感情という隣人 - 2022/06/16

ここしばらく色々急ぎの用が重なっていたので、さすがに疲れが溜まったのか、ムスメを園に送って帰宅してから、午前ほぼまるごとベッドで寝て過ごした。目が覚めたときには多少スッキリしていて、あぁこれは午後はけっこう集中して働けそうだな、寝て正解だった、という気持ちになった。

松屋で牛めしアタマ大盛りを食べる。もぐもぐ。肉。エネルギー。

帰宅。豆を挽いて珈琲をいれ、いま進めている医療的ケア関係の研究の質問紙や倫理審査申請書類などなどを書きすすめた。調べ物をしたり、インタビューをしたり、一緒に活動している方々とディスカッションしたりすると、やるべきことやりたいことがどんどんと湧いてくる。一人湯船に浸かっているときなど、気づいたら脳内会議が始まっている。アイデアや問いは湧き続けるのだが、しかし研究というものは、というかあらゆる仕事は、一つひとつ、地道に進めるしかないので、期間や対象を限定してなんらか短期・単一の研究計画に落として実行する、つまり「限定する」ことが必要なのだが、その作業の最中にも、取りこぼされてしまう要素が気になってしまうので、この手の作業はどうにも億劫であり、また時間がかかる。ただ、そんな自分の尻を叩いてエイヤとひとまず書くべきものを書いてしまうと、それはそれで手応えというか、今、ここからの次の一歩としては、不完全だが悪くはないんじゃないか、という感触を得ることができるわけで、メランコリーとカタルシスは案外隣人なのかもしれない。

人が3人以上集まれば、そこには「社会」が生まれるわけで、個々人の持つエネルギーが掛け合わさって、足し算以上の何かが生まれることもあれば、こんがらがって藪の中に入るこんでしまうこともある。ただ、何事も分解して立ち返る起点は二者関係だと僕は思う。どこかに単一の原因や悪者が存在していて、情報を全部集めればそいつを見つけて駆除することができる、というような単純でナイーブな世界観で理解・対応可能なことは殆ど、というか全く無いと言っていい。あいつが悪いんだ、私が悪かったんだ、などと0か100で良い悪いや被害加害を言うことはできない。が、そうであるとしても、であるからこそ、それぞれがそれぞれに「痛む」ということは間違いなくあって、その「痛み」をどうしようね、どうしようもないこともあるけど、どうにかこうにか扱っていく、付き合っていく方法を考える必要があって、現実の問題はむしろそっちなのだ。

生きていると色々なことがあるね。と、僕はいつも当たり前のことしか言えないのだが、その「色々」の嵐の中で、泣いたり笑ったり傷んだり癒えたりする、その感情のただ中を生きる友人たちのその一生懸命さを愛おしく思う。良くも悪くも、ここ最近の僕は感情の起伏が非常に少ない。そういう感情の瑞々しさみたいなものが、どっかに行ったのか、おやすみしてるのか、知らないけど。まぁそれも色々あっての今、なのだろう。