After One Year ~距離とか矛盾、あるいは人間の話~

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NYに留学する前に書いていた旧ブログ、読み返すとなんだかこっ恥ずかしくて(今のだって十分青臭いが)、閉鎖してはいないけど非公開設定に切り替えている。日曜日のシンポジウムでお話するに先立って、当時の自分を振り返る意味でも、この記事だけこちらに転載しておこうと思う。

書いたのは2012年4月13日(金)つまりここでのone yearというのは、3.11を指すのではなくて、自分が初めて牡鹿半島に行った日を節目としてのもの。

ーーー以下、転載ーー
初めて牡鹿半島に降り立ってから、今週で丁度1年が過ぎた。
あの頃とは違う立場、しかし同じ場所で、過ごす日々。

1年前には男7人で、自己完結型で食糧と水を車に詰め込んで東京を出発し、
悪路を走りながら鮎川浜へ辿り着き、ボランティアに向かったのだが、
初めてそこで作業を行ったのが2011年4月9日〜11日のこと。

当時はこうして石巻に引っ越して、
今の団体(つむぎや)の代表友廣裕一と共に
現地で事業を立ち上げるとは、想像もしていなかった。
(途中までは予定通り大学院留学するつもりでいた)

それに、当時の僕の「東日本大震災」 に対する行き方は、
全くの受動的なそれだったと言って間違いない。
先輩に誘われるままに行っただけだから。
牡鹿半島がどういうところで、東北各地の被害状況がどんなものかなんて
全く知りもしなかった。

それから1年、どうなったか。

2011/04/09~10撮影

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2012/04/10撮影

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景色はずいぶん変わった。
僕自身もきっと色々変わったのだろう。

関係性も深まった。
現場を点々としながらボランティアをしていた頃から、
ミクロな数カ所の現場での活動へと、
地図の縮尺が小さくなった分、

瓦礫の山の下に昔からあったその土地や、
そこに生きる人達の暮らしや表情がより具体的に見えるようになった。
毎週顔を合わせ、一緒に泣き、笑い合いながら共に進んでゆく相手が出来た。

とはいえ、だから素晴らしい、めでたい、という話でもない。

知っていること、出来ることが増えればその分だけ、
まだ見えなかったり分からないこと、出来ないことが見えてくる。
事態がここまで進展すればもう安心、という話ではなく、
一歩進んだら一歩進んだ分だけ、また次の問題や葛藤は当然生じてくるのだ。

瓦礫の山が片付いて見晴らしが良くなったところで、
そのまま人の心まで容易に見通せるようになるわけではあるまい。

Facebook でみんなが喜んでシェアする「美談」も、
週刊誌が喜んで飛びつくような「スキャンダル」も、
それは人間生活を構成する一部の事象に過ぎず、
現実はもっと多様なグラデーションで、0か100かでは切り分けられない。
東北であろうとなかろうと、一人の人間の中に様々な矛盾や葛藤が
内包されているのは当然の話で、表も裏も両面。
仲が良さそうな一方でお互い苛立ったりもする。
それが一つのグループに、一つの村に、一つの地域にと、
複数の相似形が入れ籠状に存在している。
「外」から来て過ごす僕たちが見聞きして知るのは、
その土地や人々が持つ多面体のペルソナの、どこか一部を切り取った話に過ぎない。

だから僕は、製作作業やミーティングを通して見る、
浜のお母さんたちの様々な表情の変化や癖、魅力や特技なんかについて、
他人から聞かれれば具体的な名前やエピソード付きでたくさん語ることが出来るし、
彼女たちとも、日々の気候や体調の変化、他愛のない噂話やめでたい出来事、
色んな話題でいつも盛り上がることも出来るのだけど、

その一方、ふとしたきっかけで震災当時の話題になり、

「海を見ると当時の光景を思い出す」なんて言葉が彼女たちの口から出て来た時は、
それに対する「適切なリアクション」なんてものは、全くもって分からないままでいる。

知ってるけど、知らない。
近いけど、距離がある。

そしてその距離は、3.11当時この場にいなかったという事実から来る、
僕が持てる「当事者性」の限界としての距離かもしれない。

この「距離」をどう捉え、どういう行き方をすべきかというのは、
それなりによく考えてきたが、
その距離を越えがたい「断絶」と悲観するのではなく、
ただ現実そのものとしてそこにあるもの、と捉え、受け止めるだけなのだよな、と
結局はいつもの答えに還ってくる。
(そのスタンスで言えば、昔からそんなに変わってはいないかもしれない)

自分と他者との距離というのは、社会に生きる限り
いつどこであっても感じるし存在している当たり前のものだ。

領域の大小はあれど、誰しもが、他者と共有出来るもの、出来ないものを持っている。
それは何も東北の「被災者」—「非被災者」間の話ではなく、
名前がある具体的な個人間であっても当然に、そしてより肉感を持って感じられる話だ。

ここまで書いてきて、あ、また同じような話にやってきたなと途方に暮れるのだが、
自分と他者間の、接近しがたい距離を受け入れてなお、
絆とか共感とかいったものの可能性に希望を持つとすれば、
その方法は、大文字の物語を括る「」を一つ一つ外し、
それを肉感のある言葉と体験に組み替えていくことしかない。

臭いものにも蓋をせずその臭いをかぎ、
神棚に祭り上げて拝むのではなく同じ目線で直視し、
バカの壁を打ち壊し続けていくしかない。

目に見えない空気に翻弄されるのではなく、
この手に掴めるかたちで小文字の現実を把握してゆき、
それを少しずつ飲み込んで咀嚼していくのだ。

簡単じゃないよな。
でも、それを目指すんだよ。
間隙を縫ってゆけ。

P.S.

昨日はOCICAの製作ワークショップの見学に
保険会社の方が来られて、作業後のお茶っこ飲みにも
参加されてお母さんたちとお話されたのだけど、
彼らのお仕事である保険の話題になった時、
津波での浸水や被害の度合いによって、
どこからが一部損壊なのか、半壊なのか、全壊なのか、とか、
全額保証になるのはどういうケースかとか、
そういった保証内容や額、保険料は各会社や組合の保険を比較してどうなのだとか、
うちの場合はどうだったとか、あそこのお宅はどうだったとか、
実に詳細で具体的に、話が盛り上がったのを見て、

あぁ、こうして地震や津波といった自然現象は、
ここに生きる人々の日常生活の中に具体的に、現実的に
組み込まれているのだなぁ、と感じたわけで、

そこで話される内容は、
「」付きのセンセーショナルで距離のある「津波」や「震災」、
はたまた「3.11」とか「フクシマ」とか「被災地」といった大文字の言葉ではなくて、
彼女たちのすぐ隣にある小文字の、津波とか地震なのであり、
自分の家やその周辺の村、地域で起こる/起こったものなのだとも感じたわけで、

地震や津波の被害は、目を背けるべきタブーとか腫れ物ではなく、
かといって土足で上がり込んで騒ぎ立てて良い大衆のための活劇でもなくて、
起こったこと、話されることを丁寧にまっすぐ受け止めていくだけなのだよな、と改めて。

「絆」なんて美辞を高らかに唄い上げるまでもなく、
僕は、今、ここで、この人達と暮らして、働いている。
ただそれだけ。

目の前で日々具体的に変化していく現実を、
0か100かでないその矛盾や葛藤を、
受け止められる強さを持ち続けたい。

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