Tagged: July

Diary: 2017/07/25

もう少し好きにやった方がいいんだろうなと、最近。

こないだ管理職研修の一環でストレングスファインダーをやってみたら、周囲の人たちが「戦略性」とか「最上志向」とか出るなかひとり「運命思考」とか出ちゃったもんでお笑いネタだったわけで、そんな自己啓発本に影響されるかよーとか思いながらも、まぁやっぱりそうだよなぁという納得感というか諦めもあり。

頭と言葉と調整力を使うのならば、予定調和なところに寄せにいくんじゃなくて直感を正解に変えていけるだけの環境をつくっていったほうが、結果皆さまのお役に立てるのではないかと思う。

先日、編集者としてもひとつのブレイクスルーだったなという記事が一本ありました。
https://h-navi.jp/column/article/35026458

組織運営上は、コツコツと積み上がってはいるものの、ややプラトー気味というか、チームメンバー一人ひとりにもう1,2段のジャンプが求められるところで、ただ自分の介入のタイミングとして、個々が考えて試す余地をあまり残せていないなとか、そのための時間的余白を作れていないなとか、そこら辺の問題意識と反省もあり。方向性と役回りと期待値と、もう少し思い切って踏み込むのも一つかなと思いもする。

書き手としてはめっぽう筆も重くなり原稿も溜まる一方ですが、今日は久しぶりに、というかこれまでで1,2に入るぐらい、いいインタビューの時間を過ごさせてもらったなという感触があり、これがひとつのきっかけになればと願う。

先週は大阪・仙台・長野となんだかよくわからない頻度と距離で移動をした。
さすがに週末はぐったり疲れたけれど、たくさん動いて人と会って話をして、あぁでもこれが僕の本来担うべき役割や動きだなぁという実感も。

どのみち器用に理詰めで動ききれないところはあって、効率を言い出すときりがないけど、ランダムウォークからのセレンディピティみたいなものの積み重ね、あるいは数珠つなぎでここまできたところはあるので。

何かしら理由をつけて月に一度ぐらいはどこかへフラッと旅に出るぐらいの過ごし方をほんとに確立させていこうかなと。

思考や価値観が滞留しないよう、なるべく風通しよく
だけど、感じたものを咀嚼し言語化するだけの時間は確保できること

あとはそうだね、こぼれた球を拾ってくれたり、〆切逆算でケツ叩いてくれる優秀な編集者さんをだな…

Diary: 2017/07/03

違和感センサーというのは大事だなと思う
それから、違和感を感じたときにそれを表明し、ふんばる勇気というのも大事だなと思う

それからこの両者は相互に連関していて
勇気を出して違和を発するということを、あまりにしないままでいると
違和感をそもそも感知できなくなってくる
センサーが鈍ってくるのだ

異なる利害関係者の間に立って調整する
現実的なプランに落とし込む
いずれも実務家としてやっていくは必須とされるスキルなのだろう

それ自体が無駄だとは言わないけれど
習慣というのは恐ろしいもので
調整役に回ることがあまりに続くと
そもそもの目的としていた出発点からそれていったり
些末なことに気を取られてエネルギーが分散したり
しまいには
本当は「利害関係者」の他ならぬ一人である自分の意思を疎外することになっちゃったりして
たまに浮かび上がる違和感にも自信が持てず、「まぁみんなの言うことも一理あるかぁ」みたいな感じで
知らず知らずのうちにおさえつけちゃったりするもんだから
要注意である

今日はいくつか
全体としては小さいけど
自分としてはけっこうな意味がある意思決定をした

「そもそも」のところにどれだけフォーカスできるか
そのためにどれだけ余分なものを手放せるか

小器用に並走させるにも限度があるので
そろそろ「やめる」「手放す」ことの持つ効果が大きくなってくるフェーズかな

実務をやりながら、その上でどれだけ感性を瑞々しく保っていけるか
ちょっとしたリハビリのような気分だよ

Summer as usual, as the first / 苦虫と

July 28th 2014, Thursday

After a humid rainy season, summer has come to Japan with buzzing cicadas. Though a little bit longer than their average life-length, still summer is short. Between bumps of beer mugs on the ground and bursts of fireworks across our metropolitan sky, thousands of kisses of lovers embrace ephemeral infinitude. Soon after that, arousal from the midsummer night’s dream comes to us. The peak and the end of summer sit next door to each other.

This year, my summer in Tokyo may be a little different one. Now I’m working for a private school which provide tailored curriculum for children with various educational and developmental needs. The beginning of summer vacation of school kids means the beginning of our busiest season, summer sessions with more classes than usual, from the morning to the night. At every one class, they surprise us teachers with unexpected changes and expressions. It’s just started. I’m in a rush time and rarely have time for inner reflection, but anyway I’m enjoying this new summer experience with children.

気がつけば7月が終わろうとしている。知らぬ間に梅雨も明けたらしい。先週の月曜日、もうすぐ海外へ発つ友人と麻布を歩いていて、その日今年初めてのセミのこえを聞いて夏の到来を知ったのだった。その後ほどなくして夏期講習が始まった。僕のような七面倒な人間がお子さんに勉強やらソーシャルスキルやらを教える「先生」をやっているだなどと想像もしながったが、ぐずぐずと内省をするヒマもなく現実は走りだし、気づかぬうちに我が身と心も順応し、なかなかな楽しさと緊張感を持って子どもたちと日々向き合っている。

授業って、ライブだから、難しい。やり直しも効かないし準備と予想が裏切られることもしばしばある。なに、そんなものおおよそ世の中全てのことがそうだろう、と言われそうだが、しかし変化の速さ、激しさという意味ではやはり大人よりも子どもの方が大きい。表面上うまくいっていたりその場その場の目標が達成できていたとしても、わからないことや反省することばかりである。

一週間のうち、残り2日の時間と身体と心の使い方も難しい。色々な機会と繋がりをもらって、挑戦させてもらっているものの、メリハリをつけきれないまま納期に追い回されている感覚もある。借金もあるし、まだ若いし、なんでも選り好みせずに受け取って打ち返していくつもりではいるが、どうもこのペースで個人ワークをやっているだけでは早晩頭打ちだろう。個人技だけでなくて、編集とかディレクションの力と役回りを持っていかないととは思う。そういうのは待っていないで作っていかないといけない。

「シャカイジン」という言葉は、社会の中に生きる人全般ではなくて大概は「給与所得者」だとか「企業務勤め人」の意味で使われる。規模と時間と多様性の面で、そうした立場に身を置いて初めて学ぶことも多くあり、一定の妥当性は認めるが、自分が呼ばれるにしても誰かを呼ぶにしても未だに苦虫の味がして仲良くなれない言葉である。

苦いものは身体に良いと聞くので黙って受け取ることにしている。

Be gritty

July 2nd, Wednesday 2014

At office, our team had a dialogue to think and visualize what our team is pursuing for, children, families, local community, society and for each of ourselves. Though busy days continue, there’s no reason to forget our long term vision.

大きな会社で働くのは面白い。

目先の現実を直視しなければおまんまが食えない。遠くの理想を追わなければなんのためにやっているのかよく分からなくなる。これは別に会社組織に限ったことではないけれど、抱える人員が多ければ必然、前者が崩れた時に露頭に迷う人が増えるわけで。ごちゃごちゃ言わずに数字取ってきなさいよ、というのは一面正しい。組織が大きければ大きいほどこの締め付けは強くなりやすいから、その上で理想ー遠くの目標をどこまで追いかけられるかというのはけっこうエキサイティングな挑戦だと思う。

一方、短期の目標にとらわれない自由な「遊び」の時間で生まれたイマジネーションや出会いが思わぬ結果に繋がることもある。ただこれは何時間投入すればどれだけ結果が出る、というものでもなく、一見効率性とは対極にあるように見えるため、「遊び」の時間を堂々ととることに躊躇いを覚える人も少なくない。

しかし「遊び」から生まれたイノベーションが結果的に短期中期の業務効率改善やサービスの変革に繋がることもままある。

「腹をくくって」遊ぶ、というと肩に力が入ってて本末転倒だが(笑)、「開き直って」遊ぶ、というのが大事なのだ。

特に僕の場合は、ウロウロフラフラしながら新しいものや場所やアイデアや繋がりを見つけてくることが、他者やチームに貢献する上での重要な張りどころである。月々の個人目標の達成や、きちんとルーチン業務をやるというのは当然として。

One coin for one song. / 7月が来た。

July 1st, Tuesday 2014

When I was in New York City, I met with street performances everyday, indeed everyday whenever I left my room and went out to the town. Here now in Tokyo, though there are street musicians too, but less frequently I meet. The fewer prevalence, the less likely I meet such a song which I like. But today’s a good one.

When I crossed at the cross walk on a way from an office I worked today to Shibuya station, I met a street duo performing. One is a guy playing the guitar and singing melody lines, and the other guy for rap. Their song were far less noisy, but a comfortable, and somewhat groovy one. Though I don’t know which genre it is in, I felt it fit the mood of this crowded, chaotic but somewhat lovely town Shibuya. So I stopped for a few minutes and listened to their song.

When they finished the song with the rap guy calling for tips grooving on his rhyme, I opened my wallet and put my gratitude. It doesn’t matter whether it’s $1 bill or ¥100 coin I toss for the song I like. The guitar guy who looked like a Japanese said to me “Thank you,” and the other who looked like a man from abroad said “Arigato.”

6月が終わって7月が来た。鬱陶しい湿気と、度々降る豪雨、梅雨はもう少し続きそうだが、時期に夏が来る。じめじめとした東京であくせくした日々を過ごしていると、梅雨の無いNYがいささか懐かしくなることもあるが、とはいえやっぱり東京の夏は好きだ。別に張り切って海に行かなくとも、僕はビールと浴衣が日常の中にあればそれで幸せである。人がごった返す花火大会や縁日にわざわざ行かなくとも、祭りが終わって家路に着く人々を電車や交差点で眺めながら、夜の街を包む少しのさみしさを感じることができればそれで十分である。

6月はあっという間に過ぎた。人と口頭で話す時間、情報処理や事務的なメールの時間が多かったからか、日記を含め、ここで文章を全然書かないままに終わってしまった。仕事柄、話し言葉と身振りと即妙のアイデアを駆使してお子さんと向き合うため、書くこととはまた違ったコミュニケーションの筋肉は鍛えられているのだと思うが、そうは言っても、ずっとそれでは何も書けなくなってしまって、いざというときに困る。現にひとつ原稿を書きあぐねている。あまりうまくやろうとするとよくない。リハビリも兼ねてしばらくはまた日記をこまめにつけていくことにする。

写真をもっとちゃんとやろうと決めて、ランチの後に友人に練習に付き合ってもらった。代々木公園でポートレートを撮った。人物撮りと物撮りがもうちょっとうまくなると、ライター稼業をやる上でも役に立つだろう。週に1度は誰かを誘ってポートレートを撮っていくことにする。

雨とワックスのにおい

本を読んでもノートを開いても、文字が頭に入ってこない。
こんな日もあるかと、電車の座席に座って思考を止めた。
丸の内線は実は荻窪まで伸びている。

降りる駅だと思って席を立ったが、あとひと駅先らしい。
空いた車内で一人立っていることの意味を考え続けるほどの力もなく、
さっきの座席の斜め向かいに座り直した。

さっきまで僕と同じ列、2人分ほど空けて座っていた男性は、
落ち着きなく辺りを見回し、僕と目が合うとぼそり「なんだよ」と吐き出す。
そうだな、僕は、なんだろう。

アナウンサーがカメラのレンズの少し上を見るようにして、彼の輪郭をうつろになぞる。
突然課された宿題の答えが出ぬまま目的地に着いたので、
手すりをだらりと持って身体を引き上げ、彼の横を通って車外へよじり出た。

ホームに降り立つと雨のにおいがしたが、階段を登って地上に出てみれば、とっくに上がった後だった。
そしたら今度は、ついさっき美容室でカットの後につけられたワックスのにおいが妙に鼻にさわり出したから、
足早に家に帰ってまとめてシャワーで洗い流した。

SAMSUNG

今日は土曜だと思っていたら、どうやら日曜らしい。
手持ちのケータイは手ブレがひどくって不可ない。

自己責任論のズレ

田中龍作ジャーナル | 「奨学金」という名の学生ローン 1,000万円超す借金抱える若者も
奨学金を自己責任の問題にすると日本が滅ぶ – 技術教師ブログ

奨学金の返済困難や就職難といった、若者の社会・経済的苦境の話題になると必ず出てくるのが自己責任のシバキアゲ論なのだけど、あれがなんでズレてるかって、ああいう言説の適用範囲を想像してないからなんじゃないかなと思う。

自分の人生をどの程度主体的にコントロールできるか、と考えたときに、その度合い(能力面でも意思の面でも)が大きければ大きいほど自己責任論はすんなり受け入れられるのだろうけど、その逆、個人じゃどうしようもないレベルまでトマホークをぶん投げるから不味い。

現在から見て未来を考えて作っていく場合であれば、先のことは分からないわけだし、また意思決定の主体が社会的にも自立した大人であれば「自分の人生は自分で考えてなんとかしろ」と言っちゃえるのかもしれない。
で、そういう言説を好むのは、だいたい社会的にもある程度成功して、「自分の人生は自分で切り拓けるし、切り拓くべきだ」という信念を強固にした方々なのだろうけど、彼らが自分と近しい人・近しい環境―たとえば、激務の外資系コンサル・投資銀行に自分から就活して入ってきた、それなりにタフな学生・若手社会人に対して上司・部下の関係で言うならまぁ分かる。
だけど、その言説のスコープを社会全体に広げるのは無理がある。子どもたちにはコントロールできない生まれ・育ちの時点での社会・経済的格差や、青年たちにはコントロールし切れない景気・就職の動向や卒業後の稼ぎの見通し、教育の質を無視してマッチョになれと言われても、無茶でしょ、と思う。

難しいのは、こうした話題の渦中にある20歳前後の青年期が、保護・教育の客体としての側面(子ども)と自主・自立した主体としての側面(大人)が折り重なった時期であるからだろう。加えて、社会が成熟するにつれてモラトリアム期も長くなっていく傾向にあるから、すでに中年・壮年となった方々の当時の若者感覚とは当然ギャップが生じるのであり、最近の若者は情けない・根気がない・のんびりしている・覇気がない⇒だから就職できない・奨学金を自分で返そうともしない、みたいな発想に陥りやすいのだと思う。

借りたお金は返す、というのは当然のことだし、学生支援機構の奨学金も、名前は「奨学金」だけど実態は貸与ローンであることぐらい、申し込み時にどんな学生だって書類を書きながら普通は自覚・理解する。返す当てがないなら借りるな、それぐらいの金銭的・経済的判断・マネジメントは大人なんだからちゃんとやれ、と言う人もいるかもしれない。
とはいえ、多くの学生は、高校・浪人から上がって大学に入ったばかりタイミングで学生支援機構の奨学金(ローン)を申請するわけだし、その時点に様々な不確定性・リスクを見越して、奨学金を借りるかどうかの判断を下したり人生設計をできる学生なんてほとんどいないと思うんだけど。ましてや、最初から返す気が全くなくて踏み倒してやろうなんて気で借りる人なんかほっとんどいないはず。
入学後も学業や課外活動や就活に追われるうちに、そうしたフィナンシャルプランを立てることは後回しになりがちだ。それぐらい在学中にできるようになりなさいというなら、それを教える・促す人や仕組みや教育機会はもうちょっと必要だろうとも思うし。

高い教育を受けて、ビジネスの世界でも組織を運営したり仕組み・構造を作る側に回っているような優秀な方々が、こういう話題になると急に視野狭窄のマッチョ自己責任論を振りかざすのを見ると、なんだかなぁ、と思う。

P.S.
というわけで、渦中の若者世代からしたら、なんでもかんでも自己責任論にせずに、きっちり構造上の議論や法制度改正をしてくださいよってことなんだろうだけど、「若者」という集団・立場さえもとっぱらって、一度切りの自分の人生を生きる、根源的な当事者たる「わたし」の立場からしたら、結局「今、ここ」から出来る最大限の抗いをするしかないのだ。

一度きりの人生単位で考えたら、「わたし」の生まれたタイミング・環境が不運にして相当程度不利だったり、そうした状況に対する社会的・構造的な是正措置が取られない、あるいは間に合わないこともある。それはもう当たってしまった以上仕方ないことだから、頭使って一番マシな戦略を探して行動し続けるしかない。文句言ってても誰かが助けてくれるとは限らないし、諦めたって状況は好転しない。
1)既存の仕組み・環境のなかで最大限頑張ってマシな待遇を得て、サバイブし続ける。
2)既存の枠組みを変えて新しい仕組みを作る、そのためにできる様々な働きかけをし続ける(記事にあるようなデモもその一つかもしれないけど、必ずしも有効で賢い戦略とは言えない)。
3)今いる環境から逃げ出し、よりマシな、より自分にフィットする環境や社会を見つける。  

できることってだいたいその3つしかない。あるいはその3つを同時進行的に、あるいはこまめにスイッチしながらトライアンドエラーを繰り返すしかない。

あわいを生きてる

公開しない体で日々の日記をつけていたけど、ここ数日の出来事や考えに共通点があったので、
そのまま載っけちゃおうかと思って。たまにはね。

何かと何かの、間
あわい
そんなテーマで。
(だからこの記事も、構成と非構成の、間にあるのだと、そんな言い訳をしてみるのです)

2013/07/04 Thu.

スパイラルに陥らないように。
その瞬間の自分の素直な感覚に従うことも大切だけれど。
一方で、「そう思おうとしている」自分の存在、無意識に形成された強迫観念を、ある程度対象化することも大切。
まぁ、意識する、気をつける、では習慣は変わらないのだけど。
どこかのコンサルのおっさんが言ってた、時間の使い方、環境、人付き合いを変えろ、という主張だけど、
habit(習慣)に関する学術研究においてもおおむね同じ事が指摘されている。
 

 
「誰もお前の細かい行動なんか気にしてないよ」

時折自分に言い聞かせる。

* 
 
社会は巨大なお芝居の舞台で、人生はその中でいくつかの役割を順に、あるいは同時に、あるいは交互に演じていくことなのだという話をした。
理解した上で、役割に準ずる、時に外す/トチる、反逆する人
理解しないままで、踊らされる、反発する人

ひとつのペルソナだけを見て、相手の「人間性」を断定したくないといつも思っている
知らないところ、覆い尽くせないところはいつでも残るから
それでも知りたい、重なりたいと思うのが人情だけど
永遠の追いかけっこ

東京という街で生きることをどう表現したものかって、たぶん、その身を「浸し」ているというのが一番感覚に近い。今のところ。

同じ都市と言ってもNYとはまた違う。NYでは骨と輪郭を持って舞台の上に立っているような感覚が強い。
NYは街全体がジャズのようですね、と言った人がいた。

2013/07/05 Fri.

担当していたインタビュー記事を朝に仕上げて入稿。
ちょっとずつ、書くお仕事、していきたい。

書くことに限らず、社会と接続してバランスを取るためには、
何かしらのお仕事を持っていることはやっぱり大切だな、と何度も思う。
僕のように内側に潜りがちな人間は特に。
そんなものがなくても出来る、というのが理想だけど、
締め切り、読み手、上司・同僚、クライアント、商品・サービスの購買者・購読者etc.
仕組みやスケジュールのなかで否応なく他者の存在が可視化されているというのはやっぱり有難い。

お勤め3週目が終了。早かった。

それにしてもキャッシュが無い。
試用期間が終わり今週からお給料が発生しているのだけど、
振込は来月になるから今月は緊縮財政。

心は錦ってね。

ここ数週間ずっと咳が出る。なんでだろう。
風邪ぽっかったけどくしゃみとかはもう治ったしなぁ。
この夏は無保険だから病院行くわけにもいかない。

ノマドとかそういう流行り言葉はどうでも良いのだけど、
図らずもそっち界隈に近いライフ・ワークスタイルになりつつあって、この先どうなることやら。
国籍、戸籍、住民票、国民保険、年金、住居、そういうハコにちゃんと収まっていない不安定さはある。
移動が多いと荷物を多くできないから、家具とかかさばるものは買えない。買うお金もないが。
(本だけはどんどん増えていくから困る)
ま、なんとかなるんだろうけど。
確固たる足場や肩書きを外部から与えられなくても、
自分でちゃんと生きてる人の具体例が身近に多すぎるからな。
国籍ひとつとっても、日本とアメリカの(こっそり)二重国籍だったり、
あるいは故郷を追われて難民となった人だったり、
在日外国人だったり帰化したり、色々いるからな。
それぞれの人がその境遇ゆえに背負った大変さもあるし、
社会現象としてどう議論し対処すべきかというのは別の議論としてあるけど、
ひとりの人間が、生きる、生き抜くということからしたら、究極的には瑣末な問題だ。

一方で、HOMEがある、HOMEを持っていると思えることは、人が健やかに生きてゆくうえで大きな支えになる。
「ただいま」と「おかえり」を言える関係性、日常。
最低限それだけでも、みんなが持てる社会だと良いなぁと思う。
それは必ずしも「地元」的なひとつの土地や街でなくたって良くて。
時期によって変わったり、複数持っていても良くて。

ふらふらと移ろいながらも関わってきたいくつかの分野に共通しているのは、
自分自身の居場所や役割、心身や健やかで穏やかな暮らし、あるいは安らげる暮らしを持てなかったり、
そういう出来事に直面した/している人たちがいる、ということだろう。
紛争、障害、災害etc.

富岡や小高や飯館や浪江の人たちのことを想う。
いつかの将来に(場所によっては数世代先になるだろう)、帰ることが出来れば幸いだけど、
新しい場所での直近の暮らし、ここでも別のHOMEを持つことができますようにと願う
 

 
本当は、 
「大丈夫であるように」と、そう願っているのは他ならぬ僕自身でもある。

2013/07/06 Sat.

起きてみたらなにこの暑さ。
梅雨、もう終わり?まだ?もうすぐ?

梅雨と夏の間。

少なくとも、僕の今日の気分は夏、夏だってばさ。

夏だ!と思った時に聴く曲は決まっている。

JUDY AND MARY Brand New Wave Upper Ground

おいかぜーをーたっどぉればーくもーがーはーれてゆくー!
ってね

少し前にちょっとおセンチな気分になって、あまり人がいない静かで肌寒い海に行きたい、なんて言ってたけど、
太陽いっぱいの夏の空の下、海辺や桟橋を走るようなこともしたい。

女心と秋の空、なんて言いますが、
男だって、夏だって、いつでも表情と気分は変わるんです。
昨日と今日の間。
ネアカとネクラの間。

2013/07/07 Sun.

昨日公開したみちのく仕事のインタビュー記事がけっこう好評で嬉しい。
書き手冥利に尽きる。

震災後、「東北との関わり方」をどうしたら良いか/どうすべきか/何ができるのかといった悩みや相談と出会うことが多かった。
あるいは最近は、震災に関わらず、主に若い世代の間で、「働き方」や「暮らし方」そのものを考えなおす/問いなおすということがちょっとしたトレンドになっているように感じる。

伴って、方法論や形式論が盛んに議論される。株式会社/NPO/一般社団法人/任意団体、雇われ/起業/フリーランス、都会/地方、Uターン/Iターン、日本/海外、就職/進学/休学 etc.
こうした話題がトレンドになるのは、今まで主流となっていた(らしい)働き方に疑問が持たれ始め、ある種の過渡期にあるからだろうと思う。震災が人びとの心を揺さぶり、こうした問いかけや悩みを加速させた面もあるだろう。
方法や形式が内実を左右する割合はとても大きいから、自分にとってどの方法・形式がピッタリなのか考え続けること自体は大切なことだと思う。

ただ実際は、二者・三者択一で選び取られるほど働き方というのは単純なものではないし、どれかひとつの形式が他に比べて優れているというわけではない。
なので、考えること自体は大切なのだけど、一方、考えているだけで答えが見えるわけではないのも事実で。
また、最初から不変不動の最終的な答えがあるはずもないというのも事実で。
やってみて初めて分かる、ということもたくさんある。

流動的な状況・自分自身の変化・成長に合わせて少しずつシフトチェンジがなされ、だんだん落ち着くべきところに落ち着いていくもんだと思う。
人間ひとりの人生単位で見たときには、上記のような形式論の粒度では掬いきれないだけの多様性と流動性がある。何かひとつを選んだように思えても、2,3年後には考えも働き方も大きく変わっているということは十分あり得る。

昔誰かが言ってた「会社に人生を預けるな」という言葉には共感するところだけど、
自分以外の誰かが掲げる「働き方論」に自分の選択を預け切ってしまうことも、組織に身を預けることと本質的には変わりない。
山を登る時に、得体の知れない「誰か」に上からロープを垂らしてもらうよりは、
時間がかかっても、ハーケンをひとつずつ打ち込んで、自分で登っていきたい。
 
 
「答え」なんてものが仮にあるとしたら、それはいつも何かと何かの「間」にだろう。
掴めるようで掴み切れないから、リアルタイムで触れてはすれ違う。
「わたし」と「あなた」の間
「個人」と「組織」「社会」の間
「自分の働き方」と「あなたの働き方」の間
「現在の自分」と「未来の自分」の間
「実践」と「言論」の間

あわいを生きてる。