4. 世界が動き出すとき

受けつがざる者

 私は総領娘でしたが、父は次男坊で、その実家は長子相続の根強い土地柄にありました。 ありふれた勤め人だった父には、わが子に受けつがせる財産などありませんでした。親族からしても、私は女ゆえ、受けつぐべき者として数のうちにも入らなかったようです。地縁や血縁から放りだされた自分の立場については、本意ではありませんでしたが、そのぶん責任もなく、自由でした。

 身を立てられるならば好きなことをすれば良い、という両親のもとで、私は自分の根っこをおろす先を求めて大学を目指しました。大卒の父とは違って、身内に大学進学をした人がおらず高校の授業料さえも渋りがちだった母は内心、娘の大学進学に賛成しかねるようでした。しかし、その頃のおとなたちは口を開けば、
 「なんとかなる」
 「何をしても食って行ける」
と言いあっていた時代でした。それで母も観念したのか、最終的には私を大学に送り出してくれました。

 世界の企業格付け上位 30社のほとんどを日本企業が占めていて、人々はそれを当たりまえのように思っていた頃のことです。

 父は我が子に対してたいへん口数の少ない人でしたが、語らないことに意思があったと気づいたのは後年のことでした。

 考えてみれば”女らしく”とか”女だから”といったことを一度たりとも口にすることなく、娘である私が元気にすごしている様子をただ黙って、目を細めて見守っているようでした。女性の軛となる因習から切り離した世界で、私の翼をもがずに育ててくれたのです。

 親は団塊の世代、私はベビーブーマーで受験はたいへんな競争でしたが、なんとか大学に入りました。そこですぐに、手に職をつけるには学部の4年間では足りないことに気づきました。それからは、専門職を目指すために大学院に進んで臨床心理士としての技術と資格を身につけようと考えて、学費づくりのアルバイトに励む学生となりました。

 私にとっては、一人ひとりを生かす組織づくりや、戦争のような破壊ではなく創造的にする交流を叶えたい、と願っての心理学専攻でした。けれども、そもそも一族の中で高等教育に進んだ例がほとんどなかったものですから、大学受験も学生生活もなにもかもが手探りでした。

 東京の職場で、ときに一日16時間を超える激務をこなしつづけた父とは、同じ屋根の下にいながら互いの顔を見る機会も限られておりましたが、相変わらず言葉少なながらも、私のことをずっと守ってくれていました。

自分でつかむ楽しさ

 病院の精神科思春期病棟、教育委員会から派遣される児童・生徒宅への訪問、郊外の精神科病院、大学での学生相談など――大学院在学時から現場に出させていただきました。臨床心理士の資格を得たあとには大学講師なども含めて、さまざまな現場でクライアントさんたちと関わってきました。

 臨床現場では、なんどとなく奇跡としか言いようのない出来事に出逢いました。関係者のひたいを寄せ集めて、ひたすらに支えるしかないようなクライアントのにっちもさっちも行かない困難な日々の先に、予想だにしなかった展開が起こって状況を好転させたり、解決に向けて一挙に動きだすような出来事です。

 ”セレンディピティ”という言葉がありますが、意図や予想の外側から、思わぬ転機がやってくることがあります。それがいつ起こるのか、は偶然としか言いようがないことが多いのですが、自ら”つかみとる”ことによって、世界が大きく動き出すような転機は、誰の人生にも訪れているように思えます。

 思えば、私の”応募癖”もそうでした。子どもの頃、学校の遠足以外にもほかのお宅のように旅行がしたかったのですが、小学生の子どもにできることは限られておりました。学校から帰ると、母の買い物のお手伝いに同行するのですが、そのついでにレジのあたりにある応募用紙があるのに気づいて、懸賞に申し込むようになりました。せっせと応募していたら、運よく好きな牛乳の生産地である、高原の牧場を訪ねる旅行に招待されました。

 高原の牧場を満たす清涼な大気に浸っていると、大好きな牛乳がいっそうおいしく感じられたこと、
 「お好きなだけ、どうぞどうぞ」
と牧場の方に勧められて、お腹がチャポチャポになるほどいただいたこと、ごくごくと喉を通っていった出来たての牛乳の心地よさは、自分でつかんだ旅の楽しさと相まって今も忘れられません。初めて見る牧場や生産者の方々のご様子にも興味津々で、もっと知りたいことがどんどん湧いてきました。夢を叶えたらそれでおしまいになるのではなくて、ひとたび夢を叶えると、世界はもっともっと広がることを知りました。

 小さくて弱い存在だった子どもの時分から――そのときはそこまで考えてはいませんでしたが――自分から手を伸ばすと幸せにつながる出逢いがあることを感じていました。

 そして、なんということか。

 紆余曲折を経た今となっても、そのような楽天的なものの見方は変わっていないのです。

 親族で主流にいた人たちの醸しだす空気よりも、世間の風のほうが温かかった、というだけなのかもしれないのですが。

 自分の手から、より良い世界を創りだしていける。そうした喜びは、受けつぐものよりもはるかに鮮烈なエネルギーとなって、私を築き支えてきてくれたようです。