アパートメント 第七話―頭の裏

 写真のことはよく分からない。ミーハー心で買ったデジイチも、焦点やら色温度やら調整することが多すぎて使いこなせない。ましてや作品を観て「批評」することなどもってのほかで、前に立ってただ「あぁ、いいな」ぐらいしか言葉が出ない。それなのにどうして僕が写真や、それを撮る人—写真家さんに惹かれるかといったら、むしろ普段の僕の言葉が過剰すぎるからで、写真はそれを黙らせてくれるからだ。撮ることを生業にする人たちは、僕に足りないなめらかさを持っている。
 
 
  
 小伝馬町のギャラリー。ヤマザキさんの個展の撤収作業を手伝っている。かおりさんの管理人室で知り合って以来、「どうせ暇だろう」と僕をよく手伝いに呼びつけてくるのだけど、確かに暇と言えば暇なので毎回付いて行く。バイト代を出してくれるのは求職中の僕に対する心遣いなのだろうとも思う。
 
 
 「毎回すまんな。飲み込みが早くて助かる」
 「大したことしてないですよ、僕。どうせ暇ですし」
 「なんだ、ふてくされて。最近文章も書かないし、どうかしたのか」
 「別にふてくされてるわけじゃないですよ。文章は、書くほどのこともないし、書いてもろくなことにならないんで、書いてないだけです」
 「そういうのをふてくされてるって言うんだ。どうせまたごちゃごちゃ悩んでんだろ。もう出るぞ。ちょっと一杯付き合え」
 「あんまり呑む気分じゃないです」
 「いいから付き合え」

 神田駅から徒歩5分、雑居ビルの地下1階にある家族経営の居酒屋 。せせこましい店内に、仕事帰りのサラリーマンと店員さんの活気づいた声が飛び交う。選択の余地もなくキンキンに冷えたジョッキ生が差し出され、空きっ腹を刺激する。突き出しの枝豆を5房掴んで食べる。旨い。

 「事前にグタグタ言う割に飲み始めると勢い良いよな、お前」
 そう言われれば反論しようがないけれど、結局僕の悩みなんて、胃袋を満たせばごまかせる程度の重さしかないのかもしれない、と、そう思った。
 「なら自分で考えて解決しろ」と、いつもなら頭の裏から説教が聞こえてくるのだけど、思いのほか今日は黙ってくれているものだから、まぁどうせ大したことないし、酒の席のネタになるならいいじゃないのなどど思いながら、

 「女の人ってどうしてあんなに軽やかに次へと抜けていけるんでしょうね」
 ポツリと口にする。
 「なんだ急に、失恋でもしたのか」
 「いや、そういうのとはちょっと違うんですけど」
 あながち外れてもいないツッコミを曖昧な返事で受け流し、冷奴をつまんで、少し黙る。話の先を考えていなかった。
 
 「こないだ初めてかおりさんの踊りを観ました」
 またポロリと言葉を出す。
 「すごかったろう」
 「はい」
 「ああいう踊りは、なかなか観られないぞ」 
 「そう思います」
 言って、あの時の熱がまた蘇ってきそうで、冷えたビールの二杯目を流し込んだ。

 「他人と比べたって仕方ないのは分かっているというか、そもそも自分なんかと比較っておこがましいんですけど」 
 
 「自分の言葉と思考はなんて五月蝿くて過剰なんだろうって、思いますよ、最近」
 ここのお店の名物、チキン南蛮が届いた。ソースがよく絡まっている。僕はそれを二切れ続けて口に入れる。ヤマザキさんは、タコわさをつまみながら、僕の次の言葉を待っている。
 
 「乾いたスポンジみたいにスカスカだから、好奇心だけは旺盛で、外へ外へと出てゆきました。浴びた水分が零れ落ちないようにちゃんと形にしようと思って、あるいは、貰ったものへのささやかなお礼の気持ちを伝えようと思って、文章を書きはじめました。ところが駄目です、言葉を尽くせば尽くすほど、世界はその網目をするりと抜けていってしまいますね。彼女たちは今そのものと歩調と呼吸を合わせて歩んでいるのに、僕はいつも一歩遅れているようです。追いつこう、理解しようと頑張ってるうちに、今度は言葉まで逃げてゆきます」

 「そのうち、人のことも分からなくなります。目の前の人を見ているのか、その人との過去の想い出を見ているのか、怪しいです。積み重ねた過去との一貫性とか、他の人との比較とか、世間体とか、そういうの全部取り払って、芯の想いだけを抽出して相手に贈りたかったはずなのに、いつの間にかがんじがらめです」

 「まぁ、書くというのはある種不自然なプロセスだからな。抽出と翻訳の過程でどうしたって遅れとズレは生じるもんだ。しかし人間はどうあったって言葉でしか思考することが出来ない生き物だから、必然の営みでもある。ただ、お前もかおりさんの踊りを観て―他の女とは何があったか知らんが、理解しているようにな、考えるより動くことで越えられる間合いもあるんだ」
 「きっと、そうなんだと思います」
 「俺たちの場合は、思考より速くシャッターを切る」
 「だから好きです、写真」
 言葉を交わしながら、締めの焼きおにぎりをひとつずつ取ってかじりつく。

 「お前の悩みも分からんでもない。俺も駆け出しの頃、今ここでシャッターを切ることは自分の主義主張の押し付けじゃないかとか、ノスタルジーの道具にしてるんじゃないかとか、撮る前にごちゃごちゃ考えてたことがある。そうこうしているうち現実は、シャッターチャンスはどんどん通りすぎていく。ある時思い切って押してみたら、撮れた写真は軽々と俺のくだらない煩悶を飛び越えてくれていたがね」
 「その、シャッターを切れたきっかけって、何なんですか」
 「きっかけか。よく覚えてない…というかたぶん、無いぞそんなもん」
 「無いんですか、やっぱり」
 「タイミングなんて、かけた時間や煩悶の量とあんまり関係なくフラッとやってくる」
 「そんなもんですかね」
 「そんなもんだ。だからこそ、そんなに焦るな。考えることも書くことも休むことも遊ぶことも、どれがいつどんな結果に結びつくかなんてわからんのだ。だが、それらは全て、お前の『生活』としてあるだろう」
 「『生活』…そうですね、それはずっと続いているものです」
 答えた時、他のお客と店員さんのかけ合いがまた耳に入ってきた。頭の裏からはもう何も聞こえてこない。焼きおにぎりの最後の一口を放り入れる。
   
 
 「ごちそうさまでした」
 「おうよ」
 出されたお茶を飲み干し、会計を済ませて地上に上がる。
 「色々言ったがな、今日のお前の話しぶりは、素朴で良かったぞ。書く時もそれぐらい気を抜けば良いんだ」
 「それたぶん、酒とメシのおかげですよ。現金なもんで」
 そう言って軽く笑った。夜風が気持ち良い。