戦後70年、タクドラは「ふつうの仕事」になったのか 令和タクドラ日記 第10回

タクシードライバーは差別されやすい職業かもしれない。勤務初日に僕はそう思った。

それでも、「この仕事は絶対になくならないだろう」と、実際に働いてみて確信した。

人間が、ひとつの場所から別の場所に移動するとき、その手段は限られる。陸上移動ならば、徒歩、自転車、バイク、自動車、バス、鉄道、タクシー、この7種類しかない。
日本は高齢社会になり、徒歩と自転車、バイクで移動できない人が増えている。要するに交通弱者がマジョリティになっているのだ。

人口減少に伴って、どの地域でもバス路線は減っている。少子化で通学にバスを利用する学生は減少していくし、車椅子ユーザーは増えているが、バスは利用しにくいからと敬遠する人も少なくない。マイカーが普及した地域ではバスは不人気だ。

自動車を購入する若者は年々減っている。若者の所得が上がらないからだ。駐車場代も高額だ。都市部でマイカーを持っている人は、経済的に余裕がある人か、自動車なしでは仕事ができない人である。若者世代では、運転免許さえ持たない若者が増えているという。

ほとんどの地方は、自動車なしでは生活ができない「車社会」だが、若者は職を求めて都市に出ていく。若者は自動車を購入する余裕がないから、自動車を持たない生活を選ぶ。都市部で機動力がある移動手段はタクシーしかない。タクシーを利用するという需要はそうそう減らないだろう。

タクシードライバーたちは、大都会をパトロールするように走り、さまざまな営業手法を駆使して客を見つけて乗せ、目的地まで届けて報酬をもらう。シンプルなビジネスモデルだが、手堅い商売だ。

新型コロナウイルス感染症の影響で、タクシーに乗るお客さんが激減し、タクシー会社の倒産、自主廃業が増加した。同時に、大手タクシー会社による統廃合が進んだ。
タクシードライバーたちは、新型コロナウイルスだけでなく、タクシー業界の再編の荒波にも揉まれている。

タクシー会社が倒産したあと、ドライバーたちはどこへ行ったのか。ドライバー不足で悩んでいる同業のタクシー会社に移籍した人がいる一方、コロナ禍を引退の機会と考えて去って行ったベテランも多かった。
コロナ禍でも、ドライバー不足は解決しておらず、タクシードライバーは、今もずっと必要とされている。

ここでざっとタクシー業界の歴史を振り返ってみる。

タクシー会社には、大きく分けて二つの流れがあるようだ。

ひとつは、鉄道などの公共交通事業を手がけてきた大企業が、タクシー事業をはじめた流れ。このタクシー会社は、大手の鉄道会社の名前を、タクシーの社名にも冠していることが多い。

もう一つの流れは、ゼロから立ち上がった数多のタクシー会社である。数としてはこちらの方が圧倒的に多い。

タクシーの仕事の特徴は「現金商売」であることだ。クレジットカード決済、スマホ決済など多様な決済方法が用意されてきているが、まだまだ主流は現金だ。タクシー会社は、売上がその日のうちに現金で手に入る。

第二次世界大戦が終わり、戦後復興・経済成長の流れのなかでモータリゼーションが進んでいき、多くのタクシー会社が誕生した。

個人の小さな寄り合いが、数台のタクシー車両を手に入れて営業許可をもらう。数人のドライバーが営業する。その売上の一部を、新しい車両の購入にあてて、増車していく。戦後に「起業」した多くのタクシー会社は、そんなふうにして始まったのだろう。

高度成長期は、仕事を求める男たちが地方から都市に集まった。仕事のあてのない男たちは、とりあえず、タクシードライバーになった。今でも社員寮を持っているタクシー会社が多いのは、地方から出稼ぎに来る男たちに住居を提供していた名残だろう。

つまりタクシー会社は、当時の「ベンチャー企業」だったわけだ。タクシー事業に勝機を見た者の中には、在日コリアンの人たちもいた。彼らは日本社会では差別されており、会社に就職するのが難しかった。在日に対する就職差別があったのだ。そうした状況の中で在日コリアンの人たちは、自ら事業を立ち上げるしかなかった。焼肉などの飲食店、パチンコなどは有名だが、タクシー事業を立ち上げた人たちもいたようだ。

タクシードライバーは、運転免許さえあればなれる。21歳以上で、普通自動車免許をもって3年経てば、二種免許の資格が与えられる。約10日程度の教習を受ければタクシードライバーになれる。

さまざまな理由で、「普通の会社員」になれなかった、社会のメインストリームからはじかれた男たちがタクシードライバーになっていったのだ。

今と違って、昔はナビがない。スマホもない。その時代にタクシードライバーになった男たちは、自分の経験と地図を頼りに仕事をした。

接客の研修がないまま、自己流の仕事のスタイルで仕事をしている。そんなタクドラが普通だった。タクシー会社も接客研修の重要性がわかっていない時期が長かった。

ほとんどのタクシードライバーは真面目に働いていたが、中には、接客態度の悪いドライバーもいた。道に不案内な客を見つけるとわざと遠回りをして、高額な運賃を請求するタクドラもいた。タクシーに乗り込んだお客さんが、目的地を言うと、だまって発車、だまって目的地あたりに乗り付けて、感謝の言葉も言わずに、運賃を受け取る、というドライバーもいた。

タクシードライバーに悪いイメージができていく。ある地方では、「あのタクシー会社はヤクザのフロント企業だ」、というまことしやかな噂が流れたという。

これではお客さんからの信頼をなくす、と気づいたタクシー業界は、日本各地にタクシーセンターをつくり、タクシー会社へのさまざまな指導を行うようになる。交通ルールを無視した、違法な客待ち駐車をやめさせる。お客さんからのクレーム電話を受けて、悪質なタクシードライバーを特定して、会社に注意を促す。銀座などの繁華街で、遠距離のお客さんの取り合いで殴り合いのケンカをするタクシードライバーを仲裁する。それでも、長く染み付いた「体質」をすぐに変えることは難しい。

そんなタクシー業界に新しい風が吹いたのは、バブル経済の崩壊だった。バブルが崩壊し、倒産や人員整理をした会社から、たくさんのホワイトカラーの労働者が、飯を食う仕事としてタクシードライバーになったのだ。他業種で、接客や営業経験を身につけた人間が、タクシー業界に流れ込んできた。

態度の悪いタクシードライバーに不満を持っていたお客さんは驚いた「この運転手は、ちゃんと挨拶をして接客してくれる」。お客さんからは大好評。同時に、古いタイプのタクシードライバーはクレームの対象になっていった。

売上をあげているから会社に文句は言わせない、と接客に力を入れてこなかった古参ドライバーと、他業種で接客を身につけたドライバー。その差を知ったお客さんは、タクシー会社を選ぶようになっていく。嫌な目にあったらタクシー会社にクレーム電話する。業界は少しずつ変化していった。

そして、技術革新の波がタクシー業界にも押し寄せた。最新型のナビや、車両の内外を撮影記録するドライブレコーダーが標準装備された。

新人ドライバーは道を知らなくてもナビを使えば仕事ができる。
車内の様子がドラレコにすべて記録されるので、タクシー強盗や乗り逃げが減った。
泥酔した男性客から女性ドライバーへのセクハラ被害も減少した。
深夜時間帯の泥酔客が、ちょっとしたことでぶち切れる映像も全て記録される。
映像をみれば、運転手に非があったのか、お客さんに問題があったのか確認できるようになったのだ。

長年の課題だった、人材採用にも変化が起きた。

タクシードライバーの世界で、大学新卒の採用は不可能とされてきた。年歴経験不問、運転免許をもっていて健康であれば採用、が普通だった。過去は問わない。だから不器用な男たちが働く場所だった。
大手タクシー会社は、大学新卒の採用に力をいれて、毎年、着実に採用人員を増やしている。
女性ドライバー、外国人ドライバーも増えた。東京五輪で訪日外国人が増えることを見越しての採用だ。多言語が話せる外国人ドライバーは即戦力として期待された。

タクシードライバーは、ようやく「ふつうの仕事」になってきたのだ。しかしまだまだ、タクシードライバーという職業を積極的に選ぶ人は少ない。

できれば就きたくない仕事としてみられているのが現実だろう。

そしてコロナがやってきた。平和だった日常が急変した。

一億人がマスクをつけて、ウイルス感染を恐れて外出しなくなった。

タクシードライバーは売り上げの低迷で、退職者が続出した。

僕はそれをタクシーの車内から外の世界を観察して実感した。

失業したお客さんは、タクシーに乗って「役所まで」と行き先を指示した。車内の会話から、これから生活保護の申請に行くことが分かる。

Twitterを眺めると、「突然ですが退職します」というタクドラのアカウントが増えていた。コロナ禍で売上げ低迷、減収で生活に困窮したのだ。現金商売が裏目に出る。その月の売上げが低迷すれば、手取り給与が激減する。タクシー業界を去る若手ドライバーが増えた。

そして、高齢者のタクシードライバーが残った。ほかに行くところはない、と腹をくくったオッサンとジジイのドライバーたちが、タクシー会社を支えている。庶民の移動の足を支えている。

深夜時間帯、ゴーストタウンになった川崎、横浜を空車で走る。

いつも迎車に呼んでくれたスナックの扉には「当分の間休業します」の張り紙。ネオンが消えて、店は真っ暗だ。

それはディストピアを巡回して観察する快感だった。

こんな風景はみたことがない。


廃業や自主廃業を決めたタクシー会社は中小零細が多かった。

戦後に創業された一族経営の会社が多い。保有台数の少ないタクシー会社から資金繰りに行き詰まって廃業の決断をしていった。保有台数が多く、営業所の立地がよい中堅のタクシー会社は、大手タクシー会社の傘下に入っていった。

東京では、「大日本帝国」、と呼ばれる大手4社がある。大和自動車、日本交通、帝都自動車、国際自動車。この4社がシェアをのばしていく。四社に共通しているのは、社員教育の充実とコンプライアンスの遵守。顧客満足度の追求だ。

これまで自由きままに営業してきた古参のタクシードライバーたちは、慣れ親しんだ会社が消滅すると同時に、車を降りた。

コロナ禍で一変した風景のなかを、空車で疾走する。

空車ひとり旅だ、と自嘲的に笑いながら、タクシードライバーになって良かった、と心から思った。