ピッツバーグ、エピローグ

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1月の18日(金)・19日(土)とピッツバーグに行ってきた。去年のお話の続きをしようと思って。続きと言えば続きだけど、でも去年のことは、今となっては大した話でもないな、とも思う。会いに行った相手は、Josieというピッツバーグ在住の女性。今博士課程に在籍していて、障害を持っている人々のエンパワメントの活動にも尽力している。金曜の夜に合流して、土曜日には彼女が主催するイベントにも混ぜてもらった。彼女のパートナーや友達と一緒に食事をして、あっという間に過ぎていった。

去年ピッツバーグで行われたユースサミットに呼ばれて参加したことが、彼女との出会いだった。彼女を含め、参加者の一部はdelegate speakersとして登壇し、自身の取り組む活動や想いを語った。彼女のスピーチの後の質疑応答時間の僕の発言が今回のきっかけ。彼女のスピーチの後には会場ほぼ全員でのスタンディングオベーションが巻き起こったのだけど、「みなさんのさっきの称賛は、他のスピーチと比べて彼女のものが群を抜いて圧倒的に良かったからなのか、それとも彼女が障害を持って車椅子に乗っているからか、どっちなんでしょうか」という質問を投げかけた。彼女や他のスピーカーに文句を言いたかったわけではないのだけど、そこに見られたある種の力関係への違和感の表明。しかしそれは、彼女の場合、あるいは「障害」という話題に限った話ではなくて、マイノリティであったりディスアドバンテージを抱えている集団に注目する話題になると、いつでも起こりうることだ。力があったり多数派である集団が、「カワイソウで、不利な境遇にいるのに、それに負けずに頑張った人」の美しい話や業績を手放しで称賛するような構造。温情なのか、努力賞なのか、ゲタを履かせた上で評価するような目線。ただ、当時は緊張していたこともあり、英語だったこともあり、その後の彼女の壇上でのリアクションからも、うまく思いが伝わったか怪しかった。それから、やっぱり少し場をわきまえない振る舞いだったかなという負い目もあったから、オーディエンスのいないところで、彼女と二人で会って話をしなきゃと思った。会場の反応、あるいは僕の発言に対して、どう感じたの?ということが知りたかった。その意図は今回うまく伝わったようで、僕がわざわざ指摘するまでもなく、彼女自身も、これまで様々な場面でそうした目線を感じてきたと言っていた。そりゃそうだ。

その後も、色んな話をしながら時間が過ぎて、彼女が主催するイベントに参加することに。そこでピッツバーグの障害者コミュニティの状況、地域としての取り組みの話もした。そこで、「ピッツバーグの障害者コミュニティの中でも、身体障害を持っている人と、精神障害を持っている人では、グループが分かれがちだったりする?それともけっこう混ざり合ってる?」という質問をしたら、やっぱり障害の特性でグループが分かれがちだという返事だった。彼女の活動は、何かしら障害を持っている若者とその保護者の方々でコミュニティを作って、日々の生活を円滑にしていくための、あるいは仕事を得て働いていくための、情報共有やネットワーキングを行うもので、もちろん障害の種類に関わらず参加出来る。ただやはり精神障害は目に見えない-invisibleゆえのアプローチの難しさがある。「やっぱり、障害者の中にもヒエラルキーがあるわ」と、彼女も言っていた。それもあるよな。

健康/障害、人種、民族、言語、セックス、ジェンダー、社会・経済的な地位、教育程度、居住地、国籍…人が社会を作って生きる営みのなかで、あらゆる区分けがなされる。そして、それら何かしらの共通項を取り出して集団単位で健康や経済状態を見てみると、集団間で統計的にも優位な格差が出てくる。その格差の程度が著しいもので、それが障害とか人種差別とか、集団特性から引き起こされているのならば、そのディスアドバンテージは是正していくべきだ、という話になる。そこから、経済政策や福祉政策を改善していこうという運動が展開される。そうした運動や施策は、ディスアドバンテージを抱えている集団に属している人々にとっては勿論重要なことだ。また個人で動くよりも、共通項を持った人同士で集団を作って働きかけた方が政治を動かすには有効だ。しかしここにはジレンマがある。集団を作るということは、その集団の構成要件に属さない人を排除する危険もはらんでいる。障害、とりわけ精神障害に関わる「病名」は、時代が進むにつれてますますその区分けが多様になっている。また、それらの定義づけやグルーピングに当てはまらない、あるいは当てはまるかもしれないけど、そうだと診断・認定されない/されたくない人、それゆえに表に出てこないが何かしら生きづらさやディスアドバンテージを抱えている人、というのも当然存在する。区分けや違いにフォーカスして集団を作っていくことが、皮肉にもさらなる分断を生み出す可能性もある。終わりのないイタチごっこ。格差を解消したり是正していくことも重要なのだけど、その過程でも生まれる分断を、どうしたら超えてゆけるんだろうね、境遇や分類の違いを超えて、どうやって共通の土台や繋がり、コミュニティを作ってゆけるんだろうね、と、そういう話を二人でした。

別れ際、最後に一つ聞いた。
「二人で昼間に話したように、君がそうして「障害を持っている人々の代表」として、社会に対して呼びかけ・働きかけをしていくことは、Josie自身にとっては、その都度差別や偏見の眼差しを意識させられるしんどさもあるんじゃないの。それでもそうして前に出て行っている。何が君を後押ししているの?」
「これは私だけの人生じゃないわ。前に出て発言することで、自分と同じように障害を抱えている人が少しでも勇気を持つことが出来ればそれで嬉しい。確かに差別を感じることもあるけど、そこで人と繋がることも出来る。こうしてあなたと出会えたように。」
十分すぎるほどの返事。聞けて良かった、またピッツバーグに来て良かった、と思うと同時に、もはや僕たちにとっては愚問だったかな、とも思った。

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