わたしの訪看さん

「はい、じゃあまず熱を測ってくださいね」

そう言って看護師さんは私に体温計を差し出す。体温を測り、心拍を測り、血圧を測り、一式のルーティンが終わると、女性の看護師さんとのおしゃべりが始まる。

私は精神科訪問看護というサービスを利用している。私のように体調に波がある人や、自分の病状を定点観測してくれる人を必要としている人などの家に、看護師さんが定期的に訪問してくれる。様々な理由から精神科訪問看護を必要としている人は少なくないと思う(あまり知られていないサービスかもしれないが)。

週に1度、看護師さんが私の様子を見に来てくれる。私は外出が人よりずっと困難なパニック障害という病気を持っているから、外に出て散歩なんかはあまりできないけれど、元気で調子がいいときには一緒に外に散歩に行ったりもする。

主任の方ともう一人が基本的にシフト制で私の家に来る。最初は「一人の人に決めてお話したいです」と言っていたのだが、もしその一人が何かあったときに困るから、という理由で二人の担当の人がついている形になる。もうこの精神科訪問看護というサービスを受け始めて二年近くになるだろうか。

新婚生活が始まるか始まらないかくらいのとき、担当のひとりの方が東京に異動するという話になり、我々は同じくらいのときに結婚して新婚あるある話などで盛り上がっていたので、かなり寂しく感じた。

「代わりの方が来てくれるので」

その看護師さんはそう言い残して、別れを惜しんでくれた。

新しくやってきたのはIさんという女性の看護師さんだった(私が女性を希望しているのでいつもやってくるのは女性の看護師さんばかりだ)。

Iさんの仕事ぶりは初めて対面したときからとても丁寧で、私のことを最大限気遣ってくれる方だと感じた。年齢もそれほど遠く離れてはいないだろう。だが私は、なんとなく「この人ともしかしたらそんなにうまくやっていけないかもしれない」と感じた。それは直感的なものだったのか、何なのかはよくわからない。病状がそのとき特に悪いときだったから、かもしれない。どちらにせよIさんに非はないし、担当を変えてもらう積極的な理由が見つからなかったので、なんとなくそのまま訪問看護の利用を続けた。

Iさんとおしゃべりをしていると、なんとなく、毎度話が事務的に終わっているように感じたし、この1週間の病状や体調の説明に終始して終わりを迎えるだけの30分に感じた。

しかし、Iさんは本当にいつも丁寧な仕事をしてくれた。それは私の血圧を測ったり、私の病状をノートにメモしたりといった隅々にわたる仕草からそう感じられた。「この人は本当に丁寧に仕事をする方だな」と思った。

なにか突然ブレイクスルーが起こったわけではない。シフトでIさんと顔を合わせることを重ねる度、Iさんがとてもチャーミングで素敵な女性だなと何となく感じられるようになった。Iさんは私の話をよく傾聴してくれたが、それより、Iさんが自分の身に起こったことを笑いを交えながら話してくれることがとても楽しく、なんとなく少しずつ私の心がほぐれ、ひらいていった。

そんなこんなで時間を重ねていけばいくほど、Iさんの訪問が楽しみになるようになった。Iさんは自分の話やあるある話をとても愉快そうに語った。よく笑う人なんだ、と私は思った。笑顔を見ていると、こちらも幸せな気分になるようになった。

結婚記念日が近づいてきたとき、「そういえばうちの夫もサプライズとか全然しないんですよ」と記念日のサプライズについての話で盛り上がった。「私も夫が花束なんかを用意しているとはあまり思えませんね」と私も笑いながら話した。

その次にIさんが訪問をしてくれたとき、なぜか虫歯の話で盛り上がった。ちょうど私が虫歯治療をしているという話をまたIさんが拾ってくれて、笑い話にしてくれた。そしてその後、生理前後にしんどくなるという話をお互いにしていると、Iさんは「私も昔から生理前後の2週間は使い物にならないんですよ、だから実質2週間くらいしか元気ではいられませんね」というようなことをこれも笑い話にして話してくれた。生理前後の辛い話は女性にとってあるあるだが、この人はなんでも笑い話に変えてしまえるんだなぁ、ということがすがすがしく、気持ちよかった。その訪問の最後あたりに、「そういえば夫が結婚記念日にプリザーブドフラワーをくれたんですよ」とその花を見せて言うと、「よかったですねぇ!そのことを今度田代さんに聞いてみようと思ってたですけど、虫歯の話に夢中になっちゃって忘れていました」とIさんは笑いながら言った。私の私生活での一コマのことを、ちゃんと覚えていてくれるんだなぁと思うと、とても嬉しかった。

今ではすっかりIさんと打ち解けて、Iさんが家に来てくれることが楽しみになっている。

精神科訪問看護に関わらず、他人を家に招き入れ、そして体調や個人的な悩みやらを聴いてもらう、というのは少しばかり勇気のいることだと思う。私は割と気にしない方だけれど、一般的な話として、そうではないかなと思う。訪問してくれる看護師さんとの相性もある。けれど私は、なんとなくの最初の直感で担当を変えてもらわなくて本当によかったなと今では思っている。人間同士なのだから、お互いの体調や波長が微妙にズレていたりする時期というのは誰にでもあることだろう。それでも、粘りづよく他者と対話を短い時間でも続けていくと、今回のように直感が外れて、思いがけずいい関係を築けることもある。そんなことを訪看の人が来るたびに思う。

これからもずっと主任の方とIさんに診てもらいたいなと思う。でも、もし将来主任やIさんとお別れをして別の訪看の人のお世話になることになったとしても、(看護師さんを含む)他者のことを直感だけで決めつけたくないなと思う。人と人との間にはいつもゆらぎがある。体調、感情、様々な要因が絡み合って、お互いにぴったり自分の状態と合っているときばかりではない。けれど、ゆるやかに信頼関係を築いていくことで生まれる歓びというものは確かにあると、Iさんとの関係性を通じて思ったのだ。

次はどんな話ができるだろう。訪看の時間がちょっとした楽しみだ。