アパートメント 第二話―モーニング

「おかえり!」
 扉を開けると、マスターは決まって僕をおかえりで迎える。
 夢も見ずに10時まで寝続けて、目覚めてもまだ頭に蜘蛛の巣がかかったまま。冷蔵庫を開ければ中身は空っぽ。どうしようかな、コンビニでパンでも買うかと考えたとき、ふとマスターの出すモーニング―あっさりふんわりのバタートースト、サラダとバナナ、それから深煎りのブレンドが思い出され、そのまま電車を2本乗り継ぎ、50分かけて東京の東側へ。お店に着いたのは11時。ずいぶん遅い、モーニング。

 「こんなに早くよく来てくれたね。引越しなんかで疲れてるでしょ。ゆっくりしてってよ」
 「今朝起きたら、なんだか急に来たくなっちゃって。身体はもう十分休まったんですけど、お腹ペコペコです」
 「すぐ作るからちょっと待っててね」

 銀色のドリップポットの細い首から注がれるお湯が、珈琲豆を躍らせる。フィルタを越えて、一滴一滴溜まっていく様子を見つめるのは、いつになったって飽きない。それが自分のために注がれたものだと思うと、ますます嬉しい。だけど一番好きなのは、マスターが洗い終わったカップを布巾で拭いていくのを眺めている時。みんな、もといた場所へとちゃんと戻ってく。
 
 国道沿いに位置するお店の表面は、一面大きなガラス窓になっていて、店内には白い光が差し込んでくる。お昼前後になると、テーブル席に地元のデザイナーさんやライターさんがちらほらとやって来て、食事のついでにテーブル席でそのまま仕事をしていく。つられて僕もそっちへ移動し、ノートパソコンを開いてお店の無線に繋ぐ。ご挨拶に行かなきゃならない人たちにメールを送って、それから、気になっていたところいくつかへ、求人の問い合わせやら面接の申し込みをした。いつまでものんびりしてられないもんなぁ。借りたものは返さなくちゃなんないし、これまでいただいた時間に見合うぐらいは、そろそろ社会に還元してかなきゃ。

 「相変わらずがんばるね」
 そう言って差し出されたのは、ここの名物のレアチーズ。黒地のお皿に、真っ白こんもりドーム型。贅沢にかかったクランベリーソース。
 「これ、サービス」
 「わぁ、ありがとうございます!いただきます」
 フォークで側面をくずして口に運ぶ。
 「はぁ、美味しい…」
 カウンターに戻ったマスター、こっち見て微笑んでる。

 3時になって、お店を出た。近くのリサイクルショップで自転車を買って、そのままそれに乗って帰ることにした。変速ギアも何もない、8,800円のママチャリ。隅田川を渡り、浅草を過ぎて上野まで。駅の入口を見やると、靴磨きのおっちゃんが変わらずそこに座っていた。
 冬の日、先輩の結婚式に出席する朝、一度だけ磨いてもらったことがある。おっちゃんが僕の革靴にブラシをかけて、クリームを塗っている間、ぼんやりと街を眺めていた。両のてのひらで貝をつくって耳に当てて、ざわめきを反響させる。海より街の音が好き。
 「にいちゃん、何やってんだ?」
 右足終えて、次、左足だと僕を見上げたおっちゃんに、訝しげな顔をされて少し赤面したのをよく覚えている。

 不忍池をぐるりと一周し、裏門から大学の構内へ。
結局一度も入ることの無かった講堂を横切り、銀杏並木をくぐって正門を出た。少し引き返して春日通りに入り、そのままずーっと坂道を、西へ北へと登っていく。
 
 帰りに近所のスーパーに寄って食材を買う。野菜売り場はもうすっかり春の顔ぶれ。新じゃがに新たまねぎ、春キャベツに菜の花、それからアスパラガス。
 家に着いたのは午後5時頃。スーパーの買い物袋をキッチンのテーブルに置いて、コップ一杯の水道水で喉を潤す。お米を研いで炊飯器にかけてから、新じゃがを洗って皮を剥く。油でしばらく素揚げしたあと、鍋に移して煮込み始める。コンロがひとつ空いたので、菜の花をさっと茹で上げ、水で冷やしてだし汁に浸す。煮汁がじゃがいもに染み渡ったところでおろししょうがを入れ、弱火でじっくりコトコトと。あとは、アスパラベーコンでも作って食べようか。その前に、おかずをあと1,2品作り置きしておけば明日以降が楽だな。それから…
 そこでハッとして、手を止めた。明日の予定、時間の節約、今の自分のどこにそんなことを気にする理由があるというのだろう。冷蔵・冷凍して、毎食ちょっとずつ小分けにして食べる、洗い物や調理の回数は極力減らす、同じメニューが続いてもお腹が膨れればそれで良い、そんな食生活をする必要がどこにあるというのだろう。

 「相変わらずがんばるね」
 マスターがそう声かけたときの僕、どんな顔してパソコンのキーを叩いていたのかな。間違いなくしかめっ面。思い返すと滑稽で、少し笑った。

 流し台を離れて、冷蔵庫にもたれかかる。ほんの少し開きっぱなしだった扉をお尻で閉める。頭蓋骨越しに響くブーンといううなり声を聞きながら見上げる、天井の蛍光灯。そのまま視覚と聴覚以外忘れてゆきそうなところで、鍋からキッチンに漂うしょうがの香りに引き戻された。コンロの火を止めて、赤茶色に照った新じゃがをひとつ、菜箸でつまんで口に入れる。

 「おいしい」

まだほのかに湯気が立っている鍋に蓋をして、タッパーと一緒に抱えて玄関へ。

アパートメント 第一話―春風

 小さいころは、春と言えば4月のことで、桜も4月になれば勝手に咲くものだと思ってた。ランドセルを背負って学校に行くのは4月からだし、月めくりカレンダーに桜の絵が載るのだって4月だったもの。全国一律の暦よりも、季節のバトンはもっとゆるやかになめらかに手渡されてゆくこと、桜の花は3月から5月にかけて、日本列島の南から北まで波打つように目醒めては消えてゆくのだということを、肌で理解したのは案外最近のことかもしれない。
 四半世紀の3分の2は、半径1キロの世界が全てだった。各駅電車と坂道の通学路、グラウンドの砂埃に空色のカーテン、踊り場のひそひそ話、教科書の落書き。4月の春の重大事は、掲示板に貼り出されるクラス割り。桜は単なる背景で、いつ花開いたかなんてどうでもよかった。
 上京してからようやく、街を歩くということを覚えた。代々木公園、外堀通り、目黒川に隅田川、桜の季節に自転車で風を感じるのが好きだった。東京という街の営み、そこでの季節のサイクルに少しずつ呼吸が合ってきて、いとおしさが増してきたところでこの街を出ることになった。東北道を上る深夜バスや、太平洋を渡る飛行機に運ばれて、北へ東へと地図が拡がっていく。前の年とは違う土地でむかえる4月。そこでは桜は遅いのだと知った。待ってるあいだ、ふと手のひらを覗き込めば、電子の海を流れる無数の言葉と写真。時差も緯度差もなんのその、南の都では一足先に満開の宴。あれ、春ってどこだっけ。
 目まぐるしく変わる景色、前後運動を繰り返す時計の針に翻弄され、杭を立てる場所を見失う。途方に暮れて立ち尽くしている僕を、誰かが遠くから呼んでいる。そこで目が覚めた。ずいぶん寝たらしい。もう9時だ。あの声は誰だったのだろう。天井を見上げながら考えたけれど、どうにも思い出せない。
 今日は4月3日。このアパートメントに入居して1週間が経つ。白いレンガ造りの壁に赤い屋根、エンジ色の木製扉。玄関横、高さ5メートルほどの樫の木が寄り添うように立っている。常緑樹はホッとする。ときおり黒猫が庭にやってくるけど、まだなついてはくれない。犬には好かれるんだけどなぁ。4階建てで部屋数は20ぐらい。どれも同じ1Kで、家賃も安く、基本的にはごくごく普通のアパートメント。洗面所で顔を洗い、服を着替えて3階の自室を出る。階段を降り、玄関口に差し掛かったところで声をかけられた。

 「あら、お出かけ?」
 「ええ、ちょっとその辺を散歩に。今日は天気が良いので」  
 「そうね、気持ちのいい青空」
 「管理人さんも、お出かけですか」
 「かおり、でいいわよ。わたしはお庭の掃除と水やりに」
 「じゃあ、かおりさん。お掃除、ご一緒してもいいですか。好きなんです」
 「ありがとう。助かるわ」

 かおりさんは、ここの管理人さん。黒くてしっとりしたショートヘアに、細く締まった身体。昼下がりのティータイムの温度で話す。マンションやアパートの管理人さんって、もっと年配の方のイメージだったけど。
 このアパートメントにはひとつだけ変わったところがあって、自前のウェブサイトを持っている。空き部屋情報を載せる不動産サイトというわけではなくて、その時々の入居者が、文章や絵とか写真—要するに何かしら自分の表現物を掲載することが出来るスペースになっている。ウェブ上の入居者のアカウントは、別に本名や部屋番号と紐付けられているわけでもなく、それぞれが別々の日々を営みながら、ときおり気ままにその断片を開示している。これの発案者もかおりさんらしい。このサイトを偶然見つけて、問い合わせてみたら、ちょうど部屋も空いているということだったので、東京に帰ってきて数日で入居した。

 「どうかしら、新生活にはもう慣れた?」
 「大丈夫です。だいたい落ち着いてきました」

 花に水をやりながら横目でたずねるかおりさんに、掃き掃除しながら背中で返事をする。赤いジョウロからチョロチョロ流れる水や、竹ぼうきが石畳を引っ掻く音にかき消されないよう、心持ち声を張る。変にうわずったりしてないだろうか。
 新生活、と言ったって、もはやたいした苦労も無い。
荷物になるものって本と服ぐらいしかないし、それでも段ボール4箱ぐらい。もともとインテリアに凝る趣味もお金もないし、調理器具や食器も最低限。色んな人からの贈り物で、湯呑みやマグカップやグラスの類だけはやたらと数が多い。それらを全部並べて眺めるのが好きだ。今日の夕方、大学の同級生からお古の冷蔵庫を受け取れば、必要なものは全部揃うはず。彼は結婚して静岡へ。奥さんの実家で二世帯生活らしい。「お茶っ葉送るよ」だってさ。
 まだ若いからだと言われればそれまでだけど、衣食住なんて、いつどこへ行ったって別にどうとでもなる。欠けてるのはそう、もっと別のところ。

 「お掃除手伝ってくれてありがとう。よかったら今度管理人室に遊びに来て。まだ夜が少し肌寒いでしょ。うち、こたつ出しっぱなしなのよ」
 「あ、行きたいです。でも気持ちよくってそのままこたつで寝ちゃうかも」
 「いいのよ別に、眠ったって。ゆっくりしてってちょうだい」
 「じゃあ、お言葉に甘えて、今度ぜひ」
 「楽しみにしてるわ。色んなお話聞かせてね」

 かおりさんに箒を返して散歩に出た。住宅街を抜けた先にあるらしい、高台の公園を目指す。細路地を何本か曲がり、車道沿い、三分葉桜の並木道を歩きながら考える。東京に戻ってきた。それで、これからどうしよう。そもそも、どうして帰ってきたんだっけ。春はどこだ、桜はいつだと分かりやすい季節の節目を探し求める一方で、わが身の帰属先すら持てないまま、フラフラと年度を跨いでいる。仕事はどうする。あまりダラダラとはしていられないが、惰性で動けばろくなことにならない。そうこう考えているうちに、道は公園へと続く登り坂へと差し掛かった。やっぱりもう帰ろうかなと思いつつも足を進め、およそ5分ほどで坂を登り切る。
 瞬間、強風が花びらを散らしながら身体の内側を吹き抜ける。心臓と横隔膜がギュッと縮み上がり、思わず両の腕で自分を抱きかかえて身を捩らせる。風はなかなか止まない。4秒、5秒。ようやくおさまり、伏せ閉じた目をそっと開けば、眼下に住宅街が広がっていた。さっきの強風が散らした桜の花びらがまだわずかに下り坂の中空を漂っていて、視線をそのまま遠くへ移せば、穏やかに笑う山々。

あぁ、春だ。帰ってきたんだ、東京に。たったそれだけのことなのに、なぜだかホッとして、泣きたくなる。

新しい季節、新しい暮らし。大丈夫、きっとうまくいく。