問いの話

「問いっていいですね」
何気なく発せられたこの言葉が、それを口にした人の表情や抑揚とともに、ずーっと頭のなかで反響している。
大事にしていたはずなのに、ここ最近すっぽり抜け落ちていたことを改めて自覚したからだ。
 
 
 
先日、兄貴分の友廣裕一さんのお誘いで、「森の案内人」三浦豊さんのお話を聞く機会があった。

三浦さんは、かれこれ10年以上、全国各地の森巡りを続けている人で、友廣さんいわく、ガイドでも研究者でもない「よくわかんない人」。その形容は僕も同感で、なんだか出来合いの肩書きが役不足かのような、不思議でやわらかで心地いい雰囲気を発する人だった。

自身で各地の森を尋ね、森の声を聞きながら見えてきたことを森の案内人として同行者にシェアするツアーをやっているのだが、三浦さんの語りは、その森の木々や草花の歴史の根っこまで時空を遡るような語りで、話を聞いていると500年前の人々の暮らしや森のありようがその場に蘇ってくるような印象を受けるそうだ(伝聞調なのはまだ僕が森歩きに参加できていないから)

三浦さんが東京に来るタイミングに合わせて、この不思議なお兄さんとみんなをつなげようと、友廣さんが三浦さんとの都内ミニツアーを企画、六本木のミッドタウンや墨田区の向島百花園で森歩き・庭歩きをしたそうだ。

僕は昼間のイベントには参加できなかったのだが、夜に高田馬場のカフェでお話を聞く集いをやるということで、仕事上がりに少し遅刻して参加。息を呑むような美しい森の写真とともに、三浦さんの来し方行く末を語っていただいた。

三浦さんは「ホーム」を持たないで全国各地の森を回っているらしい。いわく、一年の大半を過ごし案内するような「ホーム」となる場を持ってしまうと、自分の中での新鮮な視線や驚きが失われてしまうからだと(板について”劇団員のような”語りになってしまうと表現していた)。

「問いっていいですね」
お話の最中に三浦さんは繰り返しこの言葉を発していて、その時の屈託のない笑顔がとても印象的だった。

どれだけ森に通いつめても、それでもまだまだ自分は何も知らない。安易な「答え」を出して思考停止してしまうのではなく、ずーっと同じ「問い」を持ち続けながら森という対象に全身で向き合っていく。すると毎回新鮮な驚きと発見があるのだという。

そんな三浦さんの問いは、「居心地のいい場所は、どんな場所?」という問い。

「問いっていいですね」
本当にいい笑顔で幸せそうに言うもんだから、なんだかものすごく当てられてしまって心がじんわり震えたのだけど、それと同時に、問いを立てることをすっかり忘れてしまっていた自分に気付いてショックを受けた。

僕自身の「問い」はなんだっけ。
最近、自分の中で明確な問いを一つも立てていなかった。
いや、問いを立てる意識すらしていなかったという方が正しいだろうか。

何も考えずに生きているというわけではないけれど、合目的的に、しかも短期の目的に向かって走ったり捌いたりの日々で、一つの「問い」に定位して思考するということを根本的に怠ってきたように思う。

特段いまの仕事や環境の不満があるわけではない。むしろ、自分の関心や特性にこれほどまで重なる職場・仕事というのも珍しいだろう。でも、かえってそれが自分自身を鈍らせていたのかもしれない。

本来僕の中にあったであろう問い−人生の中心となるテーマと、「大きく外していない」ことが、その日常の中で働き行動していれば、「何をやっても概ねマイナスではなかろう」という甘えにつながる。

「走りながら考える」と言えば聴こえはいいが、行動することと思考することは本来真逆の行為なのだから、それは単なる自己欺瞞であろう。

あとね、管理職になっちゃったもんだから要注意ですよ、スタッフやライターさんにいっちょ前に”フィードバック”とかしちゃって、「この取材であなたはどういう問いを立てるんですか」とか言っちゃって、お前はどうなんだっていう。貯金で仕事やっちゃいけない。猛省せよ。
 
 
 
さて…僕の問いはなんだったっけ。

「その人が『これでいい』と思える物語はどうやって紡がれるのか?」

言葉や言い回しはさておき、たぶんこのあたり。

ほんとうは僕は「結果」には興味がないのだ。
結果は結果でしかないし、常に不均衡不公正は残るし、
個人の人生からしてみると、手持ちのカードが豊富なときばかりじゃない。
それでも手持ちのカードで意思決定しなければならないときに、
他の人の声はさておき、理想論はさておき、自分が人生の当事者として「これでいい」と思えるためには
いったい何が必要なのか。

障害・傷病・貧困etc.自分がいつでも「マイノリティ」になり得るのに「まさか自分が」と思っている人
「マイノリティである」ことが自分のアイデンティティ全体を覆ってしまい身動きがとれなくなっている人

たぶん根っこは同じところにある気がする
そして自分の人生に当事者性を持って生きられたなら
自分とは違う他者の人生に対してもフラットに隣ることができるのだろうとおもう

この問いはもっと追求する必要がある
同じひとつの問いから世の中を見る、人と向き合うこと
同じひとつの問いについて具体的な思考を続けること
もう少し意識をして生きてみよう

Diary: 2016/09/17

ボサボサで野暮ったくなった髪を切りに行った。スタイリストさんに「最近楽しいことありました?」と聞かれ「えー、なんだろう…」と答えあぐね、「それまずいっすよー遊びに行った方が良いですよー」と言われたわけだが。

別に楽しくないわけではないのだがな、日々の仕事やその他もろもろの社交活動課外活動を含め、概ね好き勝手やらせてもらっているとは思う。ただまぁちょっと、最近はディフェンシブな仕事というか、自分にとって未知の世界や仕事に挑むというより、理想形はある程度見えた上で、そこに向かってじわじわと環境を整えるみたいなところが多く、ワクワクが足りていないのは正直なところかもしれない。

最近の脳内の重要トピック3つ

1. 編集者の社会的責任

一時期「キュレーションメディア」の跋扈とともに、画像や文章の無断転載・改変が問題になったが、その後、引用出典の明記など、業界的には最低限の著作権保護のお作法は一時期よりは整ってきたように思う。

ただ、参照元がゴミ情報だったりトンデモ情報だったりすることは往々にしてあるわけで、裏取りの正確さというか、情報の質に対する責任も、各ウェブメディアは真剣に考えるべきじゃないか。

特に、保健・医療・教育・福祉etc.人の健康や命に関わるヒューマンサービス領域は、色んな人の思いが渦巻くエリアであり、世間の関心も高いゆえに数字を取りやすい。不安を煽るタイプの商法が氾濫するリスクが高いわけだ。

同領域は、「正しさ」についても様々な流派や意見に割れやすく、公正中立というのはほとんど幻想だとも言える。各メディアやその編集部は、自分たちの拠って立つ位置を定め、自らの編集・発信内容に対してどう責任を負うかを考えていく必要がある。

近々論点をまとめた記事を書く予定。

2. ユーザー投稿型サイトにおける安全の確保

こちらも広義の編集といえばそうなのだが、ユーザー投稿型コンテンツのプラットフォームでは、投稿者が不安定な状態にあったり、自傷他害リスクがあると取れるような投稿を発見したときに、どうそのユーザー本人やその近隣者、影響を受ける周囲のユーザーの安全をどう確保するかという問題。

ウェブ上のゲートキーパー活動とも言えるのだが、病院や福祉施設などの事業現場と違うことは、リスクの高い投稿をしているユーザーへのアクセス手段や背景情報の取得にそもそも限界があること、またプラットフォームの性質上直接支援をすることがそもそもかなわないということも多い。

基本的にはリスク判定をした上で、出来る限りの情報提供をし、危険な場合は警察当局等にリファーする、ぐらいしか対策はなさそうなのだが、それを可能にする体制やスタッフ育成など、各種メディアの中で整えるべきだとは思う。

3. 発達障害とその周辺の事象、ステークホルダーの絡み合い

可能な限り早期に疾患を予防・治療する「医療」と、現在・未来の子どもたちの潜在能力を最大化する「教育」と、最低限の生命・生活を公的に保障する「福祉」と、それらの緊張関係の中で、どうあれ一回性の人生を生きる私たち個人の「物語」とに、メディアがいかに向き合うべきか問題。難問。

ここ数日で読んでいる本。

どうあれ「発達障害」というものに対する認知や関心が高まった近年。往々にして診断名やステレオタイプのイメージが先行して普及するが、実態としての発達障害のある人の個々人の症状・特性の多様さ、医師の「診断」が原理的に抱える恣意性やブレをハンドリングしつつ、診断あるなしに関わらず適切な支援にどうつなげるかを考えていく必要がある。

人は言葉なしには世界を理解することは出来ない。しかし、言葉、とりわけ分かりやすい名前を与えることによって見えなくなることもある。

Diary: 2016/08/26

The smallest Japanese pub with the longest history in Shibuya.


新しい組織が出来上がるとき、しかも内外から様々なバックグラウンドの人間が集まる以上は、そうそう簡単に共通認識が取れるはずもない。仕事を進める上での考え方や価値観、人への評価の物差しや関わり方も違って当然で、どちらが偉いとか正しいというものでもない。

だからこそ、一見非効率に見えるが、しつこいぐらいにコミュニケーションを取り続けて、数字や言語に現れない、お互いが言外に発しているメッセージをたくさん浴びせあって、じわじわと身体に染み込ませていくことが必要なのだろう。会議体とか権限とか議事録やメール共有といったもろもろの情報流通経路も、文化と信頼感情勢の補助ツールに過ぎず、そういうものをルールとして整備しているからといって、「もう十分でしょ、分かるでしょ」というわけにはいかない。

「発言してくれないないと分からないよ」とか「オーナーシップを持って自ら行動せよ」とは言うが、適切なタイミングや方法で問いを投げかけて初めてその人らしさや、その人が腹に抱えていた言葉が発露することがある。

出来る限り関係性はフラットでオープンに、という近年の潮流には基本的に賛同するところであるが、それが自然とできるようになるまでの道筋は、人や組織によって様々な傾斜やうねりがあること、ある程度の時間がかかることを忘れてはならない。

メディアをやる以上、多かれ少なかれ私にも野次馬根性とにぎやかしの魂胆が備わっていていることは間違いない。

ダサいものは作りたくないし、多くの人に届かなければ意味がない。同じ分野で、いいコンテンツを別媒体に先に出されると悔しいのは当然である。

とはいえ美学がなければお終いである。

判断のモノサシをどこで持つか、いざというときにすぐブレーキを踏めるかどうか。チームやメディアが育ってきているときこそ、そういうことを自分は考えねばならない。

Diary: 2016/08/20

A man in the rain, waiting for fireworks display.

4月から、会社の新規ウェブサービスの担当になってしばらく経った。楽しさ半分、焦り半分といったところかな。

コンテンツの制作と、それに紐づく事業上のKPIは今のところ堅調に積み上がっており、チームの士気も高いのだが、まだやりたいことはほとんど実現できていない。

自分自身も1プレイヤーとしてまだまだ研鑽を積まねばならないところだが、今の役割としては、個人で何を表現できるか以上に、チームで勝っていくためにどんな成長環境をつくっていけるかが問われている。

特に期間中言及しなかったが、思想も戦略もなく反体制根性(つまり結局は体制に依存している)で声を上げたかつてのタレント文化人が内部からも市井からも信任を失っていく様子を横目に見ながら、「ペンの力」で本当に世の中を動かそうと思ったなら、お金や人や流通経路を含めて、ペンの力を届けるための組織をちゃんと作っていかないと、それは表現者のエゴでしかないよなと改めて思う。

コンテンツ作って世に出していくということは、それをわざわざ私たちがやることの理由―思想がまず必要なのは言わずもがなだが、それを裏打ちするビジネスモデルや届けるための道筋づくり(UI/UXデザインもマーケティングも)、絵に描いた餅を実現するための人の意識と技術がそろって初めて影響力を持つ。

チームの中もそうだけれど、部内のビジネスサイドやエンジニアサイド含めて、同じ方向を向いて進めるよう、私は私の立場から、方向性を言語化・見える化して共有するための努力をもっともっと取るべきなのだよな。

最近は、仕事の隙間にドタバタと結婚式やらなんやらの準備。それから、少し前にウェディングパーティーをやった友人夫婦と仲間たちの足跡を記事にしようという話があって、そのインタビューやらなんやらも進めており、どうあったって、結婚だの家族だの暮らしだのといった事柄が脳みその一部を占めるわけで。そういう時に上記の岡田育さんのツイート。

父母姉祖父母含め、私は実家家族、ないしは地元というものに対して微妙な距離をおきながらお付き合いをしているわけだが、たぶんそれは上で育さんが書いている感覚に近い。

それは結局私の思いに過ぎないわけで、親は親で、親心というもので私に対してあれやこれやの関わりをする。特に母は心配性で、式や披露宴に援助は必要ないか、向こうのご家庭はどんな感じだetc.心配してくれている

私の場合は、(決して裕福でない)父母祖父母に、経済上の大きな援助―負い目を持ちながら、結局はそのおかげで地元を出て、さまざまな地域や国の人と出会い、今の仕事へとつながっているわけだから、そのことに対して返さねばならぬという義理や責任がある。ただ、産み産まれた血縁関係だからといって、あまりに近い距離感だとしんどいものがある。

「二人で予算も話し合って進めているので、援助は要らないです。前日のお宿や新幹線含めて僕からプレゼントさせてください」と、少し背伸びをして連絡を取る。これも親孝行かな、とか思いつつ。ポジティブでもネガティブでもなく、淡々と、しかしやはりこういう私の世代観家族観なりに、感謝を込めて。