「波」
だだっぴろい畳の部屋だったと思う。窓から縁側へ抜ける風を腹で、差し込む光を瞼で受けながら、さっきまで泳いでいた海から持ち帰った波の揺れを、何度も何度も味わっていた。消えてしまうのがもったいなくて、夢の境界ぎりぎりでとどまりながら。
実家は山の中にあり、畳の部屋はもっとずっと小さく、二段ベッドと勉強机で埋まっている。海に遊びに行った記憶はない。レジャー施設の「流れるプール」で人工波に揺られたことはある。友達に聞いた本物の「海」の思い出とかき混ぜられたのだろうか。出来事は定かでないのに、波に揺られたあの部屋、あの時間だけを身体がたしかに覚えている。
都会に出て、大人になって、海はなお遠のき、陸の上で酩酊する手段を覚え耽溺した。ここ数年はひどく硬直していて、きっと波を必要としていたのだと思う。そのことに気づいたのは、どうにもならないほど遠くへ流されかき混ぜられ、ようやく凪が訪れてからだ。