レジ前の攻防、あるいは

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大学近くのスーパーでいつも買い物をするのだが、そこで毎回、ちょっとした葛藤というか、「攻防」が起こる。

レジで会計を済ませる時のことだ。店員が商品をレジに通した先から、レジ終わりの位置に立っている人(少年だったりおばちゃんだったり)が、商品をレジ袋に入れていくのだ。お金を払い終わる頃には商品が全てレジ袋に詰まった状態が出来上がる。それを受け取るのだが、彼らの手元には、小銭を入れる小さなトレイが置いてある。

つまり、そういうことである。

ここでの対応にいつも迷う。”No thank you”といって断り、自分で入れることもあるし、断るタイミングがなかったので御礼を行って釣り銭をトレイに入れることもある。入れてもらって小銭を一銭も払わない、というのは今までなかった。そもそも自分の性格として、商品を袋に入れるのは自分でやりたいというのがある。あと、こっちの人はやたらとレジ袋を2枚3枚重ねにする傾向があって、「そんなに必要ないよ、もったいない」という気持ちもある。これらは彼らの行為を断る理由にはなろう。一方で、毎回かたくなに断るほど重要なこだわりでもないし、やってもらって極端に困る行為でもない。また、釣り銭の10セントや20セント程度なら、さすがにそれを渡すことが自分の生活にとって大きな問題になることもない。だから結局、断るor任せるのどちらか一方に完全に振り切ることも出来ず、毎回逡巡しながらその場その場の結果に落ち着く。

で、いつも考える。彼らがレジ袋に商品を入れて僕らが小銭をトレイに入れるという行動は、
「サービスに対する対価」を支払っているという、ごくごく普通の取引なのか、
それとも、
「貧しい人に対する施し」なのか。

「サービス」と割りきってしまえば、断るも、任せて「代金」を支払うも完全にこちらの自由だし、何も悩むことはないのだが(その時の気分で自分の「購買行動」を決めれば良い)。が、やはりそう簡単にもいかない。どうにも貧困とか施しとかいうワードが頭に浮かんできてしまう。
日本にいる時もこういう話を他人としたことはあるが、だいたいいつも同じ、2つの考え方になる。

少額でも、それをあげることが彼/彼女の一日のパンになるなら良いじゃないか、という立場と、
いっときの気まぐれで個人に小銭を上げたことで社会構造は変わらないのだからナンセンスだ、という立場。
(後者の言説は、しばしば、「施しは偽善だ」というような含みを持って語られる)

あるいは、こういう喩え話を聞いたことがある人もいるかもしれない。
社会起業やら開発援助、あるいは教育の文脈で、
「魚を食べられない貧しい人がいたとして、あなたはその人に魚を釣ってあげますか。
それとも魚の釣り方を教えてあげますか。」
みたいな。後者の方がサステイナブルだからそっちを指向するべきだよね、という主張のために援用されることが多い。

いや、分かるよ、後者の立場の方が「大人」だし「望ましい」答えなんでしょうってことは。
問題は貧困や格差を生み出す構造なのだ!構造を変えることこそが重要なのだ!っていう。
うん、そうそう。でもさ、社会構造って?
その「社会構造」とやらが、今まさに目の前にいる、その人のその日の暮らしをどう左右するというのか
あるいは、その「社会構造」を理由にとった「小銭を渡さない」という行動が、実際に社会構造を変えてくれるというのか。
スタンスとしては分かるけど、魚の釣り方を…みたいな議論や主張は、時間間隔で言えばずいぶんと悠長だ。

かといって、たかだか10セントや20セントの小銭を入れる行為も、その人の人生・社会構造どちらにとってもほとんどインパクトをもたらせない。「無いよりマシ」という表現も生ぬるいぐらいの微量だ。

というわけで結局どちらの立場をとろうが、目の前の個人に対してどう振る舞うべきかの「正解」は出てこない。
また、その時の一回の行動/非行動が、実際に目の前の彼/彼女や社会構造を変革することもない。
じゃあ、結局気持ちや気分の問題か、となる。
そんなわけだから、僕はいつも「どうしよう」となる。

ただ、この議論は結局自分たちの側からやいのやいの考えてるだけの話であって、
相手の立場は考慮に入れていない。
では、レジ前に立つ彼ら自身はどういうつもりなのだろうか。
いや、それも結局分からないのだけど。
でも、少し想像してみれば、
自分たちの側からだけこの「問題」を考えてしまうことによる不遜さは、ある程度自覚出来るかもしれない。

彼らの側からしたら、僕のその葛藤なんぞ知ったこっちゃないんじゃないか。

彼らは毎日そこに立っているわけで、僕は1日中来るお客さんたちのone of themに過ぎない。
僕から小銭を受け取れようが受け取れまいが、それは誤差の範囲に過ぎないんじゃないか。
もちろん、50セントや1ドルのお金が、彼らにとってその日の生命線となる可能性だってあるのだろうけど、
「今ここで彼に施すか否かが彼の人生や社会にとって云々…」なんて悩みは、彼らからしたらたぶん「余計なお世話」だろう。
その悩みが実際に彼らの生活や社会を変え得ない以上、余裕がある人の「呑気」な悩みとしか言いようがないし、
「次が詰まってるんだから、払うなら払う、払わないなら払わないで、とっとと商品持って外行け」ってぐらいなもんかもしれない。

と言っても、これらも所詮想像の域を出ず、相手の心境(人によっても違うだろうし)を知る由は無い。

しかし少なくとも、「社会問題」の衣に包んだ僕ら有閑階級の議論や悩みは、相当呑気なものだということは分かる。
僕らは貧困や格差すらも物語的に消費しかねないのだということが自覚されてくる。

さて、ここでまた、どうするか。

本人不在の議論が何の役にも立たないことは分かりきっている。
なればこそ行動が大事だと、様々な慈善活動や事業活動に精力と情熱を注ぐ人たちも現れるのだろう。
それはそれでとても大切で、必要なことだと思う。
しかし先にも述べた通り、それが社会構造を変えるにはものすごく時間がかかるし、
仮に社会構造を変えたとしても、その恩恵が個別具体事例としての彼/彼女に届くどうかは、偶然の巡り合わせでしかない。
だからやはり、僕やその他の立派な人々が、社会的にどんな重要な使命を果たしていようといまいと、
こういう出来事や相手とのエンカウントは避けられない。

ここまで書いて、筆が進まなくなった。
つまり、そういうことなのだろう。
どん詰まりに立て、と。
物語としての安易な消費に堕したくないのなら、
あるいは機械のように割り切った作業として処理したくないのなら、
彼/彼女に出会うその都度その都度、どん詰まりの矛盾とエゴで己を刺せと。

それすらもやっぱり、勝手な自分の話でしかないのだけど。

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