仮面の間に

  昨今のコロナ禍で、オンラインビデオツールを使って人とコミュニケーションをとる機会がとても増えた。ZoomミーティングやGooglemeetsなど様々なツールが用いられるのだが、そのときにハッとするのが「自分の真顔の恐ろしさ」だ。自分の真顔はこんなに無表情なのか。人をキッと睨んでいるようにも見える。口角も下がっている。そんな顔をまずオンライン会議に出席するときは待機画面で「整えて」から出席する。実に奇妙だ、と思う。

 笑顔も同じだ。何かある話題で誰かが面白い話をぽろりとこぼし落としたとき、みんなが画面の上でカラカラと笑っている。私も笑っている。でも私は笑うと同時に、笑う自分の顔を画面越しに観ている。そしてその自分の笑顔がとても滑稽に思える。私ってこんな顔で笑うんだ。普通に生活していたら、自分の笑顔を第三者的な立ち位置から見ながら会話をするということはまずないだろう。ああ、面白い。面白いのは、話題だけじゃない。とにかく自分の<顔>が、滑稽なのだ。

 オフラインで誰かと会って交流をするときは、全身から漂うその人なりのオーラのようなもの(別に私はオーラが見えるわけじゃない)を感じつつ、そっとその人に近寄り、話しかけるという仕草があり、ぱっと場が打ち解けたり、和んだり、緊張したり、弛緩したりする。しかし、オンラインの交流はそれらのオーラのようなものや、その人を表す視覚情報が本人と背景くらいしかないので、何となく場の雰囲気づくりも最初は大変気を遣うものになる気がする。

 コロナ禍になる前までは、身支度をしてお化粧をして、笑顔の準備だけを家の鏡の前で済ませて、そして同僚や友人やはじめましての人と会っていた。それが、画面越しだけの、オンラインでだけの繋がりになって、私は自分の口角が無意識に垂れ下がっていることや、それを<わたし>として捉えられる環境に身を置いてみることで、何となく複雑で寂しい気分になった。直接会っていたら、もっと違った風にこの人に接するだろうに、と思うからだ。

 ビデオ会議をしているときは、私が気にしすぎる性格だからなのかもしれないが、話し手の表情や会話を聴きながら、自分の顔をちらちらと見ていることが多い。それは、自分ができるだけ自然な笑顔で相手の話に相槌を打つ「よい聞き手」でありたいという思いからなのだが、その考え方自体が全くもって不自然である。自然な笑顔って、どんなのだっけ。自然な相槌って?自然な会話って……。ビデオ会議が終わるころ、私は結構な疲れを肩に乗せている。多分、直接会ったら会ったで違う疲れがあるのだろうが、「取り繕った自分像」で会話のお相手方に対峙してしまったようで、しっかりと、疲れている。

 ここまでは話を聞く側について書いてきたが、逆に私がビデオ会議で話す側になったときはどうかというと、これも私は結構気にしてしまうことが多い。あ、この人は何となく退屈そうにしているだとか、この人はスマホをいじりながら話を聞いているな、だとか(別に何の問題もないのだが)、私の話がなんとなくひどくつまらないものになっていないかということを必死に確認する。だから、私が話すときは私は自分の顔を見ていない。これも対照的で、面白いと言えば面白いことなのかもしれない。

本来笑うということは、もっと偶発的で、ときにはものすごい熱量を帯びていて、相手と自分を包み込んでしまう自然な営みだと思う。笑顔とは、ぱんぱんに膨らんだ自意識から、他人の顔色を窺いながら、画面を見ながら微調整しながらつくるものではないと私は思う。笑うこと、その表情がたとえぎこちなくても、それでも普段他者にしか見えないはずの自分の顔も含めて、自然に笑うことができればいいのにな、と思う。明日の自分は、自然に笑えているだろうか。そうだといいな。