左斜め後ろ、身体ひとつぶん

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出勤前、昼の池袋駅。
活発に人が交差する改札前で、白杖を持って右往左往している男性を見た。
 
街中で点字ブロックや手すりが「途切れる」ポイントはいくらでもある。
 
 
「すみません、どちらに行かれますか?よろしければ手引きを」
「あ、ありがとうございます。東口まで行きたいんですけど…」
「はい、じゃ、一緒に行きましょう。ここ、僕の左肩です。とりあえず改札を」
 
僕が前を歩き改札を通る。続いて彼が手探りに当てながらパスを通す。改札を出て、改めて左肩に彼の右手を置いてもらい、東口を目指す。

  
歩いている時、特段おしゃべりをするわけでもなく、要所要所でガイドの声かけをした以外は割に黙々と歩いた。
 
左横から親子連れがやってくる。
左後ろの彼とちょうどぶつかりそうなタイミングだったが、お父さんの方がこちらに気づき、子どもを止めて待ってくれたので、そのまま真っ直ぐに進めた。
 
前方、ゆっくりと歩くお年寄りがいて、次第に追いついた。
「ええと、彼を伴ってのこの場合は追いぬくかペースを落とすかどうしよう」という逡巡が言葉以前の感覚で頭を回ったが、その僕の微妙な呼吸の変化と左への重心のずれを察知してくれたのか、特に声が出ることもなくふたりで自然にお年寄りをよけて歩くことができた。
 
 
なるほど視覚の面では彼に困難さがあるかもしれないが、肢体能力という意味では成人男性なりの強度を持っており、むしろ小さなお子さんやお年寄りの方がぶつかった場合は「弱者」となる。
 
目が見えない’ゆえに’生じる困難さに対応してわかりやすく適切な配慮をする必要はあれど、それ以外のあらゆる局面で彼が不自由な「弱者」だというわけでは当然ないし、彼が視覚障がいを持っているからといってこの場合の「支援者」たる僕が、そこのけそこのけと横柄に道を突破して良いはずもないし、歌舞伎のように大げさな声かけをするのも無粋である。
 
途中から、身体が左斜め後ろに拡張した感覚がしておもしろかった。いつもより大きな身体を動かして人だかりや柱や壁を避けて歩いているのである。であれば、「自分の身体」に対して、ひっきりなしに声かけ指差し確認をするのもかえって不自然というものだ。
 
袖触れ合う市民として平穏にこの池袋の駅を通行する。そのごく「普通」のことをなるべく多くの人が大きな困難なくフツーに果たせる世の中であれば良いとおもう。
 
 
というわけで、やはりまた淡々と歩いて東口へ向かった。
 
 
東口へ出る最後の階段(いけふくろうがあるところ)を二人で一緒に登る。
印象に残ったのが途中の踊り場での所作。
 
階段というのは段差が決まっているので、一度登り始めれば目が見えなくても足の運び方は単調である。ただし問題があって、何段目で踊り場が挟まるのか、終わりはどこなのか、慣れていないと分からないから、うっかりすると足をスカしてしまう。
 
視覚障害を持つ人はそこで、白杖を足に先んじてツーっと、「滑らせる」。白杖が次の段の壁にぶつからず進み続ければそこは踊り場ないしは終着点ということになる。
 
いつも使っているのだから当然といえば当然なのだが、横目に見たその「探索」行為があまりにもなめらかだったので妙に感嘆してしまった。
(僕も時おり思いつきで、目をつぶって歩いてみることがあるが、杖を持っていないので、まったくおっかなびっくりで、手と足がわちゃわちゃしてみっともない。)
転ばぬ先の杖とはよく言ったもので、この場合彼の身体は杖一本分拡張しているのである。
 
「ここが東口ですねー」
「ほんとにありがとうございました。ここから先は行ったことがあるので大丈夫です」
「そうですか、お気をつけて」

  
彼と別れ、北口へと引き返してそこから職場へ向かった。

外は蒸し暑い。

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