僕は「神戸」と「東北」を結び付けられるのが嫌だった

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「きっとあなたもどこかで傷ついていたのよ」

先日、阪神淡路大震災から19年目の1月17日に際して書いた記事「黙祷のタイミングが分からない」を読んで、NYのルームメイトに言われた言葉である。

先の記事は、読み返すとずいぶんと及び腰であり、めんどくさく、ひねくれたことを言っている。神戸高校の部活の先輩にFacebookのコメント欄で「黙って祈れ、ボケ」と叱ってもらった。これは全くもって正しい。黙って静かに祈ることができればそれにこしたことはない。だからなんてお返事をしようか3,4日悩んだのだけど、その時点ではやっぱりごちゃごちゃした長ったらしいお返事しかできなくて、言葉を尽くせば尽くすほど、その先輩と地元神戸に不義理を働いているようだった。

そんな折に冒頭のような言葉を言われた。「そうなんですかねぇ」とぼんやり返事をするだけで、すぐにはピンと来なかったのだけど、その後で思い出した出来事がある。
 
 
以前にも書いたことだが、阪神淡路大震災の時、我が家は幸いにして地震の揺れに対しても無事だったから、お家が倒壊してしまった友人2家族が避難してきて、けっして広くはない我が家で彼らと15人以上の大家族共同生活をすることになった(過去記事「避難所暮らしも長田の火事も知らない」 、2013年の1月17日に書いたもの)。

子どもは総勢5,6人いたか。家の中でやんちゃに元気に遊んでいた。そのうち1人と僕とはあまり仲が良くなく、同い年で、そいつの方が喧嘩が強いのでよく負けて泣かされていた。そいつのお父さんは僕の父の友人であり、同じく我が家に避難していたのだが、彼との親子関係は、別に崩壊しているとか大きな問題を抱えているというレベルではいけれど、しかし何か微妙な、ストレートに愛情が届かない距離感があるようだった。そのこともあってか、そいつは僕の父によくなつき、ついて歩くようになった。

ある日、また近くの自衛隊から救援物資でも受け取りに行く用事だったか、そいつと、父と、僕と3人で出かける時のことだった。
 
「なーなー、鈴木のおっちゃんのこと、お父さんって呼んでいい?」
「おぉ、ええで」
 
 
彼と、自分の父とが狭い玄関で並んで靴を履きながらするそのやり取り。玄関が狭いので、一歩遅れて待っている僕。2人の背中。開くドア。

シーケンスとして憶えている。

同い年の少年が寂しさからふと口にした言葉であり、父も優しさからそれに応えたのだということはとっくに分かっている。だけど当時の鈴木悠平少年にとってはそれなりにショッキングな出来事だったのだろう。「お父さんが取られた」と。だけど特に何も言い出すことなく我慢していた。喧嘩にも勝てないし。
 
 
 
 
この出来事は今までも何度か思い出す記憶ではあったけれど、別にそれが大きく自分の人間性発達過程で響いたとも思っていなかったし、ましてやその程度で彼や父を恨んだりすることもない。だから、自分の「震災経験」など大したことではない、東北に行くこととも関係ないと、そう考えていた。それなのにどうして、神戸の震災を語るときに不必要なまでに抑制的になってしまうのだろう。どうして「地元」に対して頑なでひねくれた態度を取ってしまうのだろう。それが不思議だった。

  
「きっとあなたもどこかで傷ついていたのよ」
 
言われてこの出来事をもう一度思い出した。
  
「あっ」これかぁ。
 
 
そうか、僕は傷ついていたのだな。震災で。
 

ここまで理解してようやく、自分の中での神戸と東北、1.17と3.11が繋がった。

家屋自体は無事だったけれど、家を失った友人2家族が逃れてきた当時の狭い我が家は確かに「避難所」だった。そのとき僕は我慢をしていて、その我慢の癖を引きずって今でも生きているようだ。東北や、当時の阪神淡路の様々な地域で起こる、いわゆる「子どもの悲劇」というものは、もしかしたらこんな小さな、無数のエピソードの集まりなのかもしれない。

あるいは、東北出身者である同世代の友人たちが、「地元は嫌いだったんだけど、震災後にやっぱり帰ってきちゃった」と語りながら地元にUターンして活動することも、僕と似たような「地元」なるものへの近親憎悪と甘えと、その受容の結果であるのかもしれない。
 
 
繋がるまでに19年かかった。「地元」とちゃんと向き合い、「阪神淡路の震災体験」を自分の出来事として受け止めるのに、上京して、石巻に住んで、NYに渡って、ふくしまに通って、文章を書いて。こんなにも時間がかかった。
 
 
「神戸出身なら当時の震災も大変だったでしょう」
「やっぱり神戸の被災経験があったから、こうして東北に関わっているんですか?」
「若いのに東北の復興のために身を捧げて、すごいですね」
(ちょっと、待ってよ、やめて、そんなんじゃない。)

自分自身に実感が沸かないのに、「神戸」と「東北」を一足飛びに結び付けられるのが嫌だった。

「被災者」枠、「支援者」枠、「当事者」枠、「神戸」枠、「東北」枠、「フクシマ」枠、「復興」枠…そうした区分けや言説のどこにもフィットする感覚を見いだせなかった。

何を聞かれてもあんまりうまく「理由」を答えられなくて、ヘラヘラと受け流していた。だけれども、それだけで自分の戸惑いを誤魔化しきれるはずもなく、結局何度も書いて、考えてを繰り返すことになった。
 
 
「きっとあなたもどこかで傷ついていたのよ」
 
 
掘り当てた記憶は、あまりにも子どもっぽくて、あまりにも個人的で、そして結局は自分も「震災体験がきっかけ」でしたかと、笑ってしまう。

だけど今ならようやく、素直に祈れる気がする。

19年目と、3年目。

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