Lightness of free-will / 手持ちのカードで

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August 23th, 2015 Sunday

I want to protect the right to self-determination on my life, and I do respect other one”s right to that. But sometimes I suspect substantiality of ‘free-will.’ Whenever we make a decision, we consider external factors, resources we can manage, other one’s expects, social norms etc. My life and your life influences each other, and both keep changing. Last week I went back to my home, because of ‘obon’ season, Japanese holiday. Especially in Japan, band of family is strong. Parents’ and grand-parents’ will sometimes put pressures on children on their lives. I do thank and respect my families, of course, but when they ask many questions on my life, especially my career, income, private love affairs, I feel irritated. Well, but it’s also my life and my self-decision on how to communicate with my families. Though their life and their will inevitably influence my life, at least I can choose the way to face them.

午前はだらだらと寝て過ごし、午後から稼働。某所で「合理的配慮」の話をした。障害種別やニーズに応じた個別の手立てに関しては色々な例示が出ているが、じゃあそれを実施するまで誰といつどうやって相談すれば良いの、実施した後はどうなるの、と合意形成やメンテナンスの「プロセス」に関する情報がまだ曖昧であるからみんな困っている、というのが現状。このような法律的文言が出てくる前から、やれている学校はやれていただろうし、法律が施行されてからも、うまくいかないところはうまくいかないだろう。地域ごとに、人材育成や設備投資をはじめ基礎的環境もまちまちだから、与えられたカードでどううまくやっていくのかという、生きた知恵を届けていく必要がある。

基本的には、お互い、持てるものを差し出し合う。その中で出来ることを共に探求し続けることだと思う。これは狭義に「障害」の分野とか「学校・家庭関係」に限った話ではないはずで、どちらの側にも「答え」が見えない時のお作法だ。

配慮を必要とする当事者・保護者はできるだけ具体的に困っていることを表明・相談する。配慮を提供する側は、現状のリソースで出来うることを整理して提案する。曖昧なところがあればそれぞれの状況に対してお互いが聴き合う。当事者対当事者では言語化が難しい状態であれば第三者が翻訳に入る。その繰り返し。しんどいけど、その繰り返しの中にしか見えてこない、と思う。

それにしたって、保護者の方々は本当にお子さんのことを考えて多くの不安や疑問を抱いているのだと思う。こちらからのお話を終えた後に質問が途切れなく続き、そのことを強く感じた。少しでも多くのモデル事例を自分たちで作っていくこと、手立て・制度・組織運営…リサーチの網を絶えず広げていくこと、それらを分かりやすく編集して届けていくこと。自分の役割だ。よりスピードを上げていかないと。

仕事を終えて夜に電話を2件。「やるべきこと」、「頼まれて断らずにやること」、「自分がやりたいこと」があったとして、あなたは前2者の優先順位が高すぎるのだと言われ、それはわたしの人生おおむねずーっとそんな感じだなと認めつつ、ある種主体的に受動的である戦略をとっているというか、前2者をやるなかで学ぶこと、気づくこともあるしなー、みたいな、まぁそれは言い訳なんだろうけど。パンクするのか飽和するのか、うまく比率をスライドしていくのか。そうだねぇ。

先立つものは金である。借金返さにゃならんのだよ。

先日帰省して、例のごとく実家の親族一同とのやり取りを淡々とやり過ごしたのだが、また彼らのことを思い出した。

思うに、「新しい世代」の恋愛観・結婚観・家族観がどれほど変容したって、生まれた家に連なる親・祖父母世代との縁を断ち切らない限りは2世代50〜60年の幅で価値観のギャップと向き合わざるを得ない。テクノロジーと自由主義が生殖と育児すら解体する未来が来るかもしれんがだいぶ先だろう。

父方の祖母はお金にがめつく、また悪気なくどこでも誰に対しても自分の好き嫌い、特に嫌いの部分を脊髄反射で言葉に出す人で、そんな人に「ヨメ」や「稼ぎ」のことを聞かれる度に暗澹たる気持ちになる。「結果、ああなった」戦中戦後育ちの祖母の物語に何も言うつもりは無いが。自分はこの人の孫なのだという厳然たる事実。

まぁ、他人の物語の圧力とどう対応するかも含めて自分の物語だ。向き合うのか逃げるのか、向き合った結果、消化するのか、押し潰されるのか、引きちぎるのか、距離を空けるのか。選ぶ余地がそもそも小さいことも往々にしてあるが、それでもやはり、与えられたカードの中から選択する意思は持てるのだ。

「長く短い祭」 椎名林檎
さいきんずーっと聴いてる。

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