黙祷のタイミングが分からない

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今年と去年は主にNew Yorkにいるから、日本のカレンダーに関連したアニューアルイベントは、だいたい14時間早く僕の目に届く。日本にいる友人の誕生日は、Facebookで一足先にお祝いが始まる。それから色々なメモリアルね。終戦の日とか、震災の日とか。そう、NY時間ではまだ1月17日の早朝なわけで、つまりは阪神淡路大震災から19年経ちましたというその朝です。

僕は神戸の出身なのだけど、当時ちびっ子だったもので、阪神淡路大震災の「被災経験」について、語るほどのものをほとんど持たない。去年も書き物をしたけれど(「避難所暮らしも長田の火事も知らない」)、個人の震災体験に基づいた述懐はほんとこの一記事で終わるぐらいのボリュームしかありゃしません。まぁだから今回は震災体験については別に何も追加の話はない。

それゆえ、1.17や3.11など震災発生日を区切りとした人生の意味付けをする動機も体験も持っていない。見知った人々の幾人かは、こうした日に「あの日がきっかけだった」と語るだけの体験や物語があるのだけれど。もっと言えば、震災などの社会的事件に限らず、これまでの人生で「あの日がきっかけだった」ってぐらい、何か大きな変化の節目となるようなエポックメイキングな日って全然無い気がする。あ、ちょっとはあるかな。でも、震災とかじゃなくて、失恋とかそういうのだ。いつも。それも、どうだろ。どれもなんかこう青臭ぇ。甘酸っぱいってか、どっちかっつーと童貞力高くてイタい感じのが多い。話がそれた、ごめん。今日はそういう話でもないんだ。黙祷とか、祈りの話。

黙祷のタイミングが分からない。どうやってすれば良いのかも、実のところよくわかっていない、と思う。去年今年の事情に限って言えば、NYでボーっと過ごしている間に日本のみなさんのコメントが一足先に目に入ってきて出鼻をくじかれるからなんだけど、そうだとしても、したければ別に僕のタイミングで黙祷すればいい話だ。だけどもう、一度意識してしまうとなんだかぎこちない感じがして、自然に祈りに入ることができなくなるのだ。

特定の宗教に深く帰依しているわけではないが、割に信心深いほうだとは思う。通りがかりに小さな神社なんかを見つけるとよく立ち止まってお賽銭とお参りをする。そういうのはナチュラルに習慣化しているのだけど、深く強く「祈る」ということで言うと、果たしてちゃんと出来ているのか怪しいもんだ。

人は、どんな時に祈るのだろう。そして僕は、どんな時に祈るのだろう。祈るとは、どういうことだろう。

そんなこと考えていてもしょうがないのだけど、というかいちいち考えるからダメなんだけど、ここまで書いたし、なんか書きましょう。はい。僕の記憶に焼き付いている「祈り」の美はいくつかあって、そのひとつが黒澤映画の「姿三四郎」で観たもの。三四郎と恋仲になる小夜、そのお父さんの村井半助が柔道で決闘することになる。小夜は父の無事と勝利を願って神社で一身に祈る。その姿を三四郎が目撃するのだけど、それが本当に美しい。

僕が思う「祈り」とは、小夜のそれなのだ。ただただ相手の無事を願う。一心ではなく、自分のまるごとで「一身」に祈る。それがどうにもできない。勿論ふざけてやっているわけではない。だけど、いつ黙祷しても、お参りをしても、誰かのことを案じて願うと同時に、そうしている「自分」をどうしても意識してしまう。今、ここに立っている「自分」を離れて投げ出すことができない。

誰かのことを強く想うことはある。だけどその様子は小夜よりも、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』のジョバンニに近い。カムパネルラと共に銀河の旅をするジョバンニは、道中色々な人や風景と出会い、そのたび忙しく、喜んだり怒ったり悲しんだりする。不安定な自我を持て余していてその勢いで急に、誰かのことを愛おしく思ったりする。同乗者の鳥捕りに対して、ついさっきまでイライラして顔を赤くしていたと思えば、そのすぐ後にはこんな様子である。

もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もおうこの人のほんとうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙っていられなくなりました。

振り子の端と端ぐらいに振れ幅があって、ずいぶん身勝手な少年だけど、僕もそんなところがある(苦笑)誰かのことがどうにも愛おしくてたまらなくなって、「あなたのためならもうわたしなんでもできるわ」というぐらいになるのだけど、それは一時の気の昂ぶりに過ぎない。
 
 
 
一身に祈る、ということが出来る日が来るだろうか。震災の黙祷ひとつでこんなことをグタグタ考えなくても良い日が、自然に祈りへと入ることが出来る日が、来るだろうか。それはどんな時だろう。 
 

文章を書くという意識的な行為を続けているのも、たぶんこのことに関係がある。没入できない、我を捨てられないから、せめてその自意識から出発する。自分と他人との距離を直視し、目測し、受け止めるために書く。

祈れないのなら、せめて、敬意と畏怖を。

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