私の”ことば”が生まれるとき

人から見ればしょうもない事かもしれないが、最近、久しぶりに人間関係の事でかなり心が動揺し、”苦しい” という感情に襲われた。私は自分で思うには多少人間関係でしんどい事が起こったとしても冷静になって物事を見れるタイプだと認識していて、友達からもメタ認知が得意な人なんだねと言われたことさえある。しかし、今回は自分の中にある冷静さよりも”しんどい、どうしよう”という感情の方が勝ってしまって、久しぶりに情緒不安定だなーという状態になり、心がざわざわする時間を過ごしていた。

でも、そんな時なのである。

いつも私の”ことば”が頭の中から溢れてくるのは。

私は詩を書いたり、絵を描いたり、写真を撮ったり、、創作活動が普段から好きだ。それは自分が人よりも敏感というか繊細で感受性豊かな体質を持っているからだと思っているが、とはいえいつも何かが頭の中に浮かんで、溢れて創作活動ができる訳ではない。皮肉なことに、私が”あ、何か浮かんできた。これは何か生み出せる(創作活動ができる)かもしれない!”と思う時は、日々自分の人生を生きる中で、自分が苦しい状況に陥った時が多いのだ。

今回も、ここしばらく何か書きたいなーと思ってはいるものの、文章など自分の中から一文も浮かんでもこなかったのに、昨日自分の中で冷静さを保てず、心が揺れた瞬間に、書きたい事が溢れてきた。それはもう、剥き出しの”苦しい”という感情から少しでもいいからなんとかして遠くへ逃げたいとでも言わんばかりに、するりするりと溢れてきたのだった。このことをもう少し自分なりに言語化してみると、私にとって何か生み出してる時間(今回で言うなら何か文章を書いてる時間)は、書くことに没頭しているので、その感情から一時的にでも距離を置く事ができて気が楽だということ。そして何より創作するということは、私にとっては自分の苦しかった経験やマイナス感情が一つの作品になる、ということでもあって、その事が自分自身を今まで何度も助けてくれた。

私はどちらかと言えば自分のマイナス感情をそんな風に思っちゃダメだ!とか、もっと強くいないと、ポジティブでいないと!とかなんとか思って二重嫌悪してしまうタイプで、自分のありのままの感情を受け止めるのが苦手なので、創作活動をする中で自分の苦しい経験やマイナス感情が一つの作品としてカタチになるという事実は、私にとっては自分の中に起こったことを素直に受容するができるような、更にはこの感情も意味があるものだと肯定できるような、とてもありがたいことなのだった。今この文章を書いていた時間も、自分にとってはとても豊かなものだったし、しんどい感情を忘れる事ができた。文章として書き起こして一つの作品ができた事で、しんどいと感じていた出来事も、「まぁ、この文章が書けたし悪くなかったかも。」と書く前より前向きに捉えられてると思う。

色々書いてはみたけれど、結局は”人生全部ネタやな”と思えるような気持ちで日々軽やかに生きていたいのかもなと思う。そうしたら、今後またしんどい出来事に直面して苦しいという感情に襲われても、あ、また何か新しい作品ができるかもってわくわくした気持ちにさえなれるかもしれない。人生が今よりもより豊かに楽感じられるかもしれない。そんな事を、ふと思ったのだった。