私がノートに触れるとき、ノートもまた私に触れているのだ - 「書く」とき・ところ・道具とわたし #4

■私がノートに触れる

もう二十年くらい、ノートにあれやこれやを書き続けている。ぱっと思い付いたこと、じっくり考えたいこと。面白いこと、辛いこと。誰かのこと、自分のこと。小説、映画の台詞や、歌詞の書き写し。日常のToDoメモ、なにかの数字や計算メモなんかも。

昔は、凝った装丁のノートとか、小さいサイズのとか、罫線のない無地のとか、あれこれ試して。今は学校でよく使われるようなCampusの6号サイズ(セミB5)A普通横罫に落ち着いている。縦書きにこだわった頃もあった。今は、横書きが多いけど、突然ノートの向きを変えて縦書きにするときもある。いつでも持ち歩いているから、鞄のサイズによってはノートの端がグシャって折れたり擦り切れたりもするのだけれど、気にしないことにした。家でも外でもどこでも、ときどき人と一緒にいるときでも(驚かせてごめん)、急に開いて急に書く。ぱっと一言だけとか、電車で数駅分とか、ときどき数時間なんてこともある。

いわゆる「日記」ではないような気がする。日記って、毎日決まったような時刻にその日を振り返って書き残し、後で見返すための記録、というイメージ。私のノートはちょっと違っていて。頭とか脳とか思考とか、なにかそういうものを瞬間的に助けてくれるありがたい道具なのかなって思う。読み返すことはほとんどない。一応、段ボールいっぱいにとってあるし、書くたびに律儀に日付、時刻、場所も書きつけるけど、記録の意図は特にない。

私の頭の中は、春の野原の草木や生き物みたいにあっちこっちで好き勝手に花をつけたりぴょんと跳ねたり、蠢いていて、考えごとが、もしくは考えごとという程でもないようななにか思い浮かんだことが、出たり引っ込んだりしていて。いつも落ち着かない。そんな私のノートだから、やっぱりしっちゃかめっちゃかなのだけれど、それでも、頭の中だけで考えるよりは随分いい。文字を書きつけるときの指、ペン、紙の手触りや小さな擦れる音が、集中力というと大げさだけれど、私の意識をわずかながら特定の話題に繋ぎ止めてくれる。

高校生の頃、ボールペンでノートに文字を書くスピードが思考のスピードに追い付かなくて、もどかしく思ったこともある。最近は、手書きがタイピングスピードに劣ることをもったいなく思うこともある。それでもこのノートは手書き。

一行、書く。その間に、やっぱり意識はもう次の考えに飛んでいってしまう。それでも、考えると同時に、文字を書き文字を見る私の身体や意識は、せめてその話題の範囲くらいには繋ぎ止められている。だから、飛ぶけど飛びすぎない。そんな文字の楔のおかげで、こんな私でもまとまった時間なにかを考え続けることができる(天気や体調次第ではある)。

■ノートが私に触れる

ノートに書かれた文章は、その考えもその文字も、もちろん私が書いたものだ。明らかに、能動的に。ただ、こんなことを言うと変に思われるかもしれないが、ときどき気がつくのだけれど、私とノートの関係は、書く・書かれるの一方通行ではなさそう。

私が文字を書くと、ノートと机から押し返されるような手応え、とても小さな反発力を感じさせられる。シュッとかグッとか、ペン先と紙が擦れる音やわずかにペンが軋むような音を聴かせられる。ノートを抑える左手には、ささやかな文字の跡のでこぼこを感じさせられ、ときどき、インクで黒くよごされる。それから、否応なく、既に書いた文字を見せられている。

私が文字をノートに書くとき、手や耳、目を通じてノートや文字が私に触れてくる。書くという行為は、私の一方的な孤独ではない。下手くそだけれど長年連れ添ってくれている私の手書き文字たちとこのノートが、私を見守り、私に応え、私を促してくれているような気がしてくる・気にさせてもらっている。

■考えを書いた・書かれた考え

高校生の頃だったか、誰に見せるわけでもない自分のためのノートだというのに、もしくはだからこそ、奇妙な断り書きをいつもいつもノートを開くたびに最初に書きつける癖があった。

「私は今日も、自分の考えという建前、前提のもとで、このノートに文章を書いている。しかし、書いてしまった瞬間からその文章なんてどうせ、自分が本当に考えていたこととはなにかがどうしてもずれてしまうだろう。もしくは、文章こそが支配者なのかもしれない。自分の考えが先にあってその後に文章が書かれたはずなのに、文字を書いた次の瞬間には、書かれた文章こそが元々の自分の考えそれ自体を決めつけてしまっているのかもしれない。それでも・・・」

私はこのノートを単に「ノート」としか認識していなかったのだと思うけれど、この原稿を書いてみた結果、このノートは「たぶん日記ではない何か。なんらかの『補助的な道具』」だと考えている・考えさせられている。それから、今までにも薄々感じてはいたことだとは思うけれども、この記事の文章を書いてみた結果、今、これほど強く「ノートの応答性、存在感、能動性」を意識している・意識させられている。

私と私のノートがせめぎ合う。

私、私の考え、私の文章が三つ巴にせめぎ合う。

そうしたせめぎ合いの果てに、私が今ここにこうして在る。

ひょっとすると、このノートがなければ私は今のこのような私じゃなかったかもしれない。いつもこのノートと一緒に考えてきたから:

書くことで気が付いたこと、書けたから伝えられたこと、書けたのにどうしても伝えられなかったこと、書いてみても分からなかったこと、そうは言うまいと書いたのに何故かそう伝えてしまったこと、書いたから続けられたこと、続けていきたいと書いたものの結局は続けられなかったこと、書くことで諦められたこと、もう諦めようと書き続けてもずっと諦められなかったこと、書いてきた誰かのこと、書いている自分のこと、書かなかったこと、書けなかったこと、それから、それから。