レースカーテン越しに白い光が射し、コーヒーフレッシュと焦げ茶の絨毯に斜線を描いている。そういう写真だ。

 一見何気ない風景だけれど、思わずシャッターボタンを押したのには、わけがある。姉が絨毯にコーヒーフレッシュをゆっくりと並べるたびに、丸い影が一つ二つと増えてゆく、その光景を美しく感じた。彼女はそのコーヒーフレッシュをただ雑然と並べていたのだろうか。これは私の想像の範疇でしかないが、もしかしたら姉は光と影で遊んでいたのではないか、と思うのだ。

 いや、それさえ凡庸な解釈に過ぎない気がする。ほとんど言葉を発さない彼女の目と心に、そのとき実際にはどんな景色が映っていたのか、いつもどんな世界を彼女が見ているのか。私はそれを想像することしかできない。そのことが悔しい。

 「この人の目に世界はどんなふうに映っているのだろう」という問いは、どういうことを指すのか。世界を見るということは、そのための自分なりの視点を持つということであり、自分なりの切り取り方を持つことである。見るものの向こうに何があるのか感じ、考え、想像することでもある。何より、その人なりのやり方で世界を捉え、認識するということだろう。

 この世界の見方は多様である。あるはずだ。それぞれの人の目には、それぞれの世界が映っている。しかし私は普段、そのことを忘れがちだ。だから自分と異なる見方をしている陶芸家の彼女や姉の言動に触れたとき、一人ひとりが確かに生きていることを実感し、美しいと感じる。そして、できることなら私もともにその世界を見たいと願う。どうやったら見ることができるのか、と悔しく思う。

 この世に無数にあるはずの世界の捉え方を、私はもっと知りたい。生きてゆくなかで摩耗されなかった、あるいは生きてゆくなかで確立されてきた、その人なりのものの見方に触れて生きてゆきたい。あなたの目に映る世界を私にも見せてほしい。肉体が朽ち果てるとき、その目に映る世界も消えてなくなるならば、そんなに惜しいことはない。

 それを見るにはきっと、私は私の日々をコツコツと重ねるしかないのだろう。無数の日々を重ねた上で、あるとき不意に、他者の世界が覗けたような感覚を覚えることもあるのかもしれない。しかし、それでもやっぱり見ることはできないのかもしれず、だからこそ見たいと願うこと自体が、他者とともに世界を見ようとするという尊い行為なのかもしれないが。

 このリレーエッセイは書き手が見ている世界の一端を覗くことができる、貴重な機会だと私は思う。今日からそれぞれの書き手が綴るその世界の見方を、あなたにもぜひ覗いてみてほしい。