原稿用紙と鉛筆と消しゴムを持ってドトールに行き、とにかくまず手を動かすところから。少し書いては手が止まる。一緒に鞄に入れてきた何冊かの本を少し開いて読んだりして、また手を動かしてみる。少し進む、そしてまた止まる、消して少し引き返し書き直してみる。亀の歩み。月曜日にドトールで子どものお迎えまで2,3時間、木曜にに中延の隣町珈琲で2時間ほど、それそれ書いた。書いた、書いたは、書いたはいいが、ようやく原稿用紙6枚だ。書くと同時に、今の自分がいかに「書けない」かを身を持って知る必要がある。その先にしか書くはない。「書けない」を身をもって知る。それは一つに、フィクションで/を書こうする今回の試みが自分にとって新しいこと、ひとつの賭けであること。もう一つは、単純に書くための筋力が衰えていること。だからこそ「これだけしか書けない」という現状を身をもって引き受けるしかない。もう一つは、わずかながら書いていくなかでも、自分が辿って書いてみた出来事が、その記憶、経験、関係にまつわるわからなさ、どうしうようもなさを孕んでいて、それを一応の「理解」の箱に入れて収めることはできるのかもしれないが、結局「書く」ことを決めたからにはそのどうしようもなさをどうしようもないまま引き受けるしかない。
大抵の執着は、「やることがたくさんある日常生活」というものに劣る。
若くもないし、一人で暮らしているわけでもない。
「書く」こと、自分が書くべきことを書けるように書いていくためには、身体そのものを「書く」方に「持っていく」必要がある。
与えられた時間、書くために使いうる時間にノイズが入らないように、1週間のうち月・火・木曜日をうまく使う。
表現行為、創作行為は、蛇やミミズのようにうねうねとのたくって探していくものでもあるが、同時に「何があっても◯時間机に向かう」とか「1日必ず◯冊は読む」とか非常にシンプルかつ強固なルールで自分を縛って動かしていくものでもあると覆う。