TBSテレビの日曜劇場『ラストマンー全盲の捜査官ー』を観て、「介助とヒーロー」というテーマのもと、脊髄性筋萎縮症(SMA)Ⅱ型による重度身体機能障害のある愼 允翼(しん ゆに)と、重度訪問介護制度による愼の介助者の一人鈴木 悠平(すずき ゆうへい)が対談する。今回はEp.6「不器用な愛のカタチ」について。
護道家の別荘で清二(寺尾聰)の誕生日パーティーが開かれた。皆実(福山雅治)も心太朗(大泉洋)とともに招かれるが、心太朗は護道家の輪に入ろうとしない。そのパーティーの最中、東京郊外の別荘で立てこもり事件が発生する。犯人は別荘の所有者で、警備会社社長の菊知(髙嶋政宏)。菊知は自分の妻と娘を人質にして、現金10億円を要求する。皆実は交渉役に名乗り出て、心太朗は菊知の指示で10億円を調達することになった秘書を追うことに。人質となった犯人の妻が怪我をしていることを知った皆実は周囲の制止を振り切り、単身で別荘に乗り込む。そこで、自分が妻の代わりに人質になることを提案する。
『ラストマンー全盲の捜査官』番組公式サイト Ep.6「不器用な愛のカタチ」あらすじ
以下、Podcastに公開した音声ファイルのリンクに続いて、同音源の文字起こしを最小限編集・校正したテキストを掲載する。
ゆうへい:はい、では「介助とヒーロー」第4回の対談収録を始めます。『ラストマン』のエピソード6「不器用な愛のカタチ」の感想を2人で話します。
簡単に話の概要を振り返ると、菊知岳大(きくちたけひろ)さんという警備会社の社長さんが、妻と娘を人質にして保養所に立てこもり、身代金2億円を警察に要求、妻はもう撃ってそこに倒れてるみたいなことも言って、これはやべぇぞってことで、特殊犯捜査チーム(SIT)も出てくるような事態になったんだけど、実はその菊知さんもイヤホン越しに脅迫されている被害者だった。真犯人は警察に立てこもりを通報した宇佐美翔(うさみしょう)という青年で、菊知さんが社長をやっている警備会社で従業員として働いてたんだけど、実は彼はその社長の息子だったという。20年前ぐらいだったかな、菊知さんが離婚した前の奥さんとの間に生まれた息子さんでした。宇佐美自身がその事実を知ったのは1年前、母親が亡くなる前で、いわば父親への「復讐」としての犯行だった。
ゆに:しかも人質の娘さんは立てこもり現場の保養所にはいなくて、真犯人の宇佐美が近隣の別の工場に時限爆弾付きで監禁していて、皆実さんたちが事件解決に奔走するというお話でした。
ゆうへい:今回のエピソード・タイトルが「不器用な愛のカタチ」ということで、親子、家族の中でもとりわけ親子関係に焦点を当てており、犯人、護道さんそれぞれを取り巻く親子関係が描かれていました。さて、ざっと概要をさらったところで、何から話しましょうか。
ゆに:まず今回、印象的だったのは、皆実さんの犯人への態度と仕打ち。今までも犯人に対してキツめのこと言うことがなかったわけじゃないんだけど、基本的にはそれは護道さんが担っていて、皆実さんは比較的優しめの言葉をかけることが多かったじゃない?前回のお弁当の話で初めて、犯人の逮捕時に現場に立ち会わずっていうのが面白かったって話したと思うんだけど、今回はそれ以上に、けっこうキツめに犯人をやっつけたなって。
ゆうへい:過去6話の中で一番冷徹に、徹底的に、かつ端的に短い時間で痛めつけたよね。
ゆに:短い時間で痛めつけたのは、人質にされてた女の子の時限爆弾のリミットが迫ってたのもある。皆実さんが今まで「ろくでもない奴ら」に対してやってきたのは、FBI仕込みの、日本では違法であるような捜査、さらには司法取引を持ちかけての騙し討ち、それはFBIでもだめだろうっていうことをやってきたんだけど、今回もそれに近いような「騙し討ち」を仕掛け、さらには犯人の動機を打ち砕く言葉を浴びせていて…というのが印象的だった。
ゆうへい:『ラストマン』は毎回ちょっと”現代的”なテーマを盛り込んでいるのが特徴なんだけど、今回はキーワードとして「親ガチャ」という言葉が出てきた。真犯人の宇佐美は、立てこもりをしていた警備会社社長の、実は息子だったという。金もない母子家庭でずっと苦労してきて、「親ガチャ」に外れたのが自分の人生だと思っていたら、そうではなくて、自分が大変なのは自分が子供の頃に父親がお袋と別れたからだったんだと。父親は新しい妻と娘と、もうなんか楽しそうにバーベキューしてるし、娘(宇佐美からしたら義理の妹)は私立の小学校に通ったりバレエ習ったりしてることがわかった。つまり宇佐美は、ビジネスで成功した裕福な父親の息子であり、「俺は親ガチャに”当たった”側の人間だったはずなのに、なぜその恩恵を受けられなかったんだ、許せん」みたいなのが彼の犯行動機というか、世界観だったんだよね。それに対して皆実さんが、「あなたがそこまで親にこだわるなら、お教えしましょう。恵茉(えま)さんは、菊池夫妻の実の子供ではありません。養子です」って”事実”で殴り返すという…
ゆに:その前に、犯人を捕まえた段階でまず一発殴ってるよね。娘さんはまだ確保できてなくて、吐けって言っても宇佐美は断固吐かないから、護道さんがその場で銃を突きつけて脅した。俺は殺人犯の息子だから撃てるんだよ、って。さすがに警察に撃たれるとは思ってなかったから本気でビビって、もちろん護道さんは本当に撃ちはしないんだけど、明後日の方向に撃つ(宇佐美に銃声を聞かせて撃たれたと錯覚させる)と同時にスタンガンで気絶させ、ごく短い時間のうちに病院に連れていき、まるで夜になったかのように演出した状態で彼を起こし、あたかも娘さんを助けられなかったように振る舞って、犯人に勝たせたようなふりをして、娘さんを監禁していた場所を犯人がポロって吐いちゃったところで、「護道さん」ってイヤホンで通話して現場に向かわせる…という「騙し討ち」をした。わりと見え見えの展開ではあったんだけど(笑)
ゆうへい:犯人(宇佐美)が吐いてから病室のカーテン開けてね、残念、そんな時間経ってなかったよーんっていう。
ゆに:まずそれが一発目のパンチだよね。
ゆうへい:うん、そうだった。その上でさらに犯人の心情の吐露と、皆実さんの言葉での「こらしめ」があったという流れだね。何で俺だけ苦労して、妹はのうのうと楽して生きているんだという呪詛に対して皆実さんは、娘の恵茉さんも決してラクをして生きてきたわけじゃなくて、バレエで怪我をしてスポーツができなくなったけど、その経験をきっかけにスポーツドクターを目指して勉強頑張ってるんだと、困難があったとしてもその後どう生きていくかは人によって違うんだと、二発目のパンチを打つ。
ゆに:「親ガチャ」って言うんだったら、彼女が怪我をした後にどう対応したかも含めて人生はガチャの連続でしかない。人はいつでも不幸な目に遭うし、それに対応しようとするし、その対応がうまくいくこともあればいかないこともあるし、でもそれを繰り返していく中で人生全体の「ガチャ」は、実は幸も不幸もフィフティー・フィフティーであることが統計で分かっていると。あらかじめ決まったことが大事なんではなくて、自分がどう対応して人生を切り開くかが重要なんだってことを、ガツンと言うんだよね。
ゆうへい:そうだね。要はあの…文化資本の格差とかさ、そういう話はずっと言われてきてんじゃん。どんな経済・教育レベルの親のもとに生まれたかによって、その子の教育レベルとかもやっぱ相関が出るんだとか、そういった社会的な格差の話はあるとしてさ、でも、生まれだけが「ガチャ」じゃなくて人生すべて「ガチャ」というか、その後も生きている限りは試行回数がたくさんあるわけで、この皆実さんの二発目のパンチは、「親ガチャに外れたらそこで人生が終わりだ」という本人の世界観、その「ガチャ」というたとえに乗っかってさらにもう一発殴るっていう。
ただ、宇佐美はそれでも全然納得しなくて、「俺だって苦労してきた」とか「そんなの俺の人生に比べれば天国みたいなもんだろ」とか「最初の親ガチャで全部決まるんだ」とか言い返す。なんか結局、再婚後の娘の方(菊池からしたら妹)はあんなに可愛がってもらってるのに、なんで俺は、同じ父親に愛してもらえないんだみたいな、そういう心の叫びが聞こえてきたな。
ゆに:「親ガチャ」っていう社会的なワードを使っていたけど、犯人の自己心情は、要は「俺は愛されていない」という、実はもっと素朴なものであって、そこで同情買おうとするわけだ。でもそれも皆実さんには通用しない。
ゆうへい:で、ダメ押しに恵茉さんは養子だという「事実」を突きつけた。
ゆに:新しい奥さんはたぶん、子どもができなかったんだろうね。
ゆうへい:そうだろうね。養子をとって、その後娘として育ててきて、ということだろうね。
ゆに:まぁちょっと、これまでで一番厳しく言葉で打ちのめしたねっていう回でした。
「親ガチャ」っていう言葉が、まるで社会的な差別、不正義の問題を語る上で「妥当な語り口」であるかのようにまかり通っていて、僕は全くダメな言葉だと思っているんだよね。それは、社会的な不正義を立て直す上でも不適切な言葉だと思っているんだけど、でもまるでそれが世間では、社会的不正義を弾劾する上で、役に立つ言葉かのようにまかり通っていて、これをまず皆実さんは、『ラストマン』の脚本は、否定しているよね。
その上でさらに、親子関係の前提とされる「血のつながり」の問題っていうのも出していて、これは「親ガチャ」よりもっと古典的な発想だよね、どの親のもとに生まれたかが重要なんだっていう、これも否定する。「親ガチャ」という言葉の背景にはやっぱり、典型的な「親子の関係が大事」「親子の血のつながりが大事」っていう、人間の歴史のなかで、わりと古典的かつ端的にダメな発想があって、これにも手をかけて、「そんなの関係ない」っていうのが、今回のエピソードで、明確に、思想的に言わんとしてるところだと思う。
ゆうへい:そうだね…。なぜ血がつながってないのにあいつ(菊池)は娘のためにあんなに必死になるんだみたいなことを宇佐美が言って、皆実さんがニューヨークでの経験を話したところも印象的だった。目が見えない皆実さんが地下鉄のホームから転落して、今にも電車が駅に入ってくるというギリギリのところで、見ず知らずの人が飛び降りてきて、身を挺して皆実さんを助けてくれたことがあった。あとで皆実さんが、その助けてくれた人に、なぜ見ず知らずの自分をそんなに命がけで助けてくれたのかって聞いたところ、本人は一言「わからない」と答えた。
ちょっとこれ自分の話になるんだけど、僕もニューヨークに留学してたことがあって、あのシーンですごい色々思い出したの。ニューヨークってさ、それこそまぁ、アメリカ的な資本主義の権化というか象徴みたいな街で…みんながイメージする”華やかな”ニューヨークと、やっぱり貧富の格差とか”厳しさ”が同時に存在していて、物価もめちゃ高いし、成功してる人たちもみんな必死で働いて稼がなきゃその暮らしを維持していけないし、やっぱちょっと中心地から離れると、もう露骨に人種構成とかみんなの身なりとかが、同じ電車に乗っててもどんどん変わっていくし…非常にこう、なんていうのかな、シビアな街なんだよね。ところが、シビアな街でありながら、同時に、みんな電車とか公園とか「公共」空間ではお互い対等な大人として明るく振る舞うというか、もちろん格差とかあるんだけど、誰かが転んだり、赤ん坊が泣いてたり、道に迷って困ってたりしたら、すごいみんな声かけて助けてくれるんだよね。
今回の『ラストマン』観て僕が思い出したのが、ある雪の日に知り合いのホームパーティー的なものにお呼ばれしたときに、僕は借金して留学中の大学院生で、まぁつまりお呼ばれする会に見合うほどのモノを持っていけるほどのカネはなかったんだけど、それなりに考えてワイン1本を手土産に買って向かっていったのよ。冬のニューヨークめちゃ寒くて、その日も雪めっちゃ積もってて、道中転んでワインを割っちゃったの。そしたらね、もうすぐにさ、近くのお兄ちゃんが駆け寄ってAre you OK?って手を差し伸べてくれて…あの雪の寒さと、 割れたワインの瓶と、カネのない留学生という自分の身分と、人の温かさのコントラストがなんか妙に染みちゃって(笑)、そのとき僕「この街好きだな」って思ったの。アメリカ的な厳しさと優しさっていうのかな。脱線しましたが、血のつながりがあろうとなかろうと、見ず知らずの人であろうと、人は理由なく誰かを助けるために動くことができる、そんなことを思いました。
ゆに:なんかさ、その話受けて思ったんだけど、結局あの犯人(宇佐美)は皆実さんの言葉が全く響いてない感じがしたんだ、僕は。「うわー」とか犯人が病室で叫んでたけど、あれはたぶん、自分の犯罪が叶わなかったこと、あるいは自分の考えが否定されたことに対する反発に過ぎなくて、「反省」ではないと思う。
皆実さんがあそこでニューヨークでの体験を話してたのも、やや”ちぐはぐ”というか、皆実さん、あれ言ってなんか犯人に分かってもらいたかったんだろうか?っていう。僕はあれ、皆実さんが犯人に”改心”を促してるようにはとても聞こえなかった。だって皆実さん、人間心理のプロじゃん。あれで改心するとしたら、第1話の青年ぐらいでしょ。彼も同じように、社会的に不遇な立場の青年で、でもあの青年はさ、自分のお母さんのことを思いながら、復讐に走っていて、なんかね、同じように人を殺そうとする犯罪者でも、1話の青年=「無敵の人」に対しては、皆実さんはなんとか立ち直ってほしいという気持ちなんだよ。
ゆうへい:そうだね。
ゆに:明らかに今回は、犯人に「お前は死ね」と言ってるようなもんだろというぐらい厳しく接した。なんで皆実さん、今回はあんなにキツめに言ったのかなってのを考えるのが今回面白かったな。ネットニュースでもちょっとバズってたというか、軽く燃えてたでしょ。
ゆうへい:そうなんだ、知らなかった。
ゆに:皆実さんの言葉があまりにも正論すぎてちょっと痛かったっていう風に言ってる人がいて、まさに「親ガチャ」という言葉が持っている、欺瞞的な…と僕は思ってるんだけど、「親ガチャ」と言えば社会的不正義が弾劾できるっていう発想を持っていた人が、意外と多いなっていうのと、そうした風潮や考えはダメなんだっていうことを、炎上覚悟で言ってたんだろうと、今回思った。
ゆうへい:この間さ、第4話の話をしたときに、殺人っていうのは人間関係が「閉じて」しまった末に発露する行動だってユニくんが言ってたじゃん。第1話の「無敵の人」っていうのは、社会的にも経済的にも排除された存在で、排除され孤立しているからこそ、俺はもう何やっても「無敵」だ、失うものなんかハナからないんだ、と思って犯行に至るのが、いわゆる「無敵の人」による犯行だと考えられているよね。で、『ラストマン』第1話の青年も「無敵の人」と言われるぐらい社会的に孤立していたんだけど、でも母親との、家族との関係はかろうじて閉じきっていなかった。爆弾をつくって犯行におよびながらも、同居している病気のお母さんをケアしていた。
でも今回の「親ガチャ」を言い分に犯行に及んだ宇佐美の方は、亡くなった母親のこと全然喋らなかったし、父親に対しても「親ガチャ」の当たり外れの範疇で自分が恩恵を受けられなかったことへの恨みつらみしか言わなかったし、「無敵の人」より一層こう、なんていうのかな…もう全てにおいて責任を取らない、「200%の他責」なんだよな。
ゆに:そうだね。「閉じてる」「開いてる」って話を出してくれたからいま自分でも分かったんだけど、1話も6話も、どっちも「閉じてる」人間関係から暴走してはいるんだが、いうても1話の犯人はお母さんには「開いてる」んだよね。でも6話のこいつ(宇佐美)は自分のことしか考えてない。本当に「我が身可愛さ」しかない。「我が身かわいそさ」とも言える。これはほんとにね、子供。子供じゃないね、カスだねはっきり言って(笑)
ゆうへい:この6話も含めて、現実世界での社会課題を踏まえて『ラストマン』の脚本は書かれていると思うんだけど、犯罪行為というものがあり、それを止めて刑事司法の裁きに付すっていう話と、一方で加害者であれ被害者であれ当事者のそれまでの人生とか経験に対するケアや回復も大事ですよねって話と、「親ガチャ」であれ「無敵の人」であれ、インフルエンサー同士の嫉妬・妬みからの蹴落とし合いであれ、人々をしんどくさせる社会的な「構造」というものを何らかの方法でより公正とか善いと思える方向に変えていけないだろうかっていう、政治とか経済とか社会変革の話はさ、もちろん相互に影響し合うんだけど、本当は別のレイヤー、別の話なわけじゃん。でも、この3つのうちいずれかの話を持ってくることによって、他の1つ2つの対応をやらなくていいかのように思ったり、免罪・免責してしまったり、ないものにしたり…っていう風潮が、僕はやっぱすごく危険だなと思ってて。
やっぱり「親ガチャ」って言いたくなる気持ちになる人たちは現実に存在して、それは背景にはいわゆる生まれの格差、文化資本・社会資本の継承とか不均衡とかあるよねって話もあって、じゃあ政策的になんらかその格差の再生産をどうにかしましょうかとかは、それこそ、障害がある人たちの運動や政策づくりの歴史にもあったわけじゃない。ただ、それはそれとして、生まれがどうであっても、その上で「どう生きるか」っていうことは、今回の宇佐美みたいに、本人が全く他責的になって人生を放棄していいって話ではないわけじゃん。そこをちゃんと切り分けて、「NO」と言うべきことには「NO」と言い、個別にケアやエンカレッジをすべき、できる相手や場面ではちゃんと言葉をかけてっていうのが、皆実さんであり、『ラストマン』の脚本なのかな、と僕は思ったね。
ゆに:まったくそうだと思う。僕が『ラストマン』を好きなところは、その「切り分けることができる」ってことが、この世界で生きる上で最も強い人間の力なんだって言っているところなんだよね。このドラマが、その「切り分けること」を主張することで何をしてるかというと、「権力」の話。これ、いわゆる政治権力じゃなくて、ニーチェが言うような「権力」で、そういう、この世の全てを司って動かしていく「力」のポリティクスを感じるのよ。
何を言ってるかというと、皆実さんの今回の行動もまさに象徴的だったけど、まず最初、立てこもり犯のところに赴いて、自分が人質になりますっていう話をするときに、吾妻さんにお願いしてたじゃん。私を案内してください、あなたにしか頼めませんって感じで。他のみんなが皆実さん勝手なことするな、ダメだって言ってるときに、ほとんどあれだよね、バレたら職務規定違反になるかもしれないような「裏切り」を吾妻さんにさせて、自分が立てこもり犯(菊知)のところに赴くサポートをさせようとする。で、吾妻さんもそれに乗っちゃうわけ。なぜかというと、皆実さんのことが好きで信頼しているからだよね。
捜査が進む過程で、実はその立てこもり犯(菊知)も脅迫された被害者だったことがわかり、彼が経営する警備会社に捜査班が調査に行くんだけど、そのときに一回上からストップがかかったよね。その警備会社の秘書が政府の談合に絡んだ疑惑があって、もともと検察が入る予定があったから、あんまり警察が捜査して現場を荒らすなっていう、現場の護道さんたちに上が圧力かけてくるんだけど、皆実さんはアメリカ大使館と外務省経由で、「もっと上」からの権力を使って、それを潰すんだよね。皆実さんは駐日アメリカ全権大使とお友達で、日本はアメリカの圧力に弱いっていうのをちゃんと分かった上で、アメリカ大使館の圧力をめちゃくちゃ使い倒すっていう、分かりやすいタイプの「上からの権力」行使で、さっき言った吾妻さんを動かした場面はいわば「下からの権力」行使と言える。
上下両方の権力を噛み合わせて、全てを粉砕するような力を持っているのが皆実さんという存在。政治的にまず明白で分かりやすい上からの権力行使ができて、それと同時に持ち前の人たらし能力と、身体障害者であるということで、現場の人たちを動かして下から上にも攻撃できるっていう。
ゆうへい:「吾妻さん、あなたしか頼れる人がいないんです」ってさ、もう口説いてるよねこれ(笑)
ゆに:完全に口説いてる(笑)あんなこと言われたら、やっぱりやっちゃうよ。皆実さんはそういうことができる人だから、さっき言ってた社会的構造の不正義の問題と、個人が努力すべきことっていうのを、「切り分ける」ことができるんだよね、でもね、それは上下両方の権力を持ってるっていう、皆実さんの圧倒的な「強さ」があってこそ成り立ってるわけ。
ゆうへい:そうだね。
ゆに:そういうふうに分析しちゃうと、救いようがないほど「強者の論理」ではあるんだよね。だけど僕はこの強者の論理を、あえてその、悪い意味で言われる「強者の論理」と言わずにね、「ヒーローっていうのは強くなきゃヒーローじゃない」じゃん、と言いたい。
もちろんそういう、社会的不正義とか重視する方は多いよ。『ラストマン』も所詮、警察権力の話だからやっぱりダメじゃんっていう人もいるかもしれない。でもさ、誰かを守ったりするためには「強さ」がなきゃできなくて、「ヒーロー」ってのは強くなきゃいけないでしょ。強いってことは「力」があるってことに決まってんだよ。それは否定できないでしょう。というか、「否定しないことができる」でしょ。
現代社会ってさ、そういう人間に宿る「強さ」を、「個人」に宿しすぎちゃうと結局そこに権力集中して暴政のもとになるから、政治的な機能に分散させようとしてきたと思うんだよね。ルソー、モンテスキューがそうじゃんか。だけどさ、ルールとかそういうものー「構造」によって何かを守ろうとするのもさ、限界があるわけなんだよね。どっちも限界があるの。
で、やっぱ皆実さんは明らかにさ、いわゆる狭い意味の「法」ってものを軽視した行動が目立つよね。ルール違反が目立つじゃん。皆実さんはきっとね、「たかが法だ」って思ってるんだよ。本当に「力」があるのは俺だと思ってると思う。僕はそれ、いいと思う。
これだけ「法的秩序」が跋扈していながらも、一方で「親ガチャ」とか「無敵の人」とかっていう問題が未だに残り続けている現代社会の矛盾において、あえて古典的に、人的に宿る力っていうのを使う、人間に宿る力でそれを解決しようっていうのは、最終的にそれが「正しい」「悪い」とかじゃなくて、すごくね、理解できる。僕は正直好き。
ゆうへい:まあ神話の時代から物語、英雄譚ってさ、やはりそういう既存の秩序の「外側」に旅して帰ってくるもんね。ヘラクレスとか桃太郎とか。皆実さんも日本で、多分これから真相明らかになってくるんだろうけど、事件で両親を失い、目が見えなくなった過去があって、アメリカに渡り今回日本に帰ってきた、つまり「外」に行ってまた帰ってきたヒーローってことなんだろう。「外」からやってきて「別の秩序」を差し込む存在である皆実さんは、さっきまでユニくんが話したように、確かに色々な面で「強い」んだけど、やはり視覚障害があって、テクノロジーとか護道さんをはじめとする介助者との「協働」によってこそ、その「力」が発揮できる人であるというのが、また『ラストマン』の面白いところだよなと思うんだよね 。
ゆに:介助を通して、「下」からの力の行使がより強まると。障害者じゃなかったら人たらし力は皆実さんに宿らなかったと思う。この「強さ」だよね。この先の展開はわからないけど、日本に戻ってきて事件を解決して、おそらく最後にはアメリカに帰るでしょう。
ゆうへい:帰るだろうね。
ゆに:権力を日本でずっと握ることなく護道さんや吾妻さんなど、出会った人に一部譲渡して、去っていく。これによって権力が暴走しないようになってるよね。
ゆうへい:ヒーローはね、去るんだよね、最後。
ゆに:『ONE PIECE』もそうじゃん。ルフィは海賊だからね。救ったあと島を去っていく。ってことを今回思いましたね 。
ゆうへい:うん、面白かった。
今日もう1個だけ話したいことがあって、護道さんがさ、お義父さんに誕生日プレゼント渡したでしょ、最後。あのシーンのこと。
まず前半、護道さんの子供の頃の回想シーンが流れてさ、護道家に「養子」として引き取られたあと、お義父さんがまだ現役の頃の誕生日で、もう家にめっちゃ人が来ててお義父さんすごい慕われてると。かつ自分は養子で、つまり 「もらってもらった子」だから、少年の護道さんはすごい気ぃつかってさ、おずおずと話しかけて、敬語で「おめでとうございます」って言って、肩叩き券を渡して逃げるように去っていくっていう、幼少期の記憶がまずあったと。
で、6話の最後、事件を解決してから皆実さんと護道さんが一緒にまた護道家に顔を出して、「遅ればせながら」って、 護道さんがお義父さんにスマートウォッチをプレゼントした。僕あのシーンすごい好き。子供の頃と変わらず、後藤さんはお義父さんに敬語で接していてさ、たぶんお義父さんの方は血が繋がっていようがいまいが家族だろ遠慮すんなよってスタンスだと思うんだけど、そこはまだちょっと護道さん距離があるんだけどね、誕生日プレゼントとして渡したのが「スマートウォッチ」なのが、すごく良いなって思ったの。何が良かったかと言うと、まず一つが、子供の頃に「肩たたき券」を渡したのと同じく、やっぱり護道さんは親の「身体を気遣ってる」っていうのはずっと変わらないんだなと。
ゆに:お父さんの健康をね。
ゆうへい:そうそう。そこが、幼少期と今回のプレゼントの共通点としてあるのがまず素敵。
ゆに:素朴だよね、素朴な愛。
ゆうへい:体を慮る。その上でお義父さんの方は、いやでも私はこういうデジタル機器は難しくて苦手だし、もう定年で引退していい年なのにスマートウォッチなんか似合わないよ、みたいな反応を最初するんだけど、そこで護道さんが「わからなければ、私が教えます。いつでも呼んでください」って返すんだよね。子供の頃は、お義父さんの誕生日にたくさん人が来ているなかで、おずおずと肩たたき券を渡して逃げるだけだったのが、「もう一歩踏み込む」ことができるようになった。そこが護道さんの中の変化、それこそ今回の事件と繋がる、血のつながりではない「親子関係」というのが描かれていた。
ゆに:今回の副題はそこだよね。「不器用な愛のカタチ」
ゆうへい:そうそうそうそう。
ゆに:護道さんの話なんだよね。
ゆうへい:さらに3つ目に素敵な点はね、その「私が教えます」ってスマートウォッチの使い方のアフターサポートを申し出たのはさ、やっぱり皆実さんから教わったんだと思うのよ。テクノロジーと人の「スキマ」を埋めるのは、やはり人による「介助」であると。我々もそうなんだけどさ、皆実さんも第1話で言ってた通りで、超高性能なAIカメラ付きイヤホンを使っていて、いろいろ便利だし自分一人で外出とかもある程度できるようになったんだけど、やっぱり犯人を捕まえるときには助けが必要ですって言って、出会ったばかりの護道さんと吾妻さんに「助けてください」ってお願いしてたよね。テクノロジーがどれだけ発展しても、その力を発揮するには人の手が必要なんだってことを、護道さんは皆実さんから教わったんだと思う。スマートウォッチを渡して終わりじゃなくて、本人の生活に馴染むようにチューニングしてくのだ大事なんだってことを。だから、父さんが呼んでくれたら息子の俺がいつでも見るからさってことを伝えたんだ。あれいい話だったなぁ…
ゆに:それを察したかのように皆実さんがちょっとニヤニヤしながら佇んでたのもいいよね。そこがあの、犯人と対になってるんだよな。犯人の言い草だったらさ、護道さんはある意味「親ガチャ」外れた?って言われる人なんだよ。実の父親が殺人犯だから、たぶんこの先の展開で、真相は違うんだってことになるんだろうけど。
6話の犯人と護道さんは、その点で似た境遇とされかねないけど、やっぱりその後に歩んだ人生が違うんだよね。それはもちろん「出会い」にもよるんだけど、なんかそういう対照性っていうのはこれからも考え続けたいかな。こういう描き方って多いよね、本作。犯人の人間関係と、皆実さんたちの人間関係が対になってることが多い。
ゆうへい:よくできた脚本でした。
ゆに:本当ですね、これまでで一番ドキドキして観ました。
前回の記事はこちら:
たった一人のための「映え」― 介助とヒーロー #3
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