タクシードライバーという職業は人気がない。
タクシードライバーの仕事は何か。知らない人を乗せて、無事故・無違反で目的地に到着しなければならない。他人の命を預かる。責任は重大である。
免許があれば、自動車の運転は誰でもできる、だから簡単な仕事だ、と思われがちだ。けれど、自分が実際にタクシードライバーに就いて仕事をするか、と考えてみると、誰にでもできる仕事ではない、と気づくだろう。
タクシードライバーは乗せる客を選ぶことができないのだ。手が上がったら、誰でも乗せなければならない。公共交通機関だからである。タクシーは、鉄道、バス、飛行機と同じ公共交通機関。そのことを忘れている人は多い。これらの交通機関は、客を選んではいけない、と法律で定められている。たとえ反社会的勢力の人であっても、これらのサービスを利用できるのだ。
ただし、タクシーが他の交通機関と違うところは、自動車という狭い空間で、ドライバーとお客さんがやりとりして、目的地に行く、という点だ。
客になった人は、タクシードライバーと話をしなければ目的地にたどり着けない。
人間だから、やりとりのなかで行き違いがあって、クレームになることも、まま、ある。
タクシードライバーが不人気な職業になっているのは、そのクレームをひとりで対応しなければならないからである。応援はやってこない。
朝7時。横崎タクシーをいつものように出庫した。
出庫して向かう場所は、いつもの鶴崎駅だ。駅のロータリーを一瞥する。タクシープールは満車だ。駅の周辺は、バス、自家用車がひしめき合っている。数え切れない通勤客が歩いている。急ぐ者は、目の前の歩行者の背中を掻い潜るように左右に身体を動かして走っている。背中のデイパックが揺れている。ビジネスウーマンは、カツカツと靴音を立てて、大股で歩いている。
ぼくの入る隙間はないと判断し、駅から離れようとしたところ、「乗りたい」と急に手を上げた男性を見つけた。「回送」にしているけれど、路上の人はこれを無視しているのか、知っているのに気にしないのか。ぼくはルームミラーで後方を確認して、真後ろに軽自動車がいることを見た。ここで停車したら、追突事故になってしまう。ぼくは手を上げている男性を見て見ぬふりをして、ゆっくりと走り抜けていく。彼は、軽自動車の後方を走るタクシーに乗り込むだろう。
左折して、国道15号線に入った。横浜方面から川崎に向かう道だ。東京方面に向かうトラックが列をなしている。信号が青になったので、ゆっくりとアクセルを踏んで、トラックとトラックのスキマに、トヨタ・コンフォートを滑り込ませる。
いつものように営業スタートである。
GOアプリが鳴った。通称「金属通り」にある金物屋だ。この交差点には、人気のラーメン店がある。その南側には電子機器メーカーがある。30代男性、とGOアプリの電子情報が顧客情報をアナウンスした。
15号線から右折し、ゆっくり金属通りを南下して、お客さんの指定の場所に近づいていく。
金物屋の店舗近くの路上に、白いワイシャツを着た中年男性がスマホをじっと見て立っていた。
ぼくは男性の隣にタクシーを近づけて停車した。そこでようやく、男はタクシーに気がついた。ずっとスマホの画面でタクシーの動きをみており、リアルにタクシーが自分の真横につけてくるまでこちらを見つけられなかったようだ。
「ずっと探していたんだぞ」
いきなり不機嫌である。まだ午前8時なのに、泥酔客のような態度の悪さだ。
「羽田空港まで、急ぎで」
「羽田まで、ですね」
「だから、今、そう言っただろう。すぐに出せよ」
「いま、午前8時なので、首都高は渋滞していますから、ちょっとナビで調べますね」
「高速に乗ってまっすぐだろう。早く出せ」
「ナビを見ると、大渋滞ですね」
「急げよ」
「安全確認と渋滞状況を確認してから、と思っていまして……」
「お前さあ、早く出せよ」
男は、後部座席から、助手席のシートを両手で抱えて脅すような口調に変わった。
そして、僕の「乗務者証」をじっと見た。
「横崎タクシーの七海駆か。お前の名前は覚えた、すぐにタクシー会社にクレームの電話をいれてやるからな」
「ああ、そうですか。どうぞ」
「……本当にクレームの電話をいれるぞ、そうなったらお前はクビだろ」
「クレームを入れるかどうかはお客さまが決めることなので……。どうぞ。会社の電話番号もここに書いてありますから」
「なんなんだ、このタクシー運転手は、おれは急いでいるんだ。早く出せよ」
「タクシーを選ぶのはお客様の権利ですから」
「お前、謝れよ」
「はい? 何に謝ればよいのでしょうか?」
「いいから、謝れ」
「お客様を不快にさせたことですか?」
「そうだよ、お前、わかっているじゃないか」
「じゃあ、謝罪させていただきます。お客様を不快にさせて申し訳ありませんでした」
「じゃあ、お前に非があるんだよな」
「うーん、それを決めるのはお客様ですから」
「このやりとり、このドラレコで記録されているんだよな」
「ええ、しっかりと記録されていますね。これがそのカメラです」
ドラレコの設置場所と小さなカメラレンズを指で示した。
「ところで、どうされますか?」
「何が?」
「これだけお客様を不快にさせて申し訳ないんですが、この車で羽田まで行かれますか? どうされますか。この場所なら、すぐに他のタクシーがつかまりますよ」
「そんなことは分かってる。バカ野郎」
しばらくの間、車内に沈黙があった。ぼくはお客さんの反応を静かに待った。客は、バカヤロウ、のあとに僕がどういう反応をするのかを待った。
通勤時間帯である。お客さんは急いでいる。ぼくは急いでいない。
「降りる。いつもの運転手とは違うな……バカヤロウ!」
イライラした男が目をキョロキョロさせて、車外の様子をうかがって、ドアを開けっぱなしで出ていった。男が忘れ物をしていないか、後部座席をみて確認。何も無い。後部ドアを閉めて走り出した。
タクシー料金のメーターのスイッチを押していなかった。押していたら、停車している間も、料金が加算されていた。そうなれば初乗り料金とあわせた全額が自腹になるところだった。
客から暴言を浴びることはある。そのほとんどが深夜時間帯の酔っ払い客だ。だから心構えはできている。今回のように早朝の通勤ラッシュ時間帯に、暴言を浴びることは初めてだった。
ため息をついて、コンビニの駐車場につけた。セブンイレブンの100円ホットコーヒーを飲んで気分転換をした。タクシードライバーは孤独な仕事だ。一人きりで車内で起きたトラブルと向き合う。
罵られたり、説明したり、バカにされながら運転しなければならないこともある。
何度かトラブル経験をすると、やりすごす方法をみつけて、儀式のようにそれをするようになる。
気分転換が必要なのだ。そして、冷静になってから改めて次のお客さんを探しに出る。気分転換ができないとどうなるか。「次のお客さんも、クレームを言うのではないか?」と疑心暗鬼になってしまう。休憩時間が長引く。そうなれば、稼ぐチャンスを失う。それだけではない。お客さんに浴びせられた罵声が、脳裏から消えないままでは、安全運転に集中できなくなってしまう。つまり、自分やお客さんの身を危険にさらすリスクが高まってしまう。
車内で1人、「なんなんだ、あの客は!」と大声で怒ってみる。気の合うタクドラ仲間に電話して、愚痴として吐き出す。
気分転換は、タクシードライバーにとって重要なタスクなのだ。
運送業からタクシードライバーに転職した先輩はよく言っていた。
「俺たちは荒っぽい現場でもまれてきたから、客に怒鳴られても別になんとも思わない。行き先と道順を確認して、走るだけだ。カネを払わないなら警察に突き出す。態度が悪い客なら黙っている。殴ってきたら、警察に電話する。まあ、疲れるし、時間の無駄だけどな」
そう言って笑った。
そんなに深刻になるなよ。ひどい客ばかりじゃないからな。気分転換のホットコーヒーは飲み干した。腕時計は午前9時。エンジンをかけて、ぼくは走り出した。次の客は、良い人であるように、と期待しながら。