ムスメの保育園も再開。いつもの通園路を二人でてくてくと。
道中、ムスメが抱っこリクエストしてきたので、抱っこと見せかけて「たかいたかーい」をしたら「なんでぇやんですかぁーい」という新種のツッコミをいただいた。
この日まで保育園は年末年始の合同保育期間で、人数が少ないので学年混ざって一緒に過ごす。いつもと違う、道路を渡った反対側の園舎で過ごすということで、ムスメも、同じタイミングに着いたお友達数人も、ちょっと不安になって半泣き。0-1歳のときに自分たちも過ごしていた場所ではあるのだけど、そんな昔のこと覚えてないし、環境が急に変わるとびっくりするよね。明日からまたいつもの場所だよーということで、励まして応援して送り出した。
その足で、保育園近くにある区役所の障害福祉課へ。自立支援医療の管理票(利用記録つけるやつ)が最後のページになったのでその更新と、精神障害者保健福祉手帳の申請書類をもらいに。
福祉課の窓口で障害者手帳申請の説明を受けていると、隣の席のやり取りも耳に入ってきた。お子さんの療育手帳の更新のようだ。なぜだか祈るような気持ちになった。あのお母さんやお子さんの暮らしが少しでも安心できるものになりますように。かつて僕が教室で関わった子どもたち、保護者さんたちも、どうか少しでも穏やかな時間を過ごせていますように。僕はいま、同じ窓口で成人向けの福祉制度を受けようとしている。生きていくために福祉を使うのだ。
昨年末、三越の写真展でお会いした写真家の齋藤陽道さんが、宮沢賢治の詩を「写訳」したもの。
そこらは青くしんしんとして
今日も、同じ時間だけ書き物と読み物をして、合間にいくつかミーティングをして、そして3人でご飯を食べ、お風呂に入って眠った。
ブリュノ・ラトゥール著, 伊藤嘉高訳『社会的なものを組み直す アクターネットワーク理論入門』を少しずつ読み進めている。
つまり、ここで興味を引く問いは、誰がどのように行為しているかを決めることではなく、行為についての確定性から行為についての不確定性に移行することにある。
行為が非局所的であるならば、行為が何らかの特定の場に属することはない。行為は、分散され、まだら模様であり、複合的であって、定位されず、アクターにとっても分析者にとっても謎のままである。
一緒に読み進めている 福森伸(しょうぶ学園施設長)著『ありのままがあるところ』の記述とリンクする。健常者→障害者、分析者→アクターといった傲慢な上下関係の中で解釈しようとするのではなく、「わからない」ことに耐えながら、それぞれの視点から紡がれる世界を見ようとすること。
寝転んで水の表面をちゃぷちゃぷさせている彼女のその行為は池の水にアフォードされているということになる。そう思うと、池も常識的に理解している池としてのみ受け取らずともよくなる。彼女の快適さを引き出すものとして、彼女にとっての存在意義がある。環境が人と多大に影響し合っているということが学園という限られた空間の中であっても、とてつもなく存在している。