見たくないことについて

 見たくないものというものがあるはずだ。見ずにはいられないものがあるように。

 僕は幼い頃、母に連れられて訪れたデパートが苦手だった。特にその下着売り場が。母は潔癖な人で、一緒に風呂に入った記憶も無いし、洗濯物を見た記憶も無い。見てはならないはずのものが所狭しと並んでいる光景と、そこに群がる人々が、なんだか妙に恐ろしくて、じっと足下を睨んでいた。化粧品売り場も嫌いだった。壁に貼られたポスターの女性が皆自分を凝視している。まるでモナリザの絵のように、自分がどこにいてもその人はこちらを見ている。それがどうにも恐ろしくて仕方が無かった。

 歳を経るにつれて、見たくなさは見たさとどこかで繋がっていった。小学生の後半だったか、中学生だったか忘れたが、太宰治の人間失格を読んでいて、妻が友人に犯される(というほど苛烈なものではなかったはずだが)場面があって、それが幼心に圧倒的に理解の範疇を超えたものだった。あまりにも恐ろしかった。恐らく僕はその場面に多かれ少なかれ呪われたと思う。見てしまったものというのは、事故のようなものだ。どうにもならないものだ。人の命も精神も、風に舞う葉のように危うげだ。殆どのことは偶然で出来ている。

 それから暫くして、僕は多くの同世代の男性がそうであるように、ある日たまたまネット上で成人向けコンテンツに出会った。当時、WinnyとかWinMXとかいう違法ダウンロードソフトが流行っていて(もう時効だろうから気にせず書く)、僕は当時耽溺していた60~80年代のロックやメタルのライブ映像をひたすら検索・ダウンロードしては夜な夜な見て在りし日に思いを馳せていた。そうした違法ソフトの通例で、人間の暗部に関わるようなコンテンツもまた入手が容易だった。偶然落ちてきた成人向けコンテンツを、どうすることも出来ずにただ見てしまった。それはその年齢の少年にとって不可避なことだったろう。その映像は、不運なことに、簡単に言えばレイプものだった。それも、(明らかに作品としての品質が保たれたものであるから違法性のあるものではないと想定されるものの)演技が真に迫っていて(もしくは当時の僕にはリアリティを感じずにはいられなかったものだったのかも知れない)、僕はその光景に絶望しながらただただ見た。そして、ありきたりな興奮を自らが得ていることを否定することが出来ないことに更に絶望していた。月並みながら、男性という存在が潜在的にもっている(と少なくとも過去と現在において多くの状況でそう解釈されて差し支えのなさそうな)加虐性という観念に、それ以降ずっと憑きまとわれることになった。

 これは笑い話にも出来るだろう。実際そうしたこともある。全ては悲劇であり同時に喜劇だと思う。なんだって如何様にも解釈可能だ。ただ花が咲いたり散ったりするようなことだ。何の意味も無い。

 兎に角、僕はそのありふれた現象によって、何かしら呪われたように思う。人間の根源的な暴力性と、そのどうしようもなさ。それがずっとどうしようもなく頭のどこかに巣くっている。掻き鳴らされるギターの音、叫び、叩き尽くされる鍵盤、地を鳴らすビート、そうしたものに陶酔することもまた、暴力的な衝動そのものだ。ムンクの絵が何故人を惹きつけるのか。ベーコンの絵が何故リアリティを持つのか。感情が、押し込められた感情が、暴発して何かを不可逆に変化してしまう瞬間、そういう瞬間があまりにも美しくて、恐ろしくて、どうしてもそれを見てみたいと思う、そういう思いにつきまとわれている人はいると思う。僕は草花が好きだし、それも、野に咲く花が好きなタイプの人間だ。動植物に囲まれて平穏に生きていたい。だが同時に、生け花において草花の命を奪うことでその美の瞬時を現出させるような、罪深い、恐ろしい人間の営みにどうしようもなく目を奪われてしまう現象もまたある。

 そして、何も見たくない。

 高校生の頃、学校で賑やかに過ごしていた僕は、時に何故だか家で夜更けに一人、古今東西の猟奇的な犯罪のことをひたすら調べたりしていた。旧ユーゴスラビアの民族紛争、アルメニアとアゼルバイジャンのそれ、猟奇的な殺人事件、そうした、血で血を洗うような、どうしようもなく恐ろしい人類の歴史を、食い入るように調べていた。何故人間がそこまで残虐になれるのかが気になって仕方なかった。大人になって、働き始め、海外に駐在したりして、一人休暇で旅に出る時などは、そうした地域のユースホステルなんかに泊まって、まだ当時の記憶を残す土地や人々と出会い、話し込んで、何が何だか分からない思いでいた。人が何故、そうなってしまうのか。誰しもがそうなる可能性がある。そういう根源的な恐ろしさのことが気にかかって仕方なかった。最も見たくないもののことが、つまり理解の範疇を超えているもののことが、どうにも気になって仕方なかったのだ。

 あなたもまた何かを見たくないと思っているはずだ。自分の中のもの、他者の中のもの、目を背け、耳を覆いたくなるものがあるはずだ。見ないようにしているものがあるはずだ。

 もう一つ思い当たることがある。幼い頃、あの例の世界の歴史の角川だったか学研だったかの一連の漫画本、を一通り読んでいて、今でも鮮烈に記憶に残っている場面がある。古代エジプトの王が、永遠の(抽象的な)命を得るために、ミイラの研究を配下に命じた。医者の男がひたすら研究を続けるも、幾ら死体を切り開いても分からないことがあると酷く悩んでいた。そこに彼の妻が思い詰めたような表情で現れて、静かに一言「私を切って下さい」と言う。男は逡巡しながらも、結局、涙を流しながら、愛する妻の腹部を生きたまま切り開く。そのシーンが、幼心に、余りにも衝撃だった。もっと言うなら、そこで腹を切られる彼女の苦悶の表情が、今思えば、異様に「エロティック」に見えたのだ。日常性に対して垂直に屹立しているものが性愛だとするならば、その死を賭した覚悟は、それこそ永遠にも匹敵するような強度を持っている。その情景は今でもくっきりと頭の中にこびりついている。かといって何というわけでもないのだが、この現象は何だろうと思う。

 最も見たくないものが、最も見たいものであるのかも知れない。そうでもないかも知れない。

 坂口安吾の「戦争と一人の女」という短編小説 ― これは近藤ようこによる漫画も素晴らしいし、映画にもなっている ― があって、この作品においてその「女」と「男」は、破滅に向かう戦争の只中で、これが全てを終わらせてくれるということだけが唯一の希望であるかのようにして、交わり、愛し合う。日常というものが、性愛という概念にとっての最大の敵でもあるかのように。全てを飲み込み、破壊し尽くす絶望的な暴力というもの、それだけが唯一つの救いであるかのように。

 (僕は全面的に平和主義であって、全ての暴力を ― 暴力を憎む暴力性のことも ― 憎む者であることを言及しておく)

 このことは決してお伽噺ではないと思う。つまり、それくらい人間とは不確かで危うくか弱い存在だということ。それはつい最近の出来事によっても、あらためて思い知らされたことだと思う。これほどまでに、人間は愚かだし、弱く、吹けば飛ぶような存在だ。だから何ということもない。だからどうすべきと言うつもりもない。ただそこら辺の草花と同じような存在だということであって、だから何というわけでもない。その耐え難い軽さ、耐え難い愚かさ、それを見ないで済むために、大いなる破壊を切望する者がいたとしたって、おかしくはないと思う。死にたいと思う人はいつの時代もいるものだ。恐ろしく大きな主語と余りにもいい加減な述語を使うが、人間というものはどうしようもない。だから見たくない。見たくないからこそ、見てしまう。まあ、そんなもんだろうと思う。そのことにも、大して意味は無い。僕個人の話をすると、恐らく結局のところ、最も見たくないもののことを、理解したくて、目を見開いて見られる日が来ることを思って、ただ生き永らえているのかも知れない。そんな大したもんでもないとも思う。

 それにしても。

 あなたが見たくないものはなんですか。あなたが見たいものはなんですか。