ツマ復職、と同時にムスコ氏フルタイム保育開始。私はムスメ・ムスコ2人一緒に送り迎え担当。復職初日だしせっかくだから、と中目黒のオフィスに向かうツマを見送った。上のムスメは9カ月ぐらいに保育園に入ったので、それぐらいの月齢の子たちは入園直後の朝はみんな親と別れるのがさみしくてギャン泣きするものだが、ムスコはまだ4カ月なので、そこまで状況を把握して泣くまでには至っておらず、朝の受け渡し時はすやすや寝ているか、「真顔」でスーッと父から先生に渡されるかって感じである。慣らし保育も順調に終わり、初日の今日も終日ニコニコごきげんで過ごしたようである。
友人たちと、月に一度「文芸部」という大人の部活みたいな集いを開いている。毎月半ばを〆切目安にSlackに書いたものを共有し(エッセイ、小説、短歌etc.なんでも良いが、クライアントワークは除く、というルール)、月末までにお互い読んでコメントを書き込み、Zoomで集って1,2時間またそこで語る(批評、感想、相談、雑談、企画etc.)、というものだ。文芸賞か何かに出すという人もいるし、自分のnoteやこの閒のブログでウェブに出す人もいる。私は2,3カ月連続で落としている。穴があったら入りたい。しかし恥を忍んで、それはそれとして、みんなが出した原稿をちゃんと読んでコメントしてZoomに出席するようにしている。というかそれすら止めたらますます書けなくなる。
さて、今月出してもらった友人たち4人が4人とも、めちゃんこ良かった。テーマや内容ももちろんだが、4人それぞれの生活の中から、その人しか書けない「文体」があったからだ。文章はむしろ文体が本体と言ってしまってもいい、と誰かが言っていた気がするが、その通りだと思う。先に書いた通り僕は落としまくっているわけだが、友人たちの文章を読み、またZoomで「集まって話す」ことでだいぶ元気をもらった。昨日出された文章のうちすでにウェブに公開されているものもある。きっと誰かに届くものだと思う。
閒ブログに掲載:「朽ちていく私たち」田代智美さん
本人のnoteに掲載:「埼玉には草加健康センターがあるから| 港区からサイタマに引っ越した100の理由」sayakameさん
それから、この日の文芸部の集いの内容も含めて、智美さんが閒ブログに日記も書いてくれた。「物書き同士のエトセトラ」
夕方、動悸が止まらなくなったのでだいぶ久しぶりに頓服薬を飲んだ。動悸・息切れ自体はまぁそんなに珍しいことではないのだが、だいぶバクバク感が強いというか、もっと頻繁に飲んでいた「急性期」と言っていい時期に近い感じがして、すぐには収まりそうもなかったので。月イチ通院で交換される常備薬たちと違って、カバンの中に一応お守りとして入れてあった頓服薬の袋はだいぶ前のもので、もうクッシャクシャになっている。
薬を飲んだあと、こういうときは呼吸が浅くなってるもんだからなって、深呼吸と言えばと連想して、テレビをつけてYouTubeでラジオ体操第一を検索して体操しました。たぶんこういうときいきなり運動するもんじゃないんだけどさ。
次に声を出すと落ち着くだろう、と考えて、最近パラパラと読んでいた長田弘『一人称で語る権利』を音読した。「4 戦争中の暮らしの記録」より43ページから45ページまで3段落分。これがなかなか良かった。読み終わったらスーッと楽になった。単に時間が経って頓服が効いてきただけかもしれないが、どっちでも良いのだ。
以下、読んだ箇所を引用
いくらしゃべっても、身内のなかでさえもつたわらない、そのあげくの果ての手控みたいな ものとして、こういう記録は書かれるのではないだろうか。いくらしゃべってもまわりの人間は、なかばうわのそらで「ふんふん」といって聞いている。「苦労したのだよ。苦労したのだよ」といっても、聞きてのほうはただ「ふんふん」というだけ。そういう非常なむなしさみたいなものが、この本の裏がわのくらがりに、びっしりつまっているとおもうのです。それをいちばん端的なかたちでしめしているのが「父の免職」という印象的な文章で、戦争中東条首相退陣をもとめる手紙をだして免職になった地裁判事の家庭の話です。
敗戦になって、ある日、その父の懲戒が取り消される。「父はやや笑いを顔に浮かべて、私達を見まわした。しかし私にはそのとき、この事件は何の効果もなく空しく終ったのだ、という気もして、父に祝の言葉も述べずに、またうつむいて貧しい食事を続けるのだった」。父と子とのこのただうつむくしかないような断絶感というのが、この本のどの記録の背後にもあるとおもうのです。そうした断絶感というものの底には、しかし、ちょっと逆説めくけれども、 ディスコミュニケーションがあるのだとかんじているコミュニケーションというものがある。 「わかるわかる」というのでなく、「わかるものか」というのでなく、「わからない」ということをあいだにおいて言葉の回路をつなげてゆく。だから、こうした戦争体験の記録を読む場合、 これはじぶんにはわからないということをむしろ手がかりにすることがたいせつなんだとおもうのです。
何もつたわらないと知っていてそれでもなお何かいいたい、何をいうべきかわからないが何かいわねばならないというようなおもいをとおって、あるいは、一どしゃべればそれですむというんじゃなしに、繰りかえし語らねばどうしようもないようなしかたをとおって、体験が言葉になる。この記録集にはそうした日々のおもいをへた言葉があって、そこにこの記録集の際立って民話的な特質がある。戦争体験の無名性ということです。
今日もまた2つ、自分でボール抱えてスタック気味なものを、ご一緒している人と電話・Zoom相談できたので良かった。ここ最近キャパオーバー気味で、相談のメッセ・メールを送るのにもまたあれこれ考えてしまって手が重たくなってしまっていたのだが、話すと速いことはままある。「ちょっとお時間ください」って一言連絡すればよかったのである。
「たたき台」をつくったり情報をまとめて整理したり系の作業、やり方は自分の頭の中にある、ゴールもプロセスも見えてるんだけど身体がおっつかないってときは、進め方から「開いて」相談する、助けを求める。これまでの仕事で色んなチーム、色んな人たちと一緒に働くなかで言ってきてることが、なかなか自分ではできないものだ。今回できたのではなまる。
チームで目的に向かって、大事なことを大事にしながら、ことを動かしていってアウトプットを出すことが大切なのであって、また、どの行程を誰がどうやるかも含めて「自分で」抱え込む必要はないのである。当たり前のことなのだがね。「いったん僕整理しますね」って抱えがち。それそんな状態でエッセイは書けんわ。
とはいえこれは、自分の病気や特性といった個別事情だけでなく、ここ数年、世の中全体がパンデミックでオンライン中心の業務コミュニケーションに移行したことも大きいかもしれない。なんでもかんでも会ったり電話したりすればいいってものでもなく、またその「対面」優位すぎるコミュニケーション文化・潮流によって排除されていた人たちが、デジタル・非同期・テキストによってアクセシビリティを得やすくなったという面もあるだろうけど、机を並べて、あるいはオンラインで繋ぎっぱなしにして、なんやかんや雑談相談しながらやっていくと「なんだ、そんなことだったんだ」とお互いのチャネルが繋がりやすくなることも往々にしてある。
個人単位でもコミュニティ単位でも、多様な身体特性と、多様な言葉、リズム、嗜好、文化etc.といったものがあり、お互いを知り、尊重し、折り合いをつけたりつけなかったり、時にあえておせっかいに無神経に大胆に踏み込んだり、遠慮したり抱え込んだり、ルールやコードが共有されたりされなかったり編み直されたり、ということの繰り返しであり、「社会モデル」といったタームを持ち出すまでもなく、個別具体的な関係のただ中に身を置き続ける、ということでしかない。
夕方帰ってきてからは、ムスコと僕が風呂に入ってから、ツマ・ムスメが続いて風呂に入り、そのあとみんなで晩ごはん、というのが我が家の最近のリズムなのだが、二人が風呂入ってる時間は、ムスコを抱っこしながらアニメを1本観るのにちょうど良いのだ。
YouTubeで毎週無料配信中の『∀ガンダム』39話を視聴。
人がつくりし「黒歴史」の象徴とも言える、ロストマウンテンから発掘された核弾頭が、月に落ちる小惑星を砕くために使われる。ロランの「優しさ」が真の「強さ」となって人を守った回。∀は毎話名作なのだがこの39話はほんと鳥肌立つね…
「人の英知が生み出した物なら、人を救って見せろーっ!!!」
ロランを演じる朴路美さんの声と演技、ほんとうに好き
いつかお金貯めて∀ガンダムのテレビ版と劇場版の円盤買い揃えるんだ。そして生きてる間にこれから何度も観るだろう。菅野よう子さんの音楽も最高です。サントラもほしい。
寝る前にエッセイを600字ほど書き進めた。5/31〆切の、『障害学研究』エッセイ部門に投稿しようと思っている。「生に隣る」というタイトルに決めている。ちょくちょく閒のブログにも出てもらっている、友人のユニ君のところで僕が介助の仕事をはじめてからの2年半を振り返ってのエッセイ。投稿字数は1000字から10000字です。ざっくりとプロットは書き出しているのだが、上から書こうとせず、書けるところから書いていくことにした。まぁどうせギリギリになるのだろうが、俺はこういうやつは間に合わせるので大丈夫です。やれます。天才なので。