Monthly Archives: July 2013

雨とワックスのにおい

本を読んでもノートを開いても、文字が頭に入ってこない。
こんな日もあるかと、電車の座席に座って思考を止めた。
丸の内線は実は荻窪まで伸びている。

降りる駅だと思って席を立ったが、あとひと駅先らしい。
空いた車内で一人立っていることの意味を考え続けるほどの力もなく、
さっきの座席の斜め向かいに座り直した。

さっきまで僕と同じ列、2人分ほど空けて座っていた男性は、
落ち着きなく辺りを見回し、僕と目が合うとぼそり「なんだよ」と吐き出す。
そうだな、僕は、なんだろう。

アナウンサーがカメラのレンズの少し上を見るようにして、彼の輪郭をうつろになぞる。
突然課された宿題の答えが出ぬまま目的地に着いたので、
手すりをだらりと持って身体を引き上げ、彼の横を通って車外へよじり出た。

ホームに降り立つと雨のにおいがしたが、階段を登って地上に出てみれば、とっくに上がった後だった。
そしたら今度は、ついさっき美容室でカットの後につけられたワックスのにおいが妙に鼻にさわり出したから、
足早に家に帰ってまとめてシャワーで洗い流した。

SAMSUNG

今日は土曜だと思っていたら、どうやら日曜らしい。
手持ちのケータイは手ブレがひどくって不可ない。

自己責任論のズレ

田中龍作ジャーナル | 「奨学金」という名の学生ローン 1,000万円超す借金抱える若者も
奨学金を自己責任の問題にすると日本が滅ぶ – 技術教師ブログ

奨学金の返済困難や就職難といった、若者の社会・経済的苦境の話題になると必ず出てくるのが自己責任のシバキアゲ論なのだけど、あれがなんでズレてるかって、ああいう言説の適用範囲を想像してないからなんじゃないかなと思う。

自分の人生をどの程度主体的にコントロールできるか、と考えたときに、その度合い(能力面でも意思の面でも)が大きければ大きいほど自己責任論はすんなり受け入れられるのだろうけど、その逆、個人じゃどうしようもないレベルまでトマホークをぶん投げるから不味い。

現在から見て未来を考えて作っていく場合であれば、先のことは分からないわけだし、また意思決定の主体が社会的にも自立した大人であれば「自分の人生は自分で考えてなんとかしろ」と言っちゃえるのかもしれない。
で、そういう言説を好むのは、だいたい社会的にもある程度成功して、「自分の人生は自分で切り拓けるし、切り拓くべきだ」という信念を強固にした方々なのだろうけど、彼らが自分と近しい人・近しい環境―たとえば、激務の外資系コンサル・投資銀行に自分から就活して入ってきた、それなりにタフな学生・若手社会人に対して上司・部下の関係で言うならまぁ分かる。
だけど、その言説のスコープを社会全体に広げるのは無理がある。子どもたちにはコントロールできない生まれ・育ちの時点での社会・経済的格差や、青年たちにはコントロールし切れない景気・就職の動向や卒業後の稼ぎの見通し、教育の質を無視してマッチョになれと言われても、無茶でしょ、と思う。

難しいのは、こうした話題の渦中にある20歳前後の青年期が、保護・教育の客体としての側面(子ども)と自主・自立した主体としての側面(大人)が折り重なった時期であるからだろう。加えて、社会が成熟するにつれてモラトリアム期も長くなっていく傾向にあるから、すでに中年・壮年となった方々の当時の若者感覚とは当然ギャップが生じるのであり、最近の若者は情けない・根気がない・のんびりしている・覇気がない⇒だから就職できない・奨学金を自分で返そうともしない、みたいな発想に陥りやすいのだと思う。

借りたお金は返す、というのは当然のことだし、学生支援機構の奨学金も、名前は「奨学金」だけど実態は貸与ローンであることぐらい、申し込み時にどんな学生だって書類を書きながら普通は自覚・理解する。返す当てがないなら借りるな、それぐらいの金銭的・経済的判断・マネジメントは大人なんだからちゃんとやれ、と言う人もいるかもしれない。
とはいえ、多くの学生は、高校・浪人から上がって大学に入ったばかりタイミングで学生支援機構の奨学金(ローン)を申請するわけだし、その時点に様々な不確定性・リスクを見越して、奨学金を借りるかどうかの判断を下したり人生設計をできる学生なんてほとんどいないと思うんだけど。ましてや、最初から返す気が全くなくて踏み倒してやろうなんて気で借りる人なんかほっとんどいないはず。
入学後も学業や課外活動や就活に追われるうちに、そうしたフィナンシャルプランを立てることは後回しになりがちだ。それぐらい在学中にできるようになりなさいというなら、それを教える・促す人や仕組みや教育機会はもうちょっと必要だろうとも思うし。

高い教育を受けて、ビジネスの世界でも組織を運営したり仕組み・構造を作る側に回っているような優秀な方々が、こういう話題になると急に視野狭窄のマッチョ自己責任論を振りかざすのを見ると、なんだかなぁ、と思う。

P.S.
というわけで、渦中の若者世代からしたら、なんでもかんでも自己責任論にせずに、きっちり構造上の議論や法制度改正をしてくださいよってことなんだろうだけど、「若者」という集団・立場さえもとっぱらって、一度切りの自分の人生を生きる、根源的な当事者たる「わたし」の立場からしたら、結局「今、ここ」から出来る最大限の抗いをするしかないのだ。

一度きりの人生単位で考えたら、「わたし」の生まれたタイミング・環境が不運にして相当程度不利だったり、そうした状況に対する社会的・構造的な是正措置が取られない、あるいは間に合わないこともある。それはもう当たってしまった以上仕方ないことだから、頭使って一番マシな戦略を探して行動し続けるしかない。文句言ってても誰かが助けてくれるとは限らないし、諦めたって状況は好転しない。
1)既存の仕組み・環境のなかで最大限頑張ってマシな待遇を得て、サバイブし続ける。
2)既存の枠組みを変えて新しい仕組みを作る、そのためにできる様々な働きかけをし続ける(記事にあるようなデモもその一つかもしれないけど、必ずしも有効で賢い戦略とは言えない)。
3)今いる環境から逃げ出し、よりマシな、より自分にフィットする環境や社会を見つける。  

できることってだいたいその3つしかない。あるいはその3つを同時進行的に、あるいはこまめにスイッチしながらトライアンドエラーを繰り返すしかない。

あわいを生きてる

公開しない体で日々の日記をつけていたけど、ここ数日の出来事や考えに共通点があったので、
そのまま載っけちゃおうかと思って。たまにはね。

何かと何かの、間
あわい
そんなテーマで。
(だからこの記事も、構成と非構成の、間にあるのだと、そんな言い訳をしてみるのです)

2013/07/04 Thu.

スパイラルに陥らないように。
その瞬間の自分の素直な感覚に従うことも大切だけれど。
一方で、「そう思おうとしている」自分の存在、無意識に形成された強迫観念を、ある程度対象化することも大切。
まぁ、意識する、気をつける、では習慣は変わらないのだけど。
どこかのコンサルのおっさんが言ってた、時間の使い方、環境、人付き合いを変えろ、という主張だけど、
habit(習慣)に関する学術研究においてもおおむね同じ事が指摘されている。
 

 
「誰もお前の細かい行動なんか気にしてないよ」

時折自分に言い聞かせる。

* 
 
社会は巨大なお芝居の舞台で、人生はその中でいくつかの役割を順に、あるいは同時に、あるいは交互に演じていくことなのだという話をした。
理解した上で、役割に準ずる、時に外す/トチる、反逆する人
理解しないままで、踊らされる、反発する人

ひとつのペルソナだけを見て、相手の「人間性」を断定したくないといつも思っている
知らないところ、覆い尽くせないところはいつでも残るから
それでも知りたい、重なりたいと思うのが人情だけど
永遠の追いかけっこ

東京という街で生きることをどう表現したものかって、たぶん、その身を「浸し」ているというのが一番感覚に近い。今のところ。

同じ都市と言ってもNYとはまた違う。NYでは骨と輪郭を持って舞台の上に立っているような感覚が強い。
NYは街全体がジャズのようですね、と言った人がいた。

2013/07/05 Fri.

担当していたインタビュー記事を朝に仕上げて入稿。
ちょっとずつ、書くお仕事、していきたい。

書くことに限らず、社会と接続してバランスを取るためには、
何かしらのお仕事を持っていることはやっぱり大切だな、と何度も思う。
僕のように内側に潜りがちな人間は特に。
そんなものがなくても出来る、というのが理想だけど、
締め切り、読み手、上司・同僚、クライアント、商品・サービスの購買者・購読者etc.
仕組みやスケジュールのなかで否応なく他者の存在が可視化されているというのはやっぱり有難い。

お勤め3週目が終了。早かった。

それにしてもキャッシュが無い。
試用期間が終わり今週からお給料が発生しているのだけど、
振込は来月になるから今月は緊縮財政。

心は錦ってね。

ここ数週間ずっと咳が出る。なんでだろう。
風邪ぽっかったけどくしゃみとかはもう治ったしなぁ。
この夏は無保険だから病院行くわけにもいかない。

ノマドとかそういう流行り言葉はどうでも良いのだけど、
図らずもそっち界隈に近いライフ・ワークスタイルになりつつあって、この先どうなることやら。
国籍、戸籍、住民票、国民保険、年金、住居、そういうハコにちゃんと収まっていない不安定さはある。
移動が多いと荷物を多くできないから、家具とかかさばるものは買えない。買うお金もないが。
(本だけはどんどん増えていくから困る)
ま、なんとかなるんだろうけど。
確固たる足場や肩書きを外部から与えられなくても、
自分でちゃんと生きてる人の具体例が身近に多すぎるからな。
国籍ひとつとっても、日本とアメリカの(こっそり)二重国籍だったり、
あるいは故郷を追われて難民となった人だったり、
在日外国人だったり帰化したり、色々いるからな。
それぞれの人がその境遇ゆえに背負った大変さもあるし、
社会現象としてどう議論し対処すべきかというのは別の議論としてあるけど、
ひとりの人間が、生きる、生き抜くということからしたら、究極的には瑣末な問題だ。

一方で、HOMEがある、HOMEを持っていると思えることは、人が健やかに生きてゆくうえで大きな支えになる。
「ただいま」と「おかえり」を言える関係性、日常。
最低限それだけでも、みんなが持てる社会だと良いなぁと思う。
それは必ずしも「地元」的なひとつの土地や街でなくたって良くて。
時期によって変わったり、複数持っていても良くて。

ふらふらと移ろいながらも関わってきたいくつかの分野に共通しているのは、
自分自身の居場所や役割、心身や健やかで穏やかな暮らし、あるいは安らげる暮らしを持てなかったり、
そういう出来事に直面した/している人たちがいる、ということだろう。
紛争、障害、災害etc.

富岡や小高や飯館や浪江の人たちのことを想う。
いつかの将来に(場所によっては数世代先になるだろう)、帰ることが出来れば幸いだけど、
新しい場所での直近の暮らし、ここでも別のHOMEを持つことができますようにと願う
 

 
本当は、 
「大丈夫であるように」と、そう願っているのは他ならぬ僕自身でもある。

2013/07/06 Sat.

起きてみたらなにこの暑さ。
梅雨、もう終わり?まだ?もうすぐ?

梅雨と夏の間。

少なくとも、僕の今日の気分は夏、夏だってばさ。

夏だ!と思った時に聴く曲は決まっている。

JUDY AND MARY Brand New Wave Upper Ground

おいかぜーをーたっどぉればーくもーがーはーれてゆくー!
ってね

少し前にちょっとおセンチな気分になって、あまり人がいない静かで肌寒い海に行きたい、なんて言ってたけど、
太陽いっぱいの夏の空の下、海辺や桟橋を走るようなこともしたい。

女心と秋の空、なんて言いますが、
男だって、夏だって、いつでも表情と気分は変わるんです。
昨日と今日の間。
ネアカとネクラの間。

2013/07/07 Sun.

昨日公開したみちのく仕事のインタビュー記事がけっこう好評で嬉しい。
書き手冥利に尽きる。

震災後、「東北との関わり方」をどうしたら良いか/どうすべきか/何ができるのかといった悩みや相談と出会うことが多かった。
あるいは最近は、震災に関わらず、主に若い世代の間で、「働き方」や「暮らし方」そのものを考えなおす/問いなおすということがちょっとしたトレンドになっているように感じる。

伴って、方法論や形式論が盛んに議論される。株式会社/NPO/一般社団法人/任意団体、雇われ/起業/フリーランス、都会/地方、Uターン/Iターン、日本/海外、就職/進学/休学 etc.
こうした話題がトレンドになるのは、今まで主流となっていた(らしい)働き方に疑問が持たれ始め、ある種の過渡期にあるからだろうと思う。震災が人びとの心を揺さぶり、こうした問いかけや悩みを加速させた面もあるだろう。
方法や形式が内実を左右する割合はとても大きいから、自分にとってどの方法・形式がピッタリなのか考え続けること自体は大切なことだと思う。

ただ実際は、二者・三者択一で選び取られるほど働き方というのは単純なものではないし、どれかひとつの形式が他に比べて優れているというわけではない。
なので、考えること自体は大切なのだけど、一方、考えているだけで答えが見えるわけではないのも事実で。
また、最初から不変不動の最終的な答えがあるはずもないというのも事実で。
やってみて初めて分かる、ということもたくさんある。

流動的な状況・自分自身の変化・成長に合わせて少しずつシフトチェンジがなされ、だんだん落ち着くべきところに落ち着いていくもんだと思う。
人間ひとりの人生単位で見たときには、上記のような形式論の粒度では掬いきれないだけの多様性と流動性がある。何かひとつを選んだように思えても、2,3年後には考えも働き方も大きく変わっているということは十分あり得る。

昔誰かが言ってた「会社に人生を預けるな」という言葉には共感するところだけど、
自分以外の誰かが掲げる「働き方論」に自分の選択を預け切ってしまうことも、組織に身を預けることと本質的には変わりない。
山を登る時に、得体の知れない「誰か」に上からロープを垂らしてもらうよりは、
時間がかかっても、ハーケンをひとつずつ打ち込んで、自分で登っていきたい。
 
 
「答え」なんてものが仮にあるとしたら、それはいつも何かと何かの「間」にだろう。
掴めるようで掴み切れないから、リアルタイムで触れてはすれ違う。
「わたし」と「あなた」の間
「個人」と「組織」「社会」の間
「自分の働き方」と「あなたの働き方」の間
「現在の自分」と「未来の自分」の間
「実践」と「言論」の間

あわいを生きてる。

文の月

「2週間ぐらい文章を書かないでいるとほんとに筆が進まなくなるよね」という話をつい先日、友達としたところだけど、まさにそんな状況に陥っていたところ、6月が終わり、文の月。

福島から東京へ帰り、お勤めが始まり、阿佐ヶ谷仮住まいの渋谷通いの日々。
最初の2週間、先行研究のレビューを担当したが、
あまり研究が進んでいない領域のため、問題や仮説設定、仕事の出口も見えづらく、
社員さんと相談しながら手探りの日々。ここ数日でようやく道筋が見え、それを共有できたところ。
気持ちも思考も上向きつつある。
ここからが研究の本番。丁寧で精緻な思考と作業が大事。
 
 
ここ2週間ほど、トンネルや霧のなかにいるような感覚があった。
 
 
生老病死を仕事や研究の上で扱うことって、じわじわと心に来る。
東京に帰ってきて働き出す前に3週間を福島で過ごしたこと、その前に実家に帰って家族と会ったことなど、
いくつかの要素が今の自分に効いていることもあるけど、
健康や病気に関わることゆえ、機械的に作業をひたすら進めることもできず、色々と考えてしまう。

人の心理や行動を色々な要素を切り分けて統計的に分析していくアプローチ、
限定した変数に注目して相関を見出し、集団に対して大雑把に面で介入していく公衆衛生の営みでは、
生命を全体として見たときの奥深さと儚さに接近することはどうにも難しいように感じる。
それが必要無いとか無駄だとは言わない。
集団レベルで判明したことは、個人が生きるうえでもやはり有用な指標や目安となるから、むしろとても大切なこと。

たくさんの先達の取り組みがあること、批判と再検討の繰り返しのなかで、
全体像を掴む努力が続けられてきたことも勿論分かっている。
(広島・長崎の原爆、チェルノブイリ事故、その他多くの核実験・事故の犠牲者がおり、
そうした人たちの存在を無駄にしないためのたくさんの研究があったおかげで、
今回の福島第一原発事故において過去の事故よりかなり被ばくを抑えることができた。
もちろん災害対応が完璧だったとは言えないし、健康被害に関してもまだまだ予断を許さない要素はあるけれど)
無駄なことなんてない。漸進的な探求の一端を担う意識と自覚は持ってなきゃ、と思う。
探求の結果、新しいことを知ると、単純に嬉しいし、楽しいし。
 
 
だけど車の両輪として、やはりもう一方のアプローチも必要に思う。
少なくとも僕が生きるうえではそちらが欠けると気持ちが悪い。
個別具体性を捨てない、「私」の主観的な感覚からスタートする、
そういう、個を掘ることで普遍性に接近するような営み。
禅とか踊りとか祈りとか歌とか写真とか、人によって手段は違うのだろうけど、
僕にとってはそれは文章を書いて言葉を編んでいくこと。

それが全然できてなかったのがここ2週間ぐらいのこと。
 
書きたいことはいっぱいあるはずなのに、原稿用紙やブログに向かってもほとんど何も書けない日々が続く。
モヤモヤとフラストレーションを抱く。それらは次第にさみしさと欠乏感へと転化される。
内心状態の揺れはさて置き日々のルーチンをあまり問題なく送れるぐらいには平静を保つ術を身につけてきた今日この頃。
幸か不幸か、それゆえに身体の内側に濁りが留まり溜まってゆく。

文章を書いて、膨らましたり削ぎ落としたり、その過程で内省したり、
丁寧な歩行を出来ていない状態で、
呼吸が浅いままに惰性でSNSなんかに言葉を放流しても仕方がない。

それっぽいフレーズ。
毒にも薬にもならない。
誰も傷つけないけど誰も救わない。
伝えたい想いも傷つく覚悟も備わっていない。
そこに熱も重みも乗らない。
自分がいちばん分かっている。

自分の感受性を守るのも、取り戻すのも自分しかいないのだということ、
それも知ってる。

NYにいた頃にやっていた日々の営みを、ここ1週間で少しずつ取り戻している。
身体のストレッチ、お茶を飲むこと、自己流だけど、お祈りとか、瞑想とか、そういう些細なこと。
「忙しさ」に自分の心を差し出さない。
 
 
渋谷駅南口、首都高3号下の歩道橋で、玉川通りを走る車を昼休みにボーっと眺める。心が凪いでいく。
お昼に外の空気を吸って街や空を眺めることさえ忘れていた。

今日は風が吹いていて涼しい。空は曇っているけどジメジメした湿気はない。もうすぐ梅雨明けかな。

文の月。弛緩してないで、書くことにちゃんとしがみつこう。リハビリから。
やっぱり好きだし。