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Diary: 2017/08/14

いつだってお金もヒトも時間も、資源は有限なので、やらないことを決めたりとか、明確な目標と指標を持ってそこに向かって資源を投下していくという判断は必要なのだけど、それはそれとして、人とかサービスの非線形な進化は既知の視野と前提の延長からはなかなか生まれないもので、それらはやっぱり聴くことー普段の会議とは別でスタッフと1on1するとか、dailyの数値報告ばっか読んでないで生身のユーザーに会いにいくとか、人が集まる場を観察するとか、そういう機会を意識的に作っておく必要がある。そのためにはやっぱり一定の余裕が必要だ。

関わる一人ひとりが何を望み願っているのか向き合えるだけの感受性と余裕を持っておきたいし、一人ひとりの本気の「やりたい」とか、それが偶然出会ったときのセレンディピティを、「できたらいいね」で終わらせずにちゃんとサービス・コミュニティの進化に結びつくかたちで企画にできるキャパを持ちたいし、そのためにはまぁ直近もうちょっと稼いで余剰を作る必要はやっぱりあるし、そう考えると短期的にはまだまだしゃかりきやらんとなぁというところでもあるけど、まぁでも倒れたり感性パサパサになったら元も子もないので(はじめに戻る)、踏ん張ったり折り合いつけたり短期で目に見える成果を出したりまぁそこら辺はうまいことやりつつ乗り切っていくのだ。

Diary: 2017/07/25

もう少し好きにやった方がいいんだろうなと、最近。

こないだ管理職研修の一環でストレングスファインダーをやってみたら、周囲の人たちが「戦略性」とか「最上志向」とか出るなかひとり「運命思考」とか出ちゃったもんでお笑いネタだったわけで、そんな自己啓発本に影響されるかよーとか思いながらも、まぁやっぱりそうだよなぁという納得感というか諦めもあり。

頭と言葉と調整力を使うのならば、予定調和なところに寄せにいくんじゃなくて直感を正解に変えていけるだけの環境をつくっていったほうが、結果皆さまのお役に立てるのではないかと思う。

先日、編集者としてもひとつのブレイクスルーだったなという記事が一本ありました。
https://h-navi.jp/column/article/35026458

組織運営上は、コツコツと積み上がってはいるものの、ややプラトー気味というか、チームメンバー一人ひとりにもう1,2段のジャンプが求められるところで、ただ自分の介入のタイミングとして、個々が考えて試す余地をあまり残せていないなとか、そのための時間的余白を作れていないなとか、そこら辺の問題意識と反省もあり。方向性と役回りと期待値と、もう少し思い切って踏み込むのも一つかなと思いもする。

書き手としてはめっぽう筆も重くなり原稿も溜まる一方ですが、今日は久しぶりに、というかこれまでで1,2に入るぐらい、いいインタビューの時間を過ごさせてもらったなという感触があり、これがひとつのきっかけになればと願う。

先週は大阪・仙台・長野となんだかよくわからない頻度と距離で移動をした。
さすがに週末はぐったり疲れたけれど、たくさん動いて人と会って話をして、あぁでもこれが僕の本来担うべき役割や動きだなぁという実感も。

どのみち器用に理詰めで動ききれないところはあって、効率を言い出すときりがないけど、ランダムウォークからのセレンディピティみたいなものの積み重ね、あるいは数珠つなぎでここまできたところはあるので。

何かしら理由をつけて月に一度ぐらいはどこかへフラッと旅に出るぐらいの過ごし方をほんとに確立させていこうかなと。

思考や価値観が滞留しないよう、なるべく風通しよく
だけど、感じたものを咀嚼し言語化するだけの時間は確保できること

あとはそうだね、こぼれた球を拾ってくれたり、〆切逆算でケツ叩いてくれる優秀な編集者さんをだな…

Diary: 2017/07/03

違和感センサーというのは大事だなと思う
それから、違和感を感じたときにそれを表明し、ふんばる勇気というのも大事だなと思う

それからこの両者は相互に連関していて
勇気を出して違和を発するということを、あまりにしないままでいると
違和感をそもそも感知できなくなってくる
センサーが鈍ってくるのだ

異なる利害関係者の間に立って調整する
現実的なプランに落とし込む
いずれも実務家としてやっていくは必須とされるスキルなのだろう

それ自体が無駄だとは言わないけれど
習慣というのは恐ろしいもので
調整役に回ることがあまりに続くと
そもそもの目的としていた出発点からそれていったり
些末なことに気を取られてエネルギーが分散したり
しまいには
本当は「利害関係者」の他ならぬ一人である自分の意思を疎外することになっちゃったりして
たまに浮かび上がる違和感にも自信が持てず、「まぁみんなの言うことも一理あるかぁ」みたいな感じで
知らず知らずのうちにおさえつけちゃったりするもんだから
要注意である

今日はいくつか
全体としては小さいけど
自分としてはけっこうな意味がある意思決定をした

「そもそも」のところにどれだけフォーカスできるか
そのためにどれだけ余分なものを手放せるか

小器用に並走させるにも限度があるので
そろそろ「やめる」「手放す」ことの持つ効果が大きくなってくるフェーズかな

実務をやりながら、その上でどれだけ感性を瑞々しく保っていけるか
ちょっとしたリハビリのような気分だよ

Diary: 2017/03/20

三連休、驚くほどよく寝た。相変わらずこの間にやろうと思っていたことは半分も終わっちゃいないが、それはいつものことだ。休んだことをポジティブに捉えるということをそろそろできるようになる必要がある。

気になったニュース。

こういう、子ども向け教育番組に、ごくごく普通にさまざまな発達特性やセクシュアリティのキャラクターが登場していってくれると嬉しい。ファインディング・ニモのドリーとかもそうだろうけど。「マイノリティの物語」としてヒロインやヒーローに置くような話ばかりじゃなくって、もっとごくごく自然に消費されていくぐらいが良いと思う。

それから、東田直樹さんのドキュメンタリー「自閉症の君との日々」が今週末再放送だという話を聞いた。

正直に言うと、まだ彼を見る自分に揺らぎがあって、難しい。昨年のアメニティフォーラムで彼と彼が登壇した講演を聴いた。文字盤ポインティングを使いながら彼が肉声で喋る、というものだったけど、ほとんど聞き取れないような声で(それが確かに彼の肉声なのだけど)、だけど会場全体は感動の雰囲気というか、「自閉症の青年が自分でしゃべっている」という絵を”応援”するかのような雰囲気で、なんとも言えない気分になったのだ。

彼は作家として、詩を”書く”ことができる。そして大勢の人に作品を届けることができる。それでもああして大勢の前で文字盤を使って”喋る”ことが賞賛されるのは、彼にとって、そして社会・文化にとって、どういうことなのだろう。と。

そのまま悶々しててもどうしようもないので、番組を見てみようかなと思う。本も買ったが積ん読である。ちょうど良い機会か。

自分の身近にもそれに該当する友人はたくさんいるのだけれど、いやそれゆえに、LGBTという括りで語られる社会イシューに対してまだ腹落ちするような自分ごとかというか熱というものが持てていないことを考えた。興味がないとか抵抗があるとかいうことではなく、むしろ「無抵抗」になんでも受け止められることに所在のなさがある(それは受け止めているのではない、ということかもしれない)。カミングアウトを受けても「そうかそうか、へー」、自ら活動をしている人の話を聞いても「なるほどなぁ」って感じで、一定の興味関心、一定の熱量で聞いている感じ。なんだろう。いや別に悪いことしているわけじゃないんだけど、なんだろう。仮に彼らがなんらか世の不公正と闘うとなったときに戦列を共にするには私はあまりに気楽である。たぶん誘われればなんでも手伝うと思うのだけど。

一般と比べると、このイシューにおける社会の側の不公正だとか、本人たちが被る不便や問題、と言ったものに対する知識はそこそこある方だと思う。のだけど、自分の身近の人づきあいとしての、LGBT当事者に該当する彼、彼女らとの結びつきにまだ肉感がない。就職婚姻住居あらゆる場面で差別や不公正があることへの問題意識を持っていたとて、僕が目の前で友人として彼らと接するときに、「LGBT問題の当事者」として接する必要があるかというと必ずしもそうではなく、むしろそういう話題があまり出ない間柄の方が多いこともあると思う。どちらかというと、自己受容が進んでいたり、現行制度や観念にたいして折り合いをうまくつけながら生きている人の方が身近な友人としては多いように思う。たとえば中高生とか大学生とか、もっと若い子たちで、アイデンティティの揺らぎに直面しているような子たちと出会えば少しは感覚は変わるかもしれない。自分から無理やり求めるものでもないけど。そういえば、鬱とか発達障害とか難病とかは、困難のただ中にいたり坂を転がり落ちる過程にいる人と一緒にいたことが多かったから、社会の側に対する問題意識と、友として彼らと接し共に生きることに、ある程度の重なりがあるように思う。

社会を構造として捉える目と、一個人として一個人と相対する姿勢に、なるべく一貫性が持てるといいなと思うし、まぁ無いならないでそれはそういうものか、とも思う。

もうすぐ卒業するインターンの学生が、大学の太鼓部の卒業公演ということで、見に行った。年度替わりには人がまた出入りする。人の流動性が大きいなかで、どこまで工夫してやっていけるかという挑戦もあるけれど、それはそれとして、もう少し中長期を見据えて積み上がっていくような人材や組織というものも考えていきたいところ。悩ましい。

夜は妻と食事。結婚記念日ということで。正確には明日だけど。
あっという間である。

Diary: 2017/01/25

行き帰りの電車で『神谷美恵子日記』をちょっとずつ読む。心の安らぎというには、ちょっと彼女の人生は鮮明でドラマチック過ぎる気がするけど、ともあれ読んでいる時間は心がpurifyされている感覚がある。

今日の帰り道は1942年、神谷28歳の頃。戦時中。私もつい最近29になったばかりだからほとんど同い年の頃。

“私の悲しい浅薄な性質も、何とかしてためること。自分が夢中でやらなかったら、人の役に立つことも絶対に出来ないのだということを銘記せよ!”
(角川文庫, 『神谷美恵子日記』p.31)

「銘記」という語句の選びといい文末のエクスクラメーションマークといい、我が身に言い聞かせて前進駆動させているような印象。この人の日記がこれからどう展開し、どう歳をとり、やがて『生きがいについて』を書くに至るのか知らないで読んでいるけれど、きっとこの時期はこう自ら奮い立たせるような生き方をするしかなかったのだろうし、実際そう生きたのだろう。

「悲しい浅薄な性質」は私にもあって、慌ただしい日々の中でも時おり顔を覗かせる。自覚したとて卑屈になる間もなくそれを全身自己変革ひいては組織変革へとつなげてゆけよと合目的的になれるぐらいには暇が無いのでそれはひとまずありがたいことだと思う。「何とかしてためる」とあるが、それはひとまず腹の底にため置いているものなのか、蓋をしていてもいつかは噴出するものなのか、ため置いている間に消化/昇華できるものなのか、今は問うまい。

年若い学生だったり、自分より長く生きていたり、部下たち。心も身体も頭の中身も究極見えやしないし、私たちは自分自身のことだって知らなかったりもするのだけれど、思う通りに動きはしない日常のなかで、銘々それぞれに本当に踏ん張って生きている。声のかけかた一つ、他人として存在することの影響。せめて私のできることで彼彼女らが気持ちよく歩いて走ってそれぞれに伸びていくことができる道をつくろう。

夕刻、仕事の諸用あって同僚と一緒に目黒まで外出した。乗り換えの駅で「桃太郎電鉄2017」の広告が貼ってあり、そのコピーが「立ち上がれ日本!」だったのだが、それを見て彼、「こういうのも世相を反映してるのかなぁ。みんなしてそんなに立ち上がらなくたっていいよ」と一言。そのことに深く深く同意するとともに、立ち上がるどころか立ち止まったら死ぬみたいな意識で走り続けている自分の矛盾。そういうものなのかもしれないし、勝手に作っている幻想かもしれない。まだ、もっと、という感覚もある。一線超えて転がり落ちないようにだけ気をつけて粛々と営む。

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Diary: 2017/01/22

エジプトへ旅立つ友人を見送りに大阪へ。出エジプトならぬ入エジプト。海は割らないけれど。

道中、オバマの退任演説とトランプの就任演説を全文テキストで読んだ。彼と共に過ごしたのはニューヨークでの留学時代で、ちょうどその頃はオバマの再選(ロムニーと競っていた)時期と重なっていた。月日が経つのは早いものだ。トランプ旋風に対して私は特段の意見を発していないが、昨今の一部インテリリベラル勢の口汚い罵りには辟易していて、それらと相まって、二人の演説を読み比べるに「そりゃ勝つよな」と改めて思った。なるほどオバマはやはり美文家ではあるが、今の世相、トランプの簡素にして直接的なスピーチは確かに人々の不安に応える(応えてくれると思わせうる)ものだった。

インテリが彼を「ペテン師」と罵ったり、post-truth時代だと嘆くのは容易いが、それでは勝てないよ、と思う。

少し前に読んだ雑誌『考える人』の特集「言葉の危機、言葉の未来」は良かった。タイトル前段だけ見れば説教臭い話が並ぶのかなと思うかもしれないが、決してそんなことはなく、全編通して言葉への信頼というか「遊び」が感じられる企画だった。

池澤夏樹のロングインタビュー。翻訳から評論、小説と、日本語と外国語を行き来しながら言葉と丁寧に丁寧に向き合ってきているであろうこの人が、しかし言葉はコントロールできないものとの”諦め”も抱き、「保育園落ちた日本死ね」が人々の言葉を打ったことにもそれなりの理由があるのだと語っている。「足し算の美学」と称してヒップホップのフリースタイルの面白さを語った都築響一のエッセイも良かった。横尾忠則が「大事なのは時間ではなく回数なんだ」と語ったこと。言葉から身体へ、軽さを追求していく営み。描く人のことばは、書く私の言葉よりも贅肉が少ない。

間近に実例があって痛感するが、起業家の言葉というのも強い。彼らには共通したリズムと語法がある。シンプルで、明快で、力強く、未来志向だ。経営者は日々膨大な情報の中で意思決定を繰り返す。その習慣ゆえか、嗅覚で本質をつかみとり言語化する。時にシンプル過ぎて危うさを感じることがあっても、やはりそれは人の心を打つ。

私も影響されてか、昼間の間は、端的で強い言葉を使う頻度が増えた気がする。それが良いのか悪いのかは知らない。イライラだけはしないように気をつけたい。

最近は重たい本はめっきり読めていなくて実学指向が過ぎるのだけど、こういうことは普段考えている、と彼と色々語った。

「何者でもない」「他の誰のことも代表しえない」ことを自分の足場としようと思う。前からそうだったけれども。

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大阪から帰って、おもむろに夜の多摩川を走った。向こう岸に見える高層ビル群の明かり、僕が暮らすのは東京だなと思った。

また一週間が始まる。

Diary: 2016/08/20

August 20th 2016, Saturday

A photo posted by Yuhei Suzuki (@yuhei1203) on


A man in the rain, waiting for fireworks display.

4月から、会社の新規ウェブサービスの担当になってしばらく経った。楽しさ半分、焦り半分といったところかな。

コンテンツの制作と、それに紐づく事業上のKPIは今のところ堅調に積み上がっており、チームの士気も高いのだが、まだやりたいことはほとんど実現できていない。

自分自身も1プレイヤーとしてまだまだ研鑽を積まねばならないところだが、今の役割としては、個人で何を表現できるか以上に、チームで勝っていくためにどんな成長環境をつくっていけるかが問われている。

特に期間中言及しなかったが、思想も戦略もなく反体制根性(つまり結局は体制に依存している)で声を上げたかつてのタレント文化人が内部からも市井からも信任を失っていく様子を横目に見ながら、「ペンの力」で本当に世の中を動かそうと思ったなら、お金や人や流通経路を含めて、ペンの力を届けるための組織をちゃんと作っていかないと、それは表現者のエゴでしかないよなと改めて思う。

コンテンツ作って世に出していくということは、それをわざわざ私たちがやることの理由―思想がまず必要なのは言わずもがなだが、それを裏打ちするビジネスモデルや届けるための道筋づくり(UI/UXデザインもマーケティングも)、絵に描いた餅を実現するための人の意識と技術がそろって初めて影響力を持つ。

チームの中もそうだけれど、部内のビジネスサイドやエンジニアサイド含めて、同じ方向を向いて進めるよう、私は私の立場から、方向性を言語化・見える化して共有するための努力をもっともっと取るべきなのだよな。

最近は、仕事の隙間にドタバタと結婚式やらなんやらの準備。それから、少し前にウェディングパーティーをやった友人夫婦と仲間たちの足跡を記事にしようという話があって、そのインタビューやらなんやらも進めており、どうあったって、結婚だの家族だの暮らしだのといった事柄が脳みその一部を占めるわけで。そういう時に上記の岡田育さんのツイート。

父母姉祖父母含め、私は実家家族、ないしは地元というものに対して微妙な距離をおきながらお付き合いをしているわけだが、たぶんそれは上で育さんが書いている感覚に近い。

それは結局私の思いに過ぎないわけで、親は親で、親心というもので私に対してあれやこれやの関わりをする。特に母は心配性で、式や披露宴に援助は必要ないか、向こうのご家庭はどんな感じだetc.心配してくれている

私の場合は、(決して裕福でない)父母祖父母に、経済上の大きな援助―負い目を持ちながら、結局はそのおかげで地元を出て、さまざまな地域や国の人と出会い、今の仕事へとつながっているわけだから、そのことに対して返さねばならぬという義理や責任がある。ただ、産み産まれた血縁関係だからといって、あまりに近い距離感だとしんどいものがある。

「二人で予算も話し合って進めているので、援助は要らないです。前日のお宿や新幹線含めて僕からプレゼントさせてください」と、少し背伸びをして連絡を取る。これも親孝行かな、とか思いつつ。ポジティブでもネガティブでもなく、淡々と、しかしやはりこういう私の世代観家族観なりに、感謝を込めて。

Extend our hands / 「握手はどっちの手?」

February 7th 2016, Sunday

“Someday, let’s shake hands again, with my new hand.”
He smiled me, shaking my hand with his right arm. The meeting with my new friend, Kunihiro Yamamoto made my day today.


This is “HACKberry,” the newest myoelectric prosthesis developed by “exiii,” Japanese robotics startup.

Kunihiro doesn’t have his right front arm (it’s congenitally physical disability). So he supports “exiii” for development and promotion of HACKberry.

Though HACKberry is still a prototype, I felt its potential to create new future for people without arms. HACKberry is called as an “open source” product. When the “HACKberry” is put to practical use. All the people without hands can design and order his/her own hand. Each hand will be unique and optimized for each person’s physical function.

As you choose your clothes, they can choose their hands. That must change the world positively.

滋賀のアメニティフォーラムへの出張を終えて東京へ帰る。
友人夫婦宅にお邪魔をして、以前から「紹介するよ」と言ってくれていた人と会った。

彼の名は山本邦光くんと言う。
高校卒業後に働き出してまだ1年目なのだが、ずいぶんしっかりしていて、爽やかな人当たりの好青年だった。

彼は、友人、工藤瑞穂さんが運営するメディア「soar」の以下の記事に登場している。

「握手をした瞬間に、相手が笑顔になるんです」ーー筋電義手「handiii」開発者の近藤玄大さんと義手ユーザーの森川章さん

筋電義手を開発するものづくりユニット「exiii(イクシー)」の紹介記事である。

この動画はGOOD DESIGN AWARD 2015で金賞を受賞した最新モデル「HACKberry」

山本くんは先天性で右腕前腕を欠損しており、当事者としてこの「HACKberry」のモニターやプロモーションに参加している。また、上肢障害のある方同士を繋ぐNPO法人「mission arm Japan」という団体の運営にも携わっており、実にアクティブ。

勤め先のLITALICOのことも前から知ってくれていて、とても興味を持ってくれたようで、工藤さんがつないでくれたのだ。取り組みや考え方などに相通じるものが多く、ぜひ何か一緒にやろうよとひとしきり盛り上がった。

義手と一口に言っても色々あり、実際の腕の肌色や質感に近づけることを目指してデザインされた義手もあれば、フック船長とかライダーマンみたいな原始的で無骨なやつもある。一方、「exiii」が開発する筋電義手は、近未来を感じさせるサイバーなデザインで、彼はそれが好きなのだという。

義手や義足をはじめ、身体機能を補う装身具は、その機能の進化ももちろんだが、デザインももっと多様化していくと面白いと思う。男性も女性も老いも病めるもおーんなじ義手しか選べない、じゃあつまらない。僕たちが好みに合わせて服を選ぶように、サイバーな義手、無骨な義手、ナチュラル系の義手、ゆるふわガーリィな義手?などと、自由な選択肢が広がれば良い。

そのためにはもっともっと、障がいのある人もない人も混ざりあう繋がりやコミュニティが必要だ。彼が携わっている。「mission arm Japan」にも、交流会やスポーツイベント、寄付による支援などで関わることができるので、興味がある人はぜひサイトを覗いてみて欲しい。

友人宅を出て、坂道を下ったところで別れの挨拶。

「じゃあ、また今度。握手はどっちの手が好き?」
「どっちでも良いんですけど、僕は右の方が好きですね」
そう言って、右を差し出してくれたので右手で握手をした。

「今度はHACKberryを付けて握手したいですね!」
なんとも爽やかな笑顔でそんな台詞を残して彼は立ち去った。

「うん、楽しみにしてる」

その日はきっとすぐにやってくる。

What makes his/her behavior “problem”? / 「困った人」は「困っている人」

February 5th 2016, Friday

I and my company colleagues are attending “Amenity Forum,” the largest forum of human services in Japan for two days. Lots of professionals dedicated to welfare services gathered to the forum, and made presentations about their services, newest research outcomes, and so on.

Our company named LITALICO runs more than 100 centers to provide people with disabilities with job support and education services so that they can find the way to learn and work that suit for them, and choose their own way to live.

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I attended a symposium about severe behavioral disorder. in general, it is said that people with severe behavioral disorder makes “problems” such as screaming, self-injury, attacking others etc. But the speakers at the symposium said that, a behavior itself is not a “problem,” but a problem is caused by an interaction between people and surroundings. I agree with that. For example, if a man scream in his own room, that isn’t annoying for others. So it’s not a problem. But if he screams in a classroom, office etc. and that disturbs other people’s life. And, there must be a reason why he screams in the classroom. Something must have made him scream as an antecedent stimulus. So our mission is to replace such stimulus to other stimulus that doesn’t make him scream, or provide other options for him. To achieve the mission, we make detailed assessment on him and his surroundings. It is not easy, but if we never give up, gradually his behavior will change.

Now I’m not working as a field staff. My current job is research and management at office. But today’s session encouraged me so much. Whether field staffs or managers,all of us are working as professionals to improve qualities of lives of people with disabilities and disorders. They themselves of their behaviors are not “problems.” There must be signs they send to us, and we should catch them.

ここ最近はろくすっぽ日記も書けていなかったが、熱気に当てられたのでホテルで久しぶりに。「アメニティフォーラム」という福祉関係の事業者・実践者・研究者が集まるフォーラムに参加している。今年は第20回ということでかなり気合が入っている。会場は滋賀県の大津、琵琶湖の目の前にあるプリンスホテル。全国から1000人ぐらい集まる3日間の大型イベントだ。途中懇親会も入るが、基本的にはシンポジウムやゼミがぶっ通してで、ついさっき、深夜の24時まで続いていた。

プログラムは多岐に渡るが、興味があって多く参加したのは強度行動障害支援のセッション。ハッシュタグ#アメニティフォーラムでツイートしたが、いくつか抜粋してここにもメモしておく。

強度行動障害については、以下のように定義されている。

“強度行動障害児(者)とは、直接的他害(噛みつき、頭突き、など)や、間接的他害(睡眠の乱れ、同一性の保持例えば場所・プログラム・人へのこだわり、多動、うなり、飛び出し、器物損壊など)や自傷行為などが、通常考えられない頻度と形式で出現し、その養育環境では著しく処遇の困難なものをいい、行動的に定義される群” (1988年『強度行動障害児(者)の行動改善および処遇のあり方に関する研究』(財団法人キリン記念財団助成研究)より)

ポイントとしては、強度行動障害は、上記に記されたような「状態」が続くこと、であり、個人だけに帰責されるものではないということだ。そうした行動を起こすには必ず理由があり、奇声や噛み付きは表層に見えている「氷山」の一角に過ぎないと我々支援者は考える。「困ったひと」ではなく「困っているひと」であり、いわゆる「問題行動」の下には、その人がそうしてしまう、本人と環境の相互作用がある。我々は「アセスメント」という技法を使ってその人の日々の生活を記録し、その行動の原因や本人が抱えるニーズを丹念に分析する。その上で、そうした問題行動が起きないための環境構築や、本人への働きかけを行う。つまり、「行動障害」は「二次障害」であり、本人が行動障害を起こさないための予防環境づくりが肝だということだ。

そもそも何をもってその人の行動を「問題行動」とするのかという問いもある。「奇声を上げること」は、それ自体常に「問題」なのか。たとえばある人が、自分の部屋の中で奇声を上げることは、他人に迷惑をかけないかぎりとくに「問題」ではないと言える。それが、学校や職場や公共空間など、集団生活の中で奇声を上げるということになると、周りが迷惑を被るから「問題行動」とみなされるわけだ。その行動が問題とされるには、当人の行動を周りが問題だと受け止めるから、あるいは問題を感じる環境・文化があるから「問題行動」なわけである。

つまり、行動には意味や役割があり、それは固定的ではないということだ。その行動が「問題」だとされるなら、その理由=行動を起こす本人の意図や困り事や願いを見極めること。その困りごとが起こらない環境を整えたり、願いが叶えられる代替行動を習得できるようにすること。たとえば、子どもにとって、「頭をたたく」という自傷行動が「母親を呼ぶ」という役割になってしまっている場合、「ブザーを押す」「声をあげる」など、同じ役割を持つ別の行動に置き換える学習が必要になる。

……と、いうのが支援における基本的な考え方やスタンスなわけだが、言うは易しで、実際の支援現場は毎日が試行錯誤の連続である。テレビが宙を舞う、窓ガラスが割れる、噛みつかれる。それが成人男性の行動だったら、スタッフも当然、怖い。あるいは、家族支援。障害のある子どもの親への支援研究はまだまだ少ない。周りの不理解、子どもの行動に対する悩みで孤立する家族。夫のDVや子どもの暴力で追い詰められた母親が、自分も子を虐待しそうになる、あるいはしてしまう。自分を責める。ひとつひとつの事例報告を聞いていると、本当に壮絶なケースが多々あった。(だからこそ支援を属人化せず、地道に居住環境を整えたり、テキストや研修による支援者養成をしたり、地域や職場でチームを作って対応したり、という組織プレーが重要になるのだが…)

私自身は、今は現場で直接対人支援をやっているわけではなく、企画・編集やマネジメントの仕事がほとんどになった。また、現場支援をやっている時も、今回のような重度の行動障害のある人を担当した経験はない。それでも、今回のお話は自分の心を強く打つものがあった。

支援の現場は野球で言えば「1割バッター」のようなものである。残りの9割、ほとんどは失敗の連続である。だけど支援のプロフェッショナルは、その9割の失敗を決してムダにしない、試行錯誤の積み重ねで1割の成功を生み出す。そんな話をされた方がいた。

失敗して、失敗して、試行錯誤して、ようやくその人の行動が少し変化する。魔法のステッキはない。でも、だからこそ、続けるんだよな。現場だろうとなかろうと関係ない。それぞれの持ち場で、ヒットを打つための試行錯誤を重ねるのだ。