「葡萄」
一時的な別居のために借りた小さなアパートの一室で、どうせ長く住むわけでもないだろうとたかを括って購入した小さな冷蔵庫は、いざ離婚することになって本格的な一人暮らしをすることになってみると、明らかに小さ過ぎた。扉を開けるたびに腰を屈めなければならないし、それが面倒で、とにかく横着な僕は、冷蔵庫を開けたくないからと惣菜やデリバリー飯ばかり食べるようになって、もう数ヶ月になる。
また引越しをしなきゃいけなくなって、仕方無く冷蔵庫の中身を掃除しようと開いたら、一月前に買ったらしい葡萄がポツンと入っていた。冷蔵庫の温度が低過ぎて、全然状態が変わっていない。何故だかふと興味が湧いて、とりあえずキッチンに出しておいた。それで満足して、特に掃除もせずに、眠ってしまった。
翌朝起きてきて、顔も洗わずにとりあえず換気扇の下で煙草に火をつけると、目の端で何かが蠢いているのを感じた。なんだろう。ふと目をやると、昨晩放置した葡萄の実が、ふるふると動いている。もしや。何か虫でも潜んでいたのだろうか。眼鏡をかけてじっと眺める。葡萄の実は静かに揺れている。
ピリ……とも、ヌチャ……とも言えぬ何とも言えない音が微かにして、葡萄の実が静かに破れた。ポトリ。葡萄の本体?が影になってよく見えない。動悸を感じながら、呆然と見つめる。
「おはよー」
……女がいた。葡萄の実よりも小さなサイズの、目を凝らさないと分からないような、たぶん……女が。
「めちゃくちゃ寒かったよー」「冷蔵庫の設定間違ってるんじゃない?」「これだから独り身の男ってのはやなんだよねー」ギリギリ聴こえるような声で女は話す。えっと……あなたは?
「私の名前なんてどうでも良いの。それよりあんたは?誰?」
僕は訳も分からずこの小さな小さな存在に自己紹介をした。とりあえず布を破って服を作ってやった。女はよく喋った。数日が経ち、気付けば女は十七人くらいになっていた。僕は挽肉を買って、薄味のそぼろを作り、小さな欠片を並べるようになった。みかんを買って果肉の中の一粒一粒を外してやった。女達はわいわいと小さな声で騒ぎ立てながらそぼろやらみかんの粒やらと格闘していた。僕はメガホンを買って、女達の声がいつでもちゃんと聴こえるようにした。
彼女らは短命だった。生まれた時から大人の形をしていたし、小さ過ぎるからちょっとした風で吹き飛ばされたり、食当たりを起こしたり、とにかく弱々しかった。十七人いた彼女らは数週間で三人になった。一週間、二週間が経ち、一人、また一人、と減って、最後の一人になった。
「多分わたしもう死ぬね」
「案外そうでもないかも知れないよ」
「流石にわたしにも知性ってものがあるよ。他の十六人とわたしがそんなに違うとは思えない」
「もしかしたらそうじゃないかも知れない」
「そうかなぁ」
「だって君はあの時生まれた最初の子だよ」
「子って言い方は嫌いなの。小さいからって馬鹿にしないでよね。わたしがもっと沢山いたら、マイノリティとして声を挙げてるよ。ミクロなマイノリティ、なんてね」
「冗談は良いから、もう休みなよ。体力無いのは知ってるよ」
「うん。なんかもう眠くなってきた。寝るね。おやすみ」
彼女が目を覚ますことはなかった。他の彼女たちと同じように、朝になったら硬くなっていた。僕は彼女をそっと手に取って、近くの公園の、茂みの奥の、いつもの墓に行った。
なんだかふと気が変わって、少しぼんやりとした後に、僕は新しい穴を掘った。新しい穴に、彼女をそっと置いて、静かに土を被せた。
僕は車を走らせて、海辺のスーパーに行き、季節外れの葡萄を買った。引越すのは、来年にしようかなと、ふと思った。