文の月

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「2週間ぐらい文章を書かないでいるとほんとに筆が進まなくなるよね」という話をつい先日、友達としたところだけど、まさにそんな状況に陥っていたところ、6月が終わり、文の月。

福島から東京へ帰り、お勤めが始まり、阿佐ヶ谷仮住まいの渋谷通いの日々。
最初の2週間、先行研究のレビューを担当したが、
あまり研究が進んでいない領域のため、問題や仮説設定、仕事の出口も見えづらく、
社員さんと相談しながら手探りの日々。ここ数日でようやく道筋が見え、それを共有できたところ。
気持ちも思考も上向きつつある。
ここからが研究の本番。丁寧で精緻な思考と作業が大事。
 
 
ここ2週間ほど、トンネルや霧のなかにいるような感覚があった。
 
 
生老病死を仕事や研究の上で扱うことって、じわじわと心に来る。
東京に帰ってきて働き出す前に3週間を福島で過ごしたこと、その前に実家に帰って家族と会ったことなど、
いくつかの要素が今の自分に効いていることもあるけど、
健康や病気に関わることゆえ、機械的に作業をひたすら進めることもできず、色々と考えてしまう。

人の心理や行動を色々な要素を切り分けて統計的に分析していくアプローチ、
限定した変数に注目して相関を見出し、集団に対して大雑把に面で介入していく公衆衛生の営みでは、
生命を全体として見たときの奥深さと儚さに接近することはどうにも難しいように感じる。
それが必要無いとか無駄だとは言わない。
集団レベルで判明したことは、個人が生きるうえでもやはり有用な指標や目安となるから、むしろとても大切なこと。

たくさんの先達の取り組みがあること、批判と再検討の繰り返しのなかで、
全体像を掴む努力が続けられてきたことも勿論分かっている。
(広島・長崎の原爆、チェルノブイリ事故、その他多くの核実験・事故の犠牲者がおり、
そうした人たちの存在を無駄にしないためのたくさんの研究があったおかげで、
今回の福島第一原発事故において過去の事故よりかなり被ばくを抑えることができた。
もちろん災害対応が完璧だったとは言えないし、健康被害に関してもまだまだ予断を許さない要素はあるけれど)
無駄なことなんてない。漸進的な探求の一端を担う意識と自覚は持ってなきゃ、と思う。
探求の結果、新しいことを知ると、単純に嬉しいし、楽しいし。
 
 
だけど車の両輪として、やはりもう一方のアプローチも必要に思う。
少なくとも僕が生きるうえではそちらが欠けると気持ちが悪い。
個別具体性を捨てない、「私」の主観的な感覚からスタートする、
そういう、個を掘ることで普遍性に接近するような営み。
禅とか踊りとか祈りとか歌とか写真とか、人によって手段は違うのだろうけど、
僕にとってはそれは文章を書いて言葉を編んでいくこと。

それが全然できてなかったのがここ2週間ぐらいのこと。
 
書きたいことはいっぱいあるはずなのに、原稿用紙やブログに向かってもほとんど何も書けない日々が続く。
モヤモヤとフラストレーションを抱く。それらは次第にさみしさと欠乏感へと転化される。
内心状態の揺れはさて置き日々のルーチンをあまり問題なく送れるぐらいには平静を保つ術を身につけてきた今日この頃。
幸か不幸か、それゆえに身体の内側に濁りが留まり溜まってゆく。

文章を書いて、膨らましたり削ぎ落としたり、その過程で内省したり、
丁寧な歩行を出来ていない状態で、
呼吸が浅いままに惰性でSNSなんかに言葉を放流しても仕方がない。

それっぽいフレーズ。
毒にも薬にもならない。
誰も傷つけないけど誰も救わない。
伝えたい想いも傷つく覚悟も備わっていない。
そこに熱も重みも乗らない。
自分がいちばん分かっている。

自分の感受性を守るのも、取り戻すのも自分しかいないのだということ、
それも知ってる。

NYにいた頃にやっていた日々の営みを、ここ1週間で少しずつ取り戻している。
身体のストレッチ、お茶を飲むこと、自己流だけど、お祈りとか、瞑想とか、そういう些細なこと。
「忙しさ」に自分の心を差し出さない。
 
 
渋谷駅南口、首都高3号下の歩道橋で、玉川通りを走る車を昼休みにボーっと眺める。心が凪いでいく。
お昼に外の空気を吸って街や空を眺めることさえ忘れていた。

今日は風が吹いていて涼しい。空は曇っているけどジメジメした湿気はない。もうすぐ梅雨明けかな。

文の月。弛緩してないで、書くことにちゃんとしがみつこう。リハビリから。
やっぱり好きだし。

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