Topic: Diary

Diary: 2019/05/28

「もうなんかやっぱり最終的にはフィクションいくしかないんだよね」

売文業をしている同世代の友人たち何人かと、それぞれ違うタイミングで同じような話になった。

本当に切実なことはフィクションを通してしか語りえないのではないかという感覚が強まる。

例の幻冬舎のニュースなどを見ていると、作品を作ることと、作り続けるための環境・基盤を整えていくことと両方やっていかないと、いつ足元が揺るがされるかわかったものじゃないなと思う。

どちらかが終わってからもう片方を、ということはありえず、どちらも「これで完成」ということはないのだから、両面展開でやっていくしかないのだろうけど、脳みその使い方が真逆なものだから、なかなかどうして難しい。

お金というのは、いつでも誰かの物で、それを受け取ることの意味合いや責任が違ってくるから、金額の多寡だけでなく、受け取り方や対価の提供方法、その頻度や分散なども含めて健やかなあり方を考えなければならない。

Diary: 2019/05/03

4月はそこそこ慌ただしく、そこそこ穏やかにへらへらのほほんと過ごした。

説明可能なものに対する関心がどんどん薄れていってほとんど皆無という淵で、しかしまぁそんな人でなしが相談相手になって打ち返してみた言葉がそれなりに役に立つようなこともあるようで、それでおまんまを食っているのか、何にお金がついているのか曖昧ではあるが、おかげさまでそれなりにご機嫌愉快に社会人類をやれている。

ちょっとでも最適化しそうになるとすぐ引きこもりたくなるけどね。

ここ最近立て続けに、幾人かの友たちの世界制作のプロセスにことばで伴走するような形で声をかけてもらい、彼らの精神の美しさに触れさせてもらうような気持ちの良い時間であった。彼らの精神を体現していて、それでいてゆらぎと拡張性があり、手垢がついておらず、彼らの営みと身体感覚にそぐうボキャブラリーを探っていくような作業である。時間を共にして風景画を描いている、とも言える。

これは労働時間をいくらかけるという問題ではなく、歴史のアーカイブからモチーフを引っ張りだしてきたり、道草をしながら音や空気を拾ってくるようなものだから、僕はもっともっと「ヒマであること」に真剣になるべきなんだと思った。

そんなことをしていたら自分の著書の作業があんまり進まないまま4月が過ぎてしまったのでもう少しお尻に火をつけながらがんばろうとは思う。

クリムト展へ行った。

絵画なり写真なり、ちゃんと美術館に行って原画を観るというのはとても豊かな時間で、やはりウェブでタイムラインにさらさらと流れてくる画像群に慣らされていると、厚みとディテールに対する眼が育たないどころか衰えていきそうなので気をつけたい。

早くわかりやすく売れてくことが正義かのような風潮からはどうしても影響を受けないではいられないので、20代〜30代ぐらいの私たちはどうしても焦るのだろうけど、画家の生涯を辿ると長いものさしに立ち戻れて少し安心する。先人たちは40や50になってがらりと違うモチーフや作風にいったりして、その中で試行錯誤を続けていたりする。とにかく思考と筆を止めないということと、ゆっくりだとしても回数を重ねていくということ、新しいことに挑戦するのにこれからまだ遅くはないということを胸に刻んだ。

美しい精神に触れていたい。

愛情とさみしさは紙一重だねって話をした。

気づいたら豆苗が引くぐらい伸びてたので、ざっくざっくと刻んで、その他野菜室に残ってた野菜たちと冷凍庫に残ってたひき肉と、それからおまけに納豆とを一緒に雑多なチャーハンをつくった。同じく冷蔵庫に残っていた冷や飯一杯分より具材の方が多いぐらいだったが、美味しかったのでとても満足である。

在庫一掃雑多チャーハン。
ザイコイッソウザッタチャーハン。
ヤサイマシマシニンニクアブラ、みたいな。
カタカナにするとなんでも呪文。

Diary: 2019/04/22

お昼を食べながらよもやま相談に乗っていたら、いい意味で「砂みたい」だとの評をいただいた。しかしまぁ、言い得て妙である。

移動中、南武線の車内。車椅子に乗った、小学生高学年〜中学生ぐらいの男の子が、車内アナウンスにならって駅名を嬉しそうにつぶやいていて、隣に座るお母さんは、勢いで動く彼の腕が他の人に当たらないようにさりげなく抑えながらもにこにこと話を聞いていた。彼の隣に、ベビーカーに乗った生後2-3ヶ月ぐらいの赤ん坊とそのお母さんがやってきて、2-3駅の間、車椅子の少年とベビーカーの赤ん坊が並ぶ構図になった。それがただ、とても美しいと思った。

誰かを支え応援する役割にある人をも孤立しないように、個人間のホットラインと、集団内での開かれたダイアローグの場を、網の目のように張り巡らせていくことが、色んな意味でサステイナブルなんだろうという実地感覚をますます強める。

「語りえないことについて語ること」から始めるという知人の寄稿文を読む。本当に大事なことは語りえない。断片を語ることによってその語りえない空白の輪郭を描くことはできる、ということだった。

もっともだという戒めを受け取りつつ。

同時に、やはり最終的にはフィクションの方にいかざるを得ないという予感を覚える。

Diary: 2019/04/21

4月に入って3週間。昨年度より引き続き、の部分と、ちょっと動きつづも徐々に引き継ぎフェードアウトしていく部分と、新しく本腰入れて挑戦していくことと、それ以外もろもろの日々の暮らしと。世の中スパッとシンプルには切り替わることばかりではなくて、絵の具を垂らしたマーブル色の水の色合いが、比率が、じわじわと移り変わっていくような感じで進んでいく。

今まで以上に自由にふらふらと動けるようになって、もはや何屋だという感が強まっているけれど、性分に合っていると思う。詰め込みすぎないように総量コントロールは大事。

「寛解」はやっぱりもう少し先かなぁという感覚。やはり土日はぐでーんと寝ている。

「寛解」したとしても、それは病気になる前に「もとどおり」ってことではないだろうと思う。最大HP・MPが下がったままの状態で、どう自分の心身と折り合いつけながらやっていくかという世界。そういう変化を悪いことだとは思わないけどね。

夏目漱石が『草枕』で描いたような”非人情”の世界に自分は生きているのだなと改めて自覚する。関わる人たちに対して誠実たろうと思うが、一方で個別の事象・経験はすべて芸の肥やしというか、人類とか普遍性のこと考えているので薄情になるというか、みんな大切だけどみんな大切じゃないというか。

これまでの人生で出会い、関わってきた人たちに愛着や誠意や責任感は確かにあるんだけど、一方でものすごい淡白で薄情っていうか、まぁみんな諸行無常いろいろあるよねみたいな醒めた目線があり、出会ってきた人と交わしてきた言葉、やってきたこと、それを最終的には書くことしかないんだろうな。

Diary: 2019/04/08

年度が変わって最初の一週間。思いの外めちゃんこ働いてしまった。怒涛の引き継ぎと締め作業。

無事、発達ナビ編集長を引き継ぎました。 https://h-navi.jp/column/article/35027281 いやー3年間よう働いた。仕事や所属が大きく変わるときに、なんの憂いも未練もなく、むしろより大きな期待を持って手放せるというのは、幸せなことだと思う。

これからのことを書いた。 https://note.mu/yuheisuzuki/n/n537181561d75

この週も、ここに書いたことに関係する動きがいくつか動き出していて。

会社の方で、これから伴走していく新たな仲間との面談。訥々と、どきどきそわそわもありながら、でもまぁこれから楽しみだねって、1時間ぐらいお話した。彼女に僕はどんなことができるだろうな。

PIECESの全体会にはじめて参加。団体が2つにわかれて、PIECESはPIECESでこれから新たな体制でスタートするにあたってみんなでお話。まだ「ことば」は最終的決まっていないなかでも、「目指しているのは、こういうこと」というのを、いまの段階で語れる限りにおいて語り、それをもとにまたみんなで感じたことを分かち合う。しっくりきたこと、もやっとしたこと、どちらもフラットに出てきていて、なかなかいいなと思った。

アパートメントのリニューアル会議。サイトの構成や機能はだいぶかたまってきて、それをどうデザインも込みで表現するかというところで、いよいよ本腰です。

soarは、今年はちょっと今までと違う感覚をスタッフも経験するかもしれないな。踊り場的な時間に、焦らずエネルギーを蓄えること。その中でもどこに向かっているかを見失わないこと。

西村佳哲さんの『自分の仕事をつくる』を久しぶりに再読。自分が今年出す書籍も、こんな風に旅をして書いていくイメージ。編集していただくのも、同じ晶文社の安藤さん。がんばるぞ。

4/2-4/6の間、友人たちと一緒にファスティングをした。ファスティングすると感覚が冴えるってみんな言うし、実感値としてそれはあるんだけど、なんか躁鬱の躁っぽい状態に近い気がして、そういうときって全能感出てきたりしてそれがあまりよくない方向に働くこともあるからまぁ良し悪しだよね、セルフコントロールはどういう状態でも大事だよねっていう。

日曜日、鎌倉の方にお見舞いに行く。「ゆうへい、まだ本調子じゃないね」と、お見舞いに行ったのに病歴が長い先輩にそう言われてしまってなんだかわらった。「いやーもう70%ぐらいですよ」「いや30%ぐらいっしょ」「もう平日日中は働けるんですけどね、土日はやっぱほとんど寝ちゃいますね」「そうだろ、働けちゃうんだよな。だから治んないんだよ笑」だって。へへへ。

自分の身体や社会関係のなかのさまざまな「リスク」。どんなリスクがどの程度あるかというある程度フラットな見積もりと、その上で、仕事の種類によるそのリスクの受け取られ方の違い、など。

病院のエントランスパネルでは「がんと哲学Cafe」っていうイベントのお知らせがあった。近くのお寺でやるんだって。

帰り際、「なんか僕にできることあったら言ってくださいね」「お前そういうこと言うから色々仕事抱えちゃうんだよ」って。へへへ。

Diary: 2017/08/14

いつだってお金もヒトも時間も、資源は有限なので、やらないことを決めたりとか、明確な目標と指標を持ってそこに向かって資源を投下していくという判断は必要なのだけど、それはそれとして、人とかサービスの非線形な進化は既知の視野と前提の延長からはなかなか生まれないもので、それらはやっぱり聴くことー普段の会議とは別でスタッフと1on1するとか、dailyの数値報告ばっか読んでないで生身のユーザーに会いにいくとか、人が集まる場を観察するとか、そういう機会を意識的に作っておく必要がある。そのためにはやっぱり一定の余裕が必要だ。

関わる一人ひとりが何を望み願っているのか向き合えるだけの感受性と余裕を持っておきたいし、一人ひとりの本気の「やりたい」とか、それが偶然出会ったときのセレンディピティを、「できたらいいね」で終わらせずにちゃんとサービス・コミュニティの進化に結びつくかたちで企画にできるキャパを持ちたいし、そのためにはまぁ直近もうちょっと稼いで余剰を作る必要はやっぱりあるし、そう考えると短期的にはまだまだしゃかりきやらんとなぁというところでもあるけど、まぁでも倒れたり感性パサパサになったら元も子もないので(はじめに戻る)、踏ん張ったり折り合いつけたり短期で目に見える成果を出したりまぁそこら辺はうまいことやりつつ乗り切っていくのだ。

Diary: 2017/08/08

「うまくやろう」という内圧は恐ろしいもので、それは他人に「見られている」ということを意識すればするほどそうだ。

「予定調和は嫌なんだよね」と言いつつ、ちょっと油断したり、慣れたりすると、考えずにこなれた結論や対応に寄せていってしまうもの。

小さなミスやほころびは指摘もしやすいしそれ単独の手当も容易い。

ほころびを許さずスキマのない時間・空間・振る舞いでがんじがらめにすることで、減点はなくせるかもしれない。そこで失われた学びの機会に目を背けて良いのなら。

「守るべきもの」と思っていることが、実は自分で勝手に大きくしてしまった幻想であったり、鎧を脱いだ先に得られるものの大きさを考えると些末なものであったりすることはきっと少なくない。
  
 
 
少し乱暴に書いたきらいはある。

現実はもう少し複雑で、簡単ではなく、多くの善意と頑張りと漸進的改善のなか、しかしどこかで不調和が起こっている、というようなものなのかもしれない。

そうだとしても、そうであるならばなおさら、今、ここにいる当事者である「わたし」が本当にすべきことはなにか、を考えるべきだ。
  
 
留まることより変わり続けることの方がよほど難しく、だけどきっと楽しい
 
 
昨日はひさしぶりにconfort zoneの外側に踏み出すような経験だった

心拍は上がり、終わったあとにどっと疲れた。ただ、少しの心地よさと、いつもとちがう「感触」を手にしている

Diary: 2017/07/25

もう少し好きにやった方がいいんだろうなと、最近。

こないだ管理職研修の一環でストレングスファインダーをやってみたら、周囲の人たちが「戦略性」とか「最上志向」とか出るなかひとり「運命思考」とか出ちゃったもんでお笑いネタだったわけで、そんな自己啓発本に影響されるかよーとか思いながらも、まぁやっぱりそうだよなぁという納得感というか諦めもあり。

頭と言葉と調整力を使うのならば、予定調和なところに寄せにいくんじゃなくて直感を正解に変えていけるだけの環境をつくっていったほうが、結果皆さまのお役に立てるのではないかと思う。

先日、編集者としてもひとつのブレイクスルーだったなという記事が一本ありました。
https://h-navi.jp/column/article/35026458

組織運営上は、コツコツと積み上がってはいるものの、ややプラトー気味というか、チームメンバー一人ひとりにもう1,2段のジャンプが求められるところで、ただ自分の介入のタイミングとして、個々が考えて試す余地をあまり残せていないなとか、そのための時間的余白を作れていないなとか、そこら辺の問題意識と反省もあり。方向性と役回りと期待値と、もう少し思い切って踏み込むのも一つかなと思いもする。

書き手としてはめっぽう筆も重くなり原稿も溜まる一方ですが、今日は久しぶりに、というかこれまでで1,2に入るぐらい、いいインタビューの時間を過ごさせてもらったなという感触があり、これがひとつのきっかけになればと願う。

先週は大阪・仙台・長野となんだかよくわからない頻度と距離で移動をした。
さすがに週末はぐったり疲れたけれど、たくさん動いて人と会って話をして、あぁでもこれが僕の本来担うべき役割や動きだなぁという実感も。

どのみち器用に理詰めで動ききれないところはあって、効率を言い出すときりがないけど、ランダムウォークからのセレンディピティみたいなものの積み重ね、あるいは数珠つなぎでここまできたところはあるので。

何かしら理由をつけて月に一度ぐらいはどこかへフラッと旅に出るぐらいの過ごし方をほんとに確立させていこうかなと。

思考や価値観が滞留しないよう、なるべく風通しよく
だけど、感じたものを咀嚼し言語化するだけの時間は確保できること

あとはそうだね、こぼれた球を拾ってくれたり、〆切逆算でケツ叩いてくれる優秀な編集者さんをだな…

Diary: 2017/07/03

違和感センサーというのは大事だなと思う
それから、違和感を感じたときにそれを表明し、ふんばる勇気というのも大事だなと思う

それからこの両者は相互に連関していて
勇気を出して違和を発するということを、あまりにしないままでいると
違和感をそもそも感知できなくなってくる
センサーが鈍ってくるのだ

異なる利害関係者の間に立って調整する
現実的なプランに落とし込む
いずれも実務家としてやっていくは必須とされるスキルなのだろう

それ自体が無駄だとは言わないけれど
習慣というのは恐ろしいもので
調整役に回ることがあまりに続くと
そもそもの目的としていた出発点からそれていったり
些末なことに気を取られてエネルギーが分散したり
しまいには
本当は「利害関係者」の他ならぬ一人である自分の意思を疎外することになっちゃったりして
たまに浮かび上がる違和感にも自信が持てず、「まぁみんなの言うことも一理あるかぁ」みたいな感じで
知らず知らずのうちにおさえつけちゃったりするもんだから
要注意である

今日はいくつか
全体としては小さいけど
自分としてはけっこうな意味がある意思決定をした

「そもそも」のところにどれだけフォーカスできるか
そのためにどれだけ余分なものを手放せるか

小器用に並走させるにも限度があるので
そろそろ「やめる」「手放す」ことの持つ効果が大きくなってくるフェーズかな

実務をやりながら、その上でどれだけ感性を瑞々しく保っていけるか
ちょっとしたリハビリのような気分だよ